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3章 アラサー女子、ふるさとの祭りに奔走する
3-15 カフェに変わった我が家
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竹林を抜けたところにある古民家カフェ。
一人で車を進め細い農道を抜け、そこにたどり着いた。
流斗君と、初めて休日に二人ですごした場所。
砂利が敷き詰められた駐車場に車を駐めた。降りた途端、大柄な男性が視界に入ってくる。
「荒本さん、何でここにいるんですか?」
その男は苦笑いを浮かべる。
「那津美、昨日の祭り会合で言ったじゃないか。宇関の伝説を調べるって」
「確かに言いました。でも、みなさん、スルーしてましたよ」
「お前を独りにしたくなくてな」
私は白い眼を向ける。
「荒本さん、私は資料館で昔の文献を探します。失礼ですけど、昔の崩し字とか読めます?」
「あはははは、中学校にもロクに行ってない俺ができるわけねーだろ。ま、今日は、那津美先生の助手やらせてもらうよ」
まったく陰りのない快活な笑い声。
私にしては渾身の嫌味を言って攻撃をしたのだが、この男にはまったく効いてない。攻撃した私だけがダメージを食らった。
「邪魔しないで頂ければ結構ですよ」
砂利を踏み、古民家カフェを右手にして、渡り廊下に沿って奥に進む。
廊下の端はもっと大きな古い屋敷につながっている。カフェのオープンと同時に古民家再生プロジェクトの一環として開かれた、宇関の歴史資料館だ。
「懐かしいな、俺はお前に会いたくて、よく遊びに行った」
よくそんなことを言うな、と呆れつつも、私も懐かしさに微笑を返した。
七年前まで私はここに住んでいた。
革命より前、およそ二百年前から受け継がれていた素芦の屋敷は、今、宇関の人々に広く開放されている。
「私、ここは初めてなんです」
屋敷を処分してから二年後、資料館として改装したとの知らせを宇関町から受けた。
開館セレモニーに招待されたが、私はそれを断った。行く気にはなれなかった。行ったらその場で取り乱し泣き出しそうだったから。
七年経ちどこか切ない気持ちに囚われるが、涙は出てこない。思ったより冷静な自分に驚く。
「荒本さん、ここの手続き、大変だったんでしょう?」
あのころ、彼をこの広大な屋敷をタダ同然で奪った憎い男と思ってた。
が、素芦には莫大な借金があったことを、最近荒本さんから知らされた。
資金がないのに古い屋敷を再生するのは、大変だったはず。
「いや、古民家再生には建築業者も関心が高く、寄付でできた。宇関町の税金はそれほどかかってないし、町民もこういう施設は歓迎だろ」
「いろいろとありがとうございます」
心からそう思った。この男に純粋な感謝の気持ちを抱くなんて不思議だが、そう思ったのだ。
背中をポンと叩かれる。
「ほら、宇関の伝説とやら調べるんだろ?」
私は、久しぶりに玄関を、いや、初めて資料館の入り口の扉を開けた。
広い土間の入り口で、靴から備え付けのビニールスリッパに履き替えた。
中はそれほど変わっていない。家具をいくつか処分したが、古いタンスはそのままだ。
代々伝わっていった古い着物やひな人形がそのまま展示してあった。
自分が、このように展示されるほど古い人間だったかと思うと、笑ってしまう。
「ふふ、私も置いてもらおうかな?」
思わず笑ってしまった。
もっと私は落ち込むかと思った。すっかり変わってしまった我が家を目の当たりにして。
家の形も内装もほとんど変わっていなかった。ただ、生活の跡が消え、すっきりした感はある。
私はこの古い家が好きではなかった。友人たちの普通の新しい家がうらやましかった。
冬はメチャクチャ寒いし、かといって夏がそれほど涼しいわけでもない。
『お父さん! こんな家、売って引っ越そう!』
過去の自分の叫びが聞こえてくる。だめ。それを思い出しては駄目。今はそれを思い出すときではない。
かつての客間に足を入れた。
来客が絶えない家だった。父は上機嫌で酒を飲んでいた。祖母と家政婦さんが酌をしておつまみを並べていたっけ。母も時々あいさつに回っていた。
広い部屋に、着物かけ用の木枠ー衣桁がいくつか置かれ、祭りなどで使った衣装が展示されていた。
白地に薄紅色の桜模様を刺繍した打掛が目に留まった。花嫁衣裳だろうか。
隣には、紺色の裾に大きな船や魚を派手に染めた単衣の着物がかけてある。大漁の時に漁師が着る晴れ着、万祝だ。
「これか……」
