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4章 アラサー女子、年下宇宙男子に祈る
4-9 彼のいる世界に耐えられず……
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宇関キャンパスのホームページにも先生方のインタビュー動画が増えてきた。
災害対策関連研究のコーナーを始め、トピックごとの研究紹介も少しずつ増えてきている。
大学購買部に、薄皮揚げ饅頭が並んでいる。売り上げはボチボチといったところらしい。
納品された入学案内のパンフレットを配る。
沢井さんに提案し、月祭りのレポートをホームページにアップさせてもらった。ブースを出した研究室へのリンクを張って。
仕事があるのは本当に助かる。彼のことを考えなくてすむから。
なのに沢井さんは残酷な仕事を持ちかける。
「宇宙観測衛星打ち上げのホームページを更新したいの。テキストと写真に動画送るからアップして」
私は極めて事務的に、作業をこなした。
流斗君の写真やコメント、そして動画の研究紹介。
宇宙の始まり、ビッグバンの前にあったインフレーションを探るためのプロジェクト。宇関キャンパスとしても大きく取り上げている。
動画の彼の声を確認する。久しぶりに聞いた彼の声。二度と彼が私のためだけに話すことはない。
仕事とは関係ないのに、大学で彼のスケジュールを毎日確認してしまう。彼の取材担当である海東さんの動きが気になって仕方ない。
昼休み、つい、宇宙棟の近くまで行ってしまう。彼の研究室のあるフロアに目を向ける。
毎日、何かを伝えたい衝動と戦っている。
どうしてる? 元気? 打ち上げは順調? いつから宇宙研究センターに行くの?
メッセージを書いては消しての繰り返し。
自分で最後だって決めたのに。
あんな愚かなことさえしなければ、穏やかに彼の研究の成功を、祈っていただろうか?
最悪の別れから、二週間経った夜、久しぶりに真智君から電話があった。
「那津美さん、全然、研究室来なくなっちゃったね。さびしーなー」
相変わらずチャラい。
「用がないもの。それより杏奈ちゃんとはどうなの?」
月祭りで私の元教え子の彼女と、いい雰囲気だったことを思いだした。
「い、いや、おれ女子高生には手、出してないって……」
来年から彼女は女子大生になる。心配だ。
「とゆーか、那津美さん、流斗と喧嘩した?」
以前も真智君は、そんなことを心配して声をかけてくれた。
「センセー、怖いほど優しくて何しても文句言わないし、部屋に籠りっきり。しかも、またボサボサ頭に戻った。ほら、流斗先生の髪がちゃんとしてるときって、那津美さんが泊った日でしょ?」
うわ! そんなことで彼と私の行動がバレてしまうのか。それなら流斗君、私がいないときも、ちゃんとヘアセットすればいいのに。
「那津美さんとどうしたか聞いたら、何も言わなくてさ。喧嘩したなら仲直りして欲しいんだけど」
「喧嘩なんかしてないわ。ただ朝河先生は、研究に専念したいだけ。私もそれが正しいと思うの」
ちゃんと付き合ったわけでもないから『別れた』とわざわざ宣言することもない。
「専念してるって感じでもないんだよな。ずっとぼーっとしているみたいで」
「真智君、自分の研究がんばりなよ。朝河先生も真智君ががんばれば大丈夫よ」
真智君は、先生でもあり後輩でもある彼を心配してくれる。
もし、私のせいだとしたら、あんなひどい別れ方をしたため?
だったら、もう一度ちゃんとしたお別れすれば大丈夫?
帰り道、つい彼の住むマンションの前を通り過ぎる。
彼の部屋はどのあたりだろうか? この時間にはまだ帰ってないだろうが。
家に戻ったら、スマホの前でぼうっとしている。
メッセージが来たら返信しないと。電話来たらすぐ出ないと。そんなことはないのに。ケータイ会社からのメールがポツポツくるぐらい。
が、珍しく、業者ではないメールが届く。
流斗君ではない。葉月さんからだった。そして、そのメールが私に致命傷を与えた。
本文には「いい写真でしょ?」とだけある。
添付ファイルの写真をタップした。
それは、白いウエディングドレスを着た彼女とグレーのモーニングを着た彼のバストショットのスナップ写真だった。
写真の背景はぼやけてわからないが、どこかのゲストハウスらしい。
満面の笑顔の彼女と、どこか恥ずかしそうな彼。
いかにもどこかで見たようなツーショット。
彼らはいつのまに結婚したということ?
まって、まだ早すぎない? 彼女はまだ大学三年生よ。この前再会したばかりで、もう結婚式?
