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1章 アラサー女子、年下宇宙男子と出会う

1-10 きっかけは年下男子

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 塾を閉じる?
 叔母が、目尻の皺を強調してにっこり笑うから、初め何を言われたのかよくわからなかった。
 なぜ塾を閉鎖することにしたか、叔母は語り始めた。

 一昨年おととしから生徒が減り、塾の経営が厳しくなってきたと叔母は言う。私の不安が的中した。
「兄さんが、那津美ちゃんのお父さんがいたころは良かったわ」
 塾のあるテナントビルは、元々父がオーナーだった。
「旦那が死んだとき塾を始めたいといったら、兄さん、いろんな業者を紹介してくれて、事務所も安く貸してくれた。生徒さんが集まらないときは、賃料を免除してくれたよ」

 叔母は、自身の兄にあたる私の父を懐かしそうに語る。
「ビルのオーナーがミツハ不動産に変わったら、賃料がとんでもなく上がって……がんばったんだけど……」
 七年前、父の死の前、素芦もとあしの不動産はすべて、首都の大手不動産会社、ミツハの物になった。

「叔母さん、私、ダメかもしれないけれど、聞いてみます」
「ま、待って那津美ちゃん」
 叔母の返事を待たず、私は、塾を飛び出した。
 七年間こんな私を雇ってくれた叔母のため、いや、私自身のため、私は車を発進させた。


 塾から五分ほど車を走らせたところに、その五階建ての事務所ビルがある。七年前まではよく訪ねていた。学校や塾と同じぐらい、よく知っているビルだ。
 でも、私が知っているビルとは決定的に変わってしまった。

 ビルの袖看板には、パステルカラーの丸っこいロゴと共に「ミツハ不動産宇関支店」と書かれている。私が知っているビルの看板は「素芦不動産」だ。
 ガラスの自動ドアが開く。アイボリーの大理石で装飾されたロビーに入った。開放的で明るいエントランスだ。変わったのは看板だけではない。私が知っているこのロビーの壁は、木目調で落ち着いていた。

 受付には誰もいない。内線電話が置いてある。こういう所も変わった。以前は若い女性社員が交代で受付にあたっていた。
 私は受話器を上げた。担当が誰かわからないが内線番号一覧表にある「賃貸営業課」に電話をする。
「はい」
 落ち着いた声の女性が出た。
「……ビルの賃料?……あなたはテナントの従業員?……はあ、お名前は……えっ! ただいま伺います」

 しばらくすると、ロビーのエレベーターの扉が開いた。そこには