荒本さんが感嘆している。
「どうしました?」
「覚えてないよな。俺が親父から聞かされたのは、お前のお披露目衣装だってことだ。で、こっちの男物の漁師の着物も使うんだ」
「私のお披露目? 花嫁が着る打掛みたいね。最近は、赤い花をあしらった打掛もあるわ」
大学卒業の前、結婚式の準備で、ドレスにしようか着物にしようか、散々悩んだ。白無垢にしてお色直しをドレスに決めたんだっけ。披露されることはなかったけど……この男と花嫁衣裳の話はしない方がいい。ようやくフラットな気持ちになれたのに、忘れた恨みが復活しそう。
「素芦の姫さんは、大人になったら、その年の月祭りでこの衣を着るんだとさ。で、こっちの漁師の着物は、姫の力を受け継ぐ男が着るんだってな……悪くないな」
荒本さんが、派手で迫力ある万祝を手に取っている。
「荒本さんが着たら似合いそうですね」
悔しいが、この男、七年経ち、整った顔に渋みがました。見た目だけなら魅力的なことは否定できない。
「そうか。お前は本当にそう思うか?」
渋いバリトンボイスが響いた。
しまった。もう、この男にそういうことは言わない方がいい。
「奥様やお子さんが、喜びますよ。お父さん、カッコいいって」
微妙な空気をかき消して、私はこれまでの月祭りの記憶をたどった。
私が大人になったらこの打掛けを着てお披露目をすると荒本さんは言ったが、聞いたことがない。
「大人って、十八歳? 二十歳? そのころ私は裏方に回って手伝いばかり。うんと小さいときはウサギの恰好もしたけど……小学生ぐらいの時、あまり覚えてないの」
「……忘れてくれていい。那津美のお披露目は、ばばあが邪魔しやがったからな」
荒本さんの端正な顔が一瞬歪むが笑顔に戻り、大きな手で頭をなでられた。
二階に移動した。
七年前まで私自身が寝起きしていた部屋に入る。
昔使っていた古い棚もそのままだ。この棚は冬物のセーター、あそこはコサージュ類と決めてたっけ。
腰ほどの高さの低い棚の上に、古いカレンダーがたくさん並べてあった。
革命前のカレンダーだろうか。昔の月の満ち欠けを元にした暦のようだ。保存状態がよく、黄ばんだり、丸まったりしていない。紙の質がいいのかもしれない。
今は、1年を365日としそれを12か月で割っているが、百五十年前、革命前の暦では、月の満ち欠けの周期が文字通り1か月だった。1日は新月。15日は満月になるはずだが、月の満ち欠けはぴったり29日にはならないので、15日が満月とは限らないらしい。
とにかく日付で月齢がわかるのは、便利な気がする。
私なんか、今日の月が満月か三日月か、空を見るか専用のカレンダーがないとわからない。
古い暦がちょっと気になり、もう少し詳しく見ようと近づいてみる。
「この部屋にいると色っぽいお前を思い出すよ」
荒本さんがニヤニヤと笑っている。
「や、やめてください!」
確かに私は目の前の男と、この部屋で何度も抱き合い、キスを繰り返し、それ以上のこともした。
何も考えずこの男を連れてきたが、失敗だったかも。
「たくさん古文書を寄付したんだけど、ないのかな?」
話題を変えた。
着物やタンスを見に来たわけではない。ましてや荒本さんと思い出にふけるためではない。
素芦家の古文書を少しでも目を通し、月祭りの由来を調べに来たのだ。
「受付のばあさんに聞いてもわからんだろ。ここの管理はあそこだな。聞いてみるか」
荒本さんがスマホを取り出し、さっそく問い合わせてくれた。
「文化財課の三河さん頼みます……ああ、ご無沙汰ですね」
役場の担当者と話しているのだろうか。
「素芦の古文書は図書館らしい。ここだと空調管理ができないから、古い資料を置いとけないってな」
それもそうだ。中世文学を学んだくせに、私はすっかり忘れていた。古文書をこんな古い家に放置したら、湿気であっという間に劣化してしまう。そうはいっても、ずっとこの屋敷に置いてあったんだけど。
「今から、図書館行くか?」
「そうですね。でも、荒本さんには別にお願いがあります」
「じゃ、あっち行くか」
屋敷の部屋は、交流スペースとして使われているようだ。
入り口の壁のボードには、合唱サークルやフラワーアレンジメント教室などの案内が表示されている。
サークル活動の場所として、使われている。何かくすぐったい気持ちになる。
歌うのは好きだ。祭りの会合で祈りの歌を月のウサギさまに捧げたら雲が消え、あれから祭り準備委員の人たちが優しくなった。
合唱はまた違うんだろうな。みんなで一緒に歌うってどんな気持ちだろう?