秘密の結婚なの? 真智君、何も言ってなかった。それとも私に気をつかって言わなかったの?
真智君が心配したように流斗君の態度がおかしいのは、新婚さんでボケちゃってるから?
大体、そんなに簡単に結婚式ってできるもの? 私の時は、一年以上かけて準備した。荒本さんと別れる直前、結婚式まで一月を残すところだったが、毎週、式場に出かけて打ち合わせをした。テーブルクロスの色、ナプキンのたたみ方など、山のように決めることがあった。
そんなに急いで結婚するということは……まさか、赤ちゃんでもできたの? だから、真智君にすら知られないように結婚したの?
ひどい。
ひどいなんていう資格は私にない。でも、教えてくれたっていいじゃない。
ダメ。メール送っちゃダメ。でも、お祝いぐらいいいよね?
私は言い訳をしてついに彼にメッセージを送った。
『おめでとう! お幸せに!』
これぐらい、いいよね? 元友達として、幸せを祈るぐらい、許されていいと思う。未練なんかじゃない。
私は彼の幸せを祈ることができる。だから大丈夫だよ。そう言いたいだけ。
が、彼の返事は予想外だった。
『今、それどころではないよ。ごめんね。本当に意味がわからない』
そこまで拒絶する? いや、私はそうされても仕方ないことをやってしまった。
私はもう、謝ることも許されない。お祝いすら拒絶された。
それでも私はバイトを続ける。
「素芦さん、どうしたの? 最近、朝河先生が、宇宙研究センターに行ったっきりだから、落ち込んでるの?」
沢井さんが、余計なことを聞いてきた。
「いえ。環境棟の公開講座のチラシ、どうしたらいいかわからないんです」
「変にデザイン凝らなくていいからね。そうそう、宇宙研究センターが、衛星打ち上げの様子を、発射場からネットで生配信するそうよ」
一瞬、胸がトクンと鳴った。流斗君は、発射の一か月前には、南の島の発射場にこもるらしい。じゃあ、生配信に彼が出るだろうか? ……今さら何を考えているの?
「宇宙研究センターの打ち上げ生配信は面白いわよ。定点カメラで発射場を映しているだけでなくて、現地で研究者がMCをやって、担当者の解説やインタビューも入るの」
……だからといって、流斗君が出るとは限らない。彼はプロジェクトには関わっているが、中心人物ではない……そういうことじゃない。
「朝河先生、出るかもね。そうしたら、ネットとはいえ、初めての生出演になるはずよ」
上司に思いっきり心を読まれている。
「先生がいないからといって、いちいち落ち込まないの。今からそれではやっていけないわよ」
沢井さんなりに私を励ましてくれてるのだろう。
「せや、女は面倒なん。前のパートさんも、旦那の転勤で辞めたし」
飯島さんが追い打ちをかける。
「飯島君、私も女なんですけどね」
沢井さんの厭味に「いやいや、課長は全然ちゃいますよ!」と、ヘラヘラ返している。
「朝河先生にはがんばっていただかないとね。うちみたいな地味な大学にとっては、色んな意味で欠かせない人材だもの」
広報課の課長は本当にぶれない。
流斗君は、がんばるだろう。葉月さんが支えてくれている。
購買部の宇関土産コーナーが気になり、チェックした。
最近は、饅頭以外にも、フルーツどら焼きなども売っている。売り上げを聞いてみるが、中々評判がいいそうだ。
私の母である倉橋さんの実力は、認めざるを得ない。悔しいが。
ついでに書籍コーナーを回った。
擬人化シリーズのラインナップが増えてきた。
今度は、科学の法則そのものが、イケメン勇者や美人僧侶などで登場だ。
そういえばこの擬人化シリーズ、十八禁乙女ゲーム「コギタス・エルゴ・スム」と同じ会社が出している。
もしかすると、もっと真面目に、こういう感じのゲームを出したかったのかな? 流斗君がスタッフに加わって、妙な方向に突っ走ったと思うと……だから何が何でも彼に結び付けるの、やめよう。
本をパラパラとめくる。それにしても色々な人の名前の法則や理論があるんだなと感心する。
この国の科学者はまだ少ないけど、これから増えるのだろうか。それとも現状、厳しいのだろうか。
流斗君ががんばり、マルチバースが証明され、宇宙の様々な謎が彼の理論で解き明かされたら……アサカワ理論なんて呼ばれるのだろうか。
未来の大学生は彼の名がついた理論を学ぶのだろうか。
そこまでいけば彼は国際科学賞を受賞するかもしれない。今のように物理の世界だけでなく世界中が彼を知ることになる。
そして、授賞式、彼の隣には、あの子だ。葉月さんが隣にいる。
誰もが彼を知っている。みな彼と彼の妻そして子どもたちを讃える。科学の教科書に載る彼。
私はそんな世界に耐えられるのだろうか?