それは後にしよう。今は、祭りの準備が大切だ。
かつての父の寝室に移動した。
畳に座卓と座椅子が敷かれている。廊下でスリッパを脱ぎ、そこで私たちは打ち合わせを始めた。
タブレットを取り出しマップを表示させる
「祭りの案内マップですが今からこんな風に修正できますか? 大学の先生から指摘されました。外の人に祭りの意味を説明した方がいいって」
「それで祭りについて調べなおす気になったのか」
「うちが寄贈した文献は膨大なので、調べるのは時間がかかります。マップの修正は簡単なコラムを加えるぐらいで。でも、外から来た人に祭りの由来を説明できるように、調べておきたいんです。今年の祭りには間に合わなくても」
荒本さんはタブレットをじっと見つめている。
「マップは酒井が担当だ。データを祭りの公式サイト経由で送ってくれ。わかるようにしておく」
「わかりました。では、後で送ります」
彼が口を歪ませた。
「その先生って言うのは、流斗先生か?」
「ええ、いろいろ協力してくれてます」
荒本さんの「流斗先生」という呼び方が気に入らない。見下しているような気がして。真智君がそう呼ぶ時は、親しみと尊敬が交って好感が持てるのに。
「それでお前は、流斗先生に可愛がってもらってるのか? 本一冊分も」
荒本さんが私を射貫くように見つめている。当然、一切答えず立ち上がった。
「ここの用は終わりましたので」
「まさか本当に、流斗先生とやったのか!?」
目の前の男性が声を荒げるが私は、無視して立ち去る。
「嘘だろ? いや、あの時は、童貞のはったりだった。俺にはわかる……まさか……俺の那津美が……」
私はそれには答えず振り返った。
「後でマップの修正データ送っておきます。私はまだここにいますが、副支店長は忙しいのでしょう?」と返す。
ミツハの副支店長は、ぼそっと告げた。
「もう一度、素芦を復活させないか? いきなり会社が無理なら任意団体からでもいい」
何を言ってるのだろう? 素芦不動産が潰れたのは、父自身の経営能力の問題とはいえ、この人も潰した側の人間ではないか。
「お前、素芦の歴史、調べるんだろ? そういうのを本にするんだ。ここの資料館に金掛けて派手な展示にする。観光ツアーもいい。そういう事業を、素芦の名をつけた会社を立ち上げてやるんだよ」
「アイデアはいいと思います。でも会社を立ち上げなくても観光協会に働きかけてはどうでしょう」
「ウサギと亀の話そのものは、全国にあるだろう? この宇関を伝説の発祥の地として、全国に広めるんだよ」
それはいくら何でもむちゃだ。
「荒本さん、元の話は二千五百年前の外国の寓話ですよ。この国にその寓話が伝わったのは四百年前です。私たちの先祖は四百年前にその寓話を知り、元から宇関に伝わってた信仰と結び付けたんだと思います」
この辺り、調べてみないとわからないが、そんなところだと思っている。
「いーんだよ。だってこの国には、怪獣が住む湖だって、二千年前に世界をすくった救世主の墓だってあるんだ。それぐらい可愛いもんだろ?」
思わず笑ってしまった。さすがに宇関を世界中に広がる「ウサギと亀」の寓話の発祥とするのは無理だが、四百年前に伝わった寓話が、このような形で信仰されている、という話でも、インパクトあるかもしれない。
流斗君がこれを聞いたら怒るだろうな。実証にはデータが足りない!って……何をしても、流斗君につながってしまう。
「宇関には素芦が必要だってわかったよ。祭りの連中、お前が顔を出すたびに、今夜も晴れたと喜ぶ。この七年、祭りに月が出ないのは、素芦がいないからだってな」
「そんなの迷信です」
荒本さんが顔を近づけ、私の両肩を強く捉えた。
「俺も素芦を潰したなんて影でこれ以上言われたくない。だから、俺たちは組むべきなんだ」
そんなこと、できるのだろうか?
「荒本さんには、もう家族がいるでしょ?」
「これは純粋にビジネスの話だ。今のアルバイトよりずっと儲かるぞ」
こんな田舎町で観光に力を入れても、それほど儲かるとは思えないが、素芦の復活、というフレーズはひどく魅力的だ。
「とりあえず祭りに力をいれましょう」
背中をサッと撫でられた。いつもそうだが、今日は何かと触られている気がする。
「もう一つ。素芦の姫様のお披露目、今度こそちゃんとしような」
思わずクスッと笑いがこぼれた。
「姫様? 私が? もう三十歳ですよ」
駐車場で荒本さんを見送った後、屋敷の離れにあるカフェに寄った。
流斗君と行ったカフェ。
このカフェのオープンは随分前に知らされていたが、ずっと行く気になれなかった。昔暮らしていた家が変わってしまった姿など見たくなかった。
なのに、私は彼と出かけると聞いて、まっさきにここを選んだ。
座敷で、キッシュのランチセットを注文する。
私はこういうランチを取ったことないのに、懐かしい味がする。
ずっとここで暮らしてきたからなのか。
ブルーベリータルトを持ってきた年配の女性に「私、昔ここに住んでいたんです」と思わず言ってしまった。
店員が驚いている。
「え! じゃあ、ヨシコの? あの時の女の子ね!」
ヨシコ? それは倉橋美子さんのこと?
私も驚いた。彼女の知り合いとこんな所で会うとは。
「倉橋さん……母をご存じですか?」
かつて暮らした家で、倉橋さんの知り合いに会うとは、思ってもみなかった。
一人で車を進め細い農道を抜け、そこにたどり着いた。
流斗君と、初めて休日に二人ですごした場所。
砂利が敷き詰められた駐車場に車を駐めた。降りた途端、大柄な男性が視界に入ってくる。
「荒本さん、何でここにいるんですか?」
その男は苦笑いを浮かべる。
「那津美、昨日の祭り会合で言ったじゃないか。宇関の伝説を調べるって」
「確かに言いました。でも、みなさん、スルーしてましたよ」
「お前を独りにしたくなくてな」
私は白い眼を向ける。
「荒本さん、私は資料館で昔の文献を探します。失礼ですけど、昔の崩し字とか読めます?」
「あはははは、中学校にもロクに行ってない俺ができるわけねーだろ。ま、今日は、那津美先生の助手やらせてもらうよ」
まったく陰りのない快活な笑い声。
私にしては渾身の嫌味を言って攻撃をしたのだが、この男にはまったく効いてない。攻撃した私だけがダメージを食らった。
「邪魔しないで頂ければ結構ですよ」
砂利を踏み、古民家カフェを右手にして、渡り廊下に沿って奥に進む。
廊下の端はもっと大きな古い屋敷につながっている。カフェのオープンと同時に古民家再生プロジェクトの一環として開かれた、宇関の歴史資料館だ。
「懐かしいな、俺はお前に会いたくて、よく遊びに行った」
よくそんなことを言うな、と呆れつつも、私も懐かしさに微笑を返した。
七年前まで私はここに住んでいた。
革命より前、およそ二百年前から受け継がれていた素芦の屋敷は、今、宇関の人々に広く開放されている。
「私、ここは初めてなんです」
屋敷を処分してから二年後、資料館として改装したとの知らせを宇関町から受けた。
開館セレモニーに招待されたが、私はそれを断った。行く気にはなれなかった。行ったらその場で取り乱し泣き出しそうだったから。
七年経ちどこか切ない気持ちに囚われるが、涙は出てこない。思ったより冷静な自分に驚く。