少し前まで私は、それを誇らしく思っていた。
そんな世界だからこそ、彼との思い出を胸に生きていけると思っていた。
が、実際に流斗君の隣にいる彼女とわずかでもことばを交わしてしまったためか、それを生々しく感じる。
嫌だ。そんな世界になってほしくない。
実験が失敗すれば? ロケットが打ち上らなければ? 彼の名を目にすることもないかもしれない。
ウサギさま。ウサギさま。どうか私の願いを叶えて。
彼は二度と戻らない。
だからせめて、彼が月まで行かないように、この地上に留まるようにしてください。
月になった彼を、夜ごと、目の当たりにするのは耐えられそうもありません。
彼が私を捨てたとしても。他の人を拾ったとしても。
どうか、この地上に留めてください。
「素芦さん! 何やっとるんです!」
見知らぬ人の呼び声で、我に返った。
いつのまにか私は宇鬼川の水流に腰まで浸かっている。
ここは中流の運動公園の河原。休日の昼間、ずぶ濡れになった私に、サッカーで遊ぶ子どもたちなど大勢が注目している。
声をかけた人は、近くの駐在所の警官だ。
「ごめんなさい。ウサギさまが降りてきたの」
私はジャブジャブと川から出た。人々の視線とざわめきを感じる。
今は祭りではない。冬の川に入って大声で歌い始めるのは、普通の人間がやることではない。
私は、『ウサギさま』のせいにして、この場から逃げようとした。
「それなら神社に行ってください」
駐在の警官も、渋々と納得している。素芦家の末裔ならそんなもんだ、と思っているだろう。
濡れたまま、河原に置いたポーチを取って、駐車場に駐めた車に戻った。
やってしまった。祭りではないのに。
宇鬼川をぼんやり眺めていたら、川に引き寄せられ、いつのまにか祈りの歌を捧げていた。
ウサギさまなら、流斗君を引き留めてくれるような気がして。
翌日、大学のイントラのお知らせに、衛星の打ち上げが延期になった、という記事が載った。
災害対策関連研究のコーナーを始め、トピックごとの研究紹介も少しずつ増えてきている。
大学購買部に、薄皮揚げ饅頭が並んでいる。売り上げはボチボチといったところらしい。
納品された入学案内のパンフレットを配る。
沢井さんに提案し、月祭りのレポートをホームページにアップさせてもらった。ブースを出した研究室へのリンクを張って。
仕事があるのは本当に助かる。彼のことを考えなくてすむから。
なのに沢井さんは残酷な仕事を持ちかける。
「宇宙観測衛星打ち上げのホームページを更新したいの。テキストと写真に動画送るからアップして」
私は極めて事務的に、作業をこなした。
流斗君の写真やコメント、そして動画の研究紹介。
宇宙の始まり、ビッグバンの前にあったインフレーションを探るためのプロジェクト。宇関キャンパスとしても大きく取り上げている。
動画の彼の声を確認する。久しぶりに聞いた彼の声。二度と彼が私のためだけに話すことはない。
仕事とは関係ないのに、大学で彼のスケジュールを毎日確認してしまう。彼の取材担当である海東さんの動きが気になって仕方ない。
昼休み、つい、宇宙棟の近くまで行ってしまう。彼の研究室のあるフロアに目を向ける。
毎日、何かを伝えたい衝動と戦っている。
どうしてる? 元気? 打ち上げは順調? いつから宇宙研究センターに行くの?
メッセージを書いては消しての繰り返し。
自分で最後だって決めたのに。
あんな愚かなことさえしなければ、穏やかに彼の研究の成功を、祈っていただろうか?