「荒本さん、ここの手続き、大変だったんでしょう?」
あのころ、彼をこの広大な屋敷をタダ同然で奪った憎い男と思ってた。
が、素芦には莫大な借金があったことを、最近荒本さんから知らされた。
資金がないのに古い屋敷を再生するのは、大変だったはず。
「いや、古民家再生には建築業者も関心が高く、寄付でできた。宇関町の税金はそれほどかかってないし、町民もこういう施設は歓迎だろ」
「いろいろとありがとうございます」
心からそう思った。この男に純粋な感謝の気持ちを抱くなんて不思議だが、そう思ったのだ。
背中をポンと叩かれる。
「ほら、宇関の伝説とやら調べるんだろ?」
私は、久しぶりに玄関を、いや、初めて資料館の入り口の扉を開けた。
広い土間の入り口で、靴から備え付けのビニールスリッパに履き替えた。
中はそれほど変わっていない。家具をいくつか処分したが、古いタンスはそのままだ。
代々伝わっていった古い着物やひな人形がそのまま展示してあった。
自分が、このように展示されるほど古い人間だったかと思うと、笑ってしまう。
「ふふ、私も置いてもらおうかな?」
思わず笑ってしまった。
もっと私は落ち込むかと思った。すっかり変わってしまった我が家を目の当たりにして。
家の形も内装もほとんど変わっていなかった。ただ、生活の跡が消え、すっきりした感はある。
私はこの古い家が好きではなかった。友人たちの普通の新しい家がうらやましかった。
冬はメチャクチャ寒いし、かといって夏がそれほど涼しいわけでもない。
『お父さん! こんな家、売って引っ越そう!』
過去の自分の叫びが聞こえてくる。だめ。それを思い出しては駄目。今はそれを思い出すときではない。
かつての客間に足を入れた。
来客が絶えない家だった。父は上機嫌で酒を飲んでいた。祖母と家政婦さんが酌をしておつまみを並べていたっけ。母も時々あいさつに回っていた。
広い部屋に、着物かけ用の木枠ー衣桁がいくつか置かれ、祭りなどで使った衣装が展示されていた。
白地に薄紅色の桜模様を刺繍した打掛が目に留まった。花嫁衣裳だろうか。
隣には、紺色の裾に大きな船や魚を派手に染めた単衣の着物がかけてある。大漁の時に漁師が着る晴れ着、万祝だ。
「これか……」
荒本さんが感嘆している。
「どうしました?」
「覚えてないよな。俺が親父から聞かされたのは、お前のお披露目衣装だってことだ。で、こっちの男物の漁師の着物も使うんだ」
「私のお披露目? 花嫁が着る打掛みたいね。最近は、赤い花をあしらった打掛もあるわ」
大学卒業の前、結婚式の準備で、ドレスにしようか着物にしようか、散々悩んだ。白無垢にしてお色直しをドレスに決めたんだっけ。披露されることはなかったけど……この男と花嫁衣裳の話はしない方がいい。ようやくフラットな気持ちになれたのに、忘れた恨みが復活しそう。
「素芦の姫さんは、大人になったら、その年の月祭りでこの衣を着るんだとさ。で、こっちの漁師の着物は、姫の力を受け継ぐ男が着るんだってな……悪くないな」
荒本さんが、派手で迫力ある万祝を手に取っている。
「荒本さんが着たら似合いそうですね」
悔しいが、この男、七年経ち、整った顔に渋みがました。見た目だけなら魅力的なことは否定できない。
「そうか。お前は本当にそう思うか?」
渋いバリトンボイスが響いた。
しまった。もう、この男にそういうことは言わない方がいい。
「奥様やお子さんが、喜びますよ。お父さん、カッコいいって」
微妙な空気をかき消して、私はこれまでの月祭りの記憶をたどった。
私が大人になったらこの打掛けを着てお披露目をすると荒本さんは言ったが、聞いたことがない。
「大人って、十八歳? 二十歳? そのころ私は裏方に回って手伝いばかり。うんと小さいときはウサギの恰好もしたけど……小学生ぐらいの時、あまり覚えてないの」
「……忘れてくれていい。那津美のお披露目は、ばばあが邪魔しやがったからな」
荒本さんの端正な顔が一瞬歪むが笑顔に戻り、大きな手で頭をなでられた。
二階に移動した。
七年前まで私自身が寝起きしていた部屋に入る。
昔使っていた古い棚もそのままだ。この棚は冬物のセーター、あそこはコサージュ類と決めてたっけ。
腰ほどの高さの低い棚の上に、古いカレンダーがたくさん並べてあった。
革命前のカレンダーだろうか。昔の月の満ち欠けを元にした暦のようだ。保存状態がよく、黄ばんだり、丸まったりしていない。紙の質がいいのかもしれない。
今は、1年を365日としそれを12か月で割っているが、百五十年前、革命前の暦では、月の満ち欠けの周期が文字通り1か月だった。1日は新月。15日は満月になるはずだが、月の満ち欠けはぴったり29日にはならないので、15日が満月とは限らないらしい。
とにかく日付で月齢がわかるのは、便利な気がする。
私なんか、今日の月が満月か三日月か、空を見るか専用のカレンダーがないとわからない。
古い暦がちょっと気になり、もう少し詳しく見ようと近づいてみる。
「この部屋にいると色っぽいお前を思い出すよ」
荒本さんがニヤニヤと笑っている。
「や、やめてください!」
確かに私は目の前の男と、この部屋で何度も抱き合い、キスを繰り返し、それ以上のこともした。
何も考えずこの男を連れてきたが、失敗だったかも。
「たくさん古文書を寄付したんだけど、ないのかな?」
話題を変えた。
着物やタンスを見に来たわけではない。ましてや荒本さんと思い出にふけるためではない。
素芦家の古文書を少しでも目を通し、月祭りの由来を調べに来たのだ。
「受付のばあさんに聞いてもわからんだろ。ここの管理はあそこだな。聞いてみるか」
荒本さんがスマホを取り出し、さっそく問い合わせてくれた。
「文化財課の三河さん頼みます……ああ、ご無沙汰ですね」
役場の担当者と話しているのだろうか。
「素芦の古文書は図書館らしい。ここだと空調管理ができないから、古い資料を置いとけないってな」
それもそうだ。中世文学を学んだくせに、私はすっかり忘れていた。古文書をこんな古い家に放置したら、湿気であっという間に劣化してしまう。そうはいっても、ずっとこの屋敷に置いてあったんだけど。
「今から、図書館行くか?」
「そうですね。でも、荒本さんには別にお願いがあります」
「じゃ、あっち行くか」
屋敷の部屋は、交流スペースとして使われているようだ。
入り口の壁のボードには、合唱サークルやフラワーアレンジメント教室などの案内が表示されている。
サークル活動の場所として、使われている。何かくすぐったい気持ちになる。
歌うのは好きだ。祭りの会合で祈りの歌を月のウサギさまに捧げたら雲が消え、あれから祭り準備委員の人たちが優しくなった。
合唱はまた違うんだろうな。みんなで一緒に歌うってどんな気持ちだろう?