最悪の別れから、二週間経った夜、久しぶりに真智君から電話があった。
「那津美さん、全然、研究室来なくなっちゃったね。さびしーなー」
相変わらずチャラい。
「用がないもの。それより杏奈ちゃんとはどうなの?」
月祭りで私の元教え子の彼女と、いい雰囲気だったことを思いだした。
「い、いや、おれ女子高生には手、出してないって……」
来年から彼女は女子大生になる。心配だ。
「とゆーか、那津美さん、流斗と喧嘩した?」
以前も真智君は、そんなことを心配して声をかけてくれた。
「センセー、怖いほど優しくて何しても文句言わないし、部屋に籠りっきり。しかも、またボサボサ頭に戻った。ほら、流斗先生の髪がちゃんとしてるときって、那津美さんが泊った日でしょ?」
うわ! そんなことで彼と私の行動がバレてしまうのか。それなら流斗君、私がいないときも、ちゃんとヘアセットすればいいのに。
「那津美さんとどうしたか聞いたら、何も言わなくてさ。喧嘩したなら仲直りして欲しいんだけど」
「喧嘩なんかしてないわ。ただ朝河先生は、研究に専念したいだけ。私もそれが正しいと思うの」
ちゃんと付き合ったわけでもないから『別れた』とわざわざ宣言することもない。
「専念してるって感じでもないんだよな。ずっとぼーっとしているみたいで」
「真智君、自分の研究がんばりなよ。朝河先生も真智君ががんばれば大丈夫よ」
真智君は、先生でもあり後輩でもある彼を心配してくれる。
もし、私のせいだとしたら、あんなひどい別れ方をしたため?
だったら、もう一度ちゃんとしたお別れすれば大丈夫?
帰り道、つい彼の住むマンションの前を通り過ぎる。
彼の部屋はどのあたりだろうか? この時間にはまだ帰ってないだろうが。
家に戻ったら、スマホの前でぼうっとしている。
メッセージが来たら返信しないと。電話来たらすぐ出ないと。そんなことはないのに。ケータイ会社からのメールがポツポツくるぐらい。
が、珍しく、業者ではないメールが届く。
流斗君ではない。葉月さんからだった。そして、そのメールが私に致命傷を与えた。
本文には「いい写真でしょ?」とだけある。
添付ファイルの写真をタップした。
それは、白いウエディングドレスを着た彼女とグレーのモーニングを着た彼のバストショットのスナップ写真だった。
写真の背景はぼやけてわからないが、どこかのゲストハウスらしい。
満面の笑顔の彼女と、どこか恥ずかしそうな彼。
いかにもどこかで見たようなツーショット。
彼らはいつのまに結婚したということ?
まって、まだ早すぎない? 彼女はまだ大学三年生よ。この前再会したばかりで、もう結婚式?
秘密の結婚なの? 真智君、何も言ってなかった。それとも私に気をつかって言わなかったの?
真智君が心配したように流斗君の態度がおかしいのは、新婚さんでボケちゃってるから?
大体、そんなに簡単に結婚式ってできるもの? 私の時は、一年以上かけて準備した。荒本さんと別れる直前、結婚式まで一月を残すところだったが、毎週、式場に出かけて打ち合わせをした。テーブルクロスの色、ナプキンのたたみ方など、山のように決めることがあった。
そんなに急いで結婚するということは……まさか、赤ちゃんでもできたの? だから、真智君にすら知られないように結婚したの?
ひどい。
ひどいなんていう資格は私にない。でも、教えてくれたっていいじゃない。
ダメ。メール送っちゃダメ。でも、お祝いぐらいいいよね?
私は言い訳をしてついに彼にメッセージを送った。
『おめでとう! お幸せに!』
これぐらい、いいよね? 元友達として、幸せを祈るぐらい、許されていいと思う。未練なんかじゃない。
私は彼の幸せを祈ることができる。だから大丈夫だよ。そう言いたいだけ。
が、彼の返事は予想外だった。
『今、それどころではないよ。ごめんね。本当に意味がわからない』
そこまで拒絶する? いや、私はそうされても仕方ないことをやってしまった。
私はもう、謝ることも許されない。お祝いすら拒絶された。
それでも私はバイトを続ける。
「素芦さん、どうしたの? 最近、朝河先生が、宇宙研究センターに行ったっきりだから、落ち込んでるの?」
沢井さんが、余計なことを聞いてきた。
「いえ。環境棟の公開講座のチラシ、どうしたらいいかわからないんです」
「変にデザイン凝らなくていいからね。そうそう、宇宙研究センターが、衛星打ち上げの様子を、発射場からネットで生配信するそうよ」
一瞬、胸がトクンと鳴った。流斗君は、発射の一か月前には、南の島の発射場にこもるらしい。じゃあ、生配信に彼が出るだろうか? ……今さら何を考えているの?