それは後にしよう。今は、祭りの準備が大切だ。
かつての父の寝室に移動した。
畳に座卓と座椅子が敷かれている。廊下でスリッパを脱ぎ、そこで私たちは打ち合わせを始めた。
タブレットを取り出しマップを表示させる
「祭りの案内マップですが今からこんな風に修正できますか? 大学の先生から指摘されました。外の人に祭りの意味を説明した方がいいって」
「それで祭りについて調べなおす気になったのか」
「うちが寄贈した文献は膨大なので、調べるのは時間がかかります。マップの修正は簡単なコラムを加えるぐらいで。でも、外から来た人に祭りの由来を説明できるように、調べておきたいんです。今年の祭りには間に合わなくても」
荒本さんはタブレットをじっと見つめている。
「マップは酒井が担当だ。データを祭りの公式サイト経由で送ってくれ。わかるようにしておく」
「わかりました。では、後で送ります」
彼が口を歪ませた。
「その先生って言うのは、流斗先生か?」
「ええ、いろいろ協力してくれてます」
荒本さんの「流斗先生」という呼び方が気に入らない。見下しているような気がして。真智君がそう呼ぶ時は、親しみと尊敬が交って好感が持てるのに。
「それでお前は、流斗先生に可愛がってもらってるのか? 本一冊分も」
荒本さんが私を射貫くように見つめている。当然、一切答えず立ち上がった。
「ここの用は終わりましたので」
「まさか本当に、流斗先生とやったのか!?」
目の前の男性が声を荒げるが私は、無視して立ち去る。
「嘘だろ? いや、あの時は、童貞のはったりだった。俺にはわかる……まさか……俺の那津美が……」
私はそれには答えず振り返った。
「後でマップの修正データ送っておきます。私はまだここにいますが、副支店長は忙しいのでしょう?」と返す。
ミツハの副支店長は、ぼそっと告げた。
「もう一度、素芦を復活させないか? いきなり会社が無理なら任意団体からでもいい」
何を言ってるのだろう? 素芦不動産が潰れたのは、父自身の経営能力の問題とはいえ、この人も潰した側の人間ではないか。
「お前、素芦の歴史、調べるんだろ? そういうのを本にするんだ。ここの資料館に金掛けて派手な展示にする。観光ツアーもいい。そういう事業を、素芦の名をつけた会社を立ち上げてやるんだよ」
「アイデアはいいと思います。でも会社を立ち上げなくても観光協会に働きかけてはどうでしょう」
「ウサギと亀の話そのものは、全国にあるだろう? この宇関を伝説の発祥の地として、全国に広めるんだよ」
それはいくら何でもむちゃだ。
「荒本さん、元の話は二千五百年前の外国の寓話ですよ。この国にその寓話が伝わったのは四百年前です。私たちの先祖は四百年前にその寓話を知り、元から宇関に伝わってた信仰と結び付けたんだと思います」
この辺り、調べてみないとわからないが、そんなところだと思っている。
「いーんだよ。だってこの国には、怪獣が住む湖だって、二千年前に世界をすくった救世主の墓だってあるんだ。それぐらい可愛いもんだろ?」
思わず笑ってしまった。さすがに宇関を世界中に広がる「ウサギと亀」の寓話の発祥とするのは無理だが、四百年前に伝わった寓話が、このような形で信仰されている、という話でも、インパクトあるかもしれない。
流斗君がこれを聞いたら怒るだろうな。実証にはデータが足りない!って……何をしても、流斗君につながってしまう。
「宇関には素芦が必要だってわかったよ。祭りの連中、お前が顔を出すたびに、今夜も晴れたと喜ぶ。この七年、祭りに月が出ないのは、素芦がいないからだってな」
「そんなの迷信です」
荒本さんが顔を近づけ、私の両肩を強く捉えた。
「俺も素芦を潰したなんて影でこれ以上言われたくない。だから、俺たちは組むべきなんだ」
そんなこと、できるのだろうか?
「荒本さんには、もう家族がいるでしょ?」
「これは純粋にビジネスの話だ。今のアルバイトよりずっと儲かるぞ」
こんな田舎町で観光に力を入れても、それほど儲かるとは思えないが、素芦の復活、というフレーズはひどく魅力的だ。
「とりあえず祭りに力をいれましょう」
背中をサッと撫でられた。いつもそうだが、今日は何かと触られている気がする。
「もう一つ。素芦の姫様のお披露目、今度こそちゃんとしような」
思わずクスッと笑いがこぼれた。
「姫様? 私が? もう三十歳ですよ」
駐車場で荒本さんを見送った後、屋敷の離れにあるカフェに寄った。
流斗君と行ったカフェ。
このカフェのオープンは随分前に知らされていたが、ずっと行く気になれなかった。昔暮らしていた家が変わってしまった姿など見たくなかった。
なのに、私は彼と出かけると聞いて、まっさきにここを選んだ。
座敷で、キッシュのランチセットを注文する。
私はこういうランチを取ったことないのに、懐かしい味がする。
ずっとここで暮らしてきたからなのか。
ブルーベリータルトを持ってきた年配の女性に「私、昔ここに住んでいたんです」と思わず言ってしまった。
店員が驚いている。
「え! じゃあ、ヨシコの? あの時の女の子ね!」
ヨシコ? それは倉橋美子さんのこと?
私も驚いた。彼女の知り合いとこんな所で会うとは。
「倉橋さん……母をご存じですか?」
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