「宇宙研究センターの打ち上げ生配信は面白いわよ。定点カメラで発射場を映しているだけでなくて、現地で研究者がMCをやって、担当者の解説やインタビューも入るの」
……だからといって、流斗君が出るとは限らない。彼はプロジェクトには関わっているが、中心人物ではない……そういうことじゃない。
「朝河先生、出るかもね。そうしたら、ネットとはいえ、初めての生出演になるはずよ」
上司に思いっきり心を読まれている。
「先生がいないからといって、いちいち落ち込まないの。今からそれではやっていけないわよ」
沢井さんなりに私を励ましてくれてるのだろう。
「せや、女は面倒なん。前のパートさんも、旦那の転勤で辞めたし」
飯島さんが追い打ちをかける。
「飯島君、私も女なんですけどね」
沢井さんの厭味に「いやいや、課長は全然ちゃいますよ!」と、ヘラヘラ返している。
「朝河先生にはがんばっていただかないとね。うちみたいな地味な大学にとっては、色んな意味で欠かせない人材だもの」
広報課の課長は本当にぶれない。
流斗君は、がんばるだろう。葉月さんが支えてくれている。
購買部の宇関土産コーナーが気になり、チェックした。
最近は、饅頭以外にも、フルーツどら焼きなども売っている。売り上げを聞いてみるが、中々評判がいいそうだ。
私の母である倉橋さんの実力は、認めざるを得ない。悔しいが。
ついでに書籍コーナーを回った。
擬人化シリーズのラインナップが増えてきた。
今度は、科学の法則そのものが、イケメン勇者や美人僧侶などで登場だ。
そういえばこの擬人化シリーズ、十八禁乙女ゲーム「コギタス・エルゴ・スム」と同じ会社が出している。
もしかすると、もっと真面目に、こういう感じのゲームを出したかったのかな? 流斗君がスタッフに加わって、妙な方向に突っ走ったと思うと……だから何が何でも彼に結び付けるの、やめよう。
本をパラパラとめくる。それにしても色々な人の名前の法則や理論があるんだなと感心する。
この国の科学者はまだ少ないけど、これから増えるのだろうか。それとも現状、厳しいのだろうか。
流斗君ががんばり、マルチバースが証明され、宇宙の様々な謎が彼の理論で解き明かされたら……アサカワ理論なんて呼ばれるのだろうか。
未来の大学生は彼の名がついた理論を学ぶのだろうか。
そこまでいけば彼は国際科学賞を受賞するかもしれない。今のように物理の世界だけでなく世界中が彼を知ることになる。
そして、授賞式、彼の隣には、あの子だ。葉月さんが隣にいる。
誰もが彼を知っている。みな彼と彼の妻そして子どもたちを讃える。科学の教科書に載る彼。
私はそんな世界に耐えられるのだろうか?
少し前まで私は、それを誇らしく思っていた。
そんな世界だからこそ、彼との思い出を胸に生きていけると思っていた。
が、実際に流斗君の隣にいる彼女とわずかでもことばを交わしてしまったためか、それを生々しく感じる。
嫌だ。そんな世界になってほしくない。
実験が失敗すれば? ロケットが打ち上らなければ? 彼の名を目にすることもないかもしれない。
ウサギさま。ウサギさま。どうか私の願いを叶えて。
彼は二度と戻らない。
だからせめて、彼が月まで行かないように、この地上に留まるようにしてください。
月になった彼を、夜ごと、目の当たりにするのは耐えられそうもありません。
彼が私を捨てたとしても。他の人を拾ったとしても。
どうか、この地上に留めてください。
「素芦さん! 何やっとるんです!」
見知らぬ人の呼び声で、我に返った。
いつのまにか私は宇鬼川の水流に腰まで浸かっている。
ここは中流の運動公園の河原。休日の昼間、ずぶ濡れになった私に、サッカーで遊ぶ子どもたちなど大勢が注目している。
声をかけた人は、近くの駐在所の警官だ。
「ごめんなさい。ウサギさまが降りてきたの」
私はジャブジャブと川から出た。人々の視線とざわめきを感じる。
今は祭りではない。冬の川に入って大声で歌い始めるのは、普通の人間がやることではない。
私は、『ウサギさま』のせいにして、この場から逃げようとした。
「それなら神社に行ってください」
駐在の警官も、渋々と納得している。素芦家の末裔ならそんなもんだ、と思っているだろう。
濡れたまま、河原に置いたポーチを取って、駐車場に駐めた車に戻った。
やってしまった。祭りではないのに。
宇鬼川をぼんやり眺めていたら、川に引き寄せられ、いつのまにか祈りの歌を捧げていた。
ウサギさまなら、流斗君を引き留めてくれるような気がして。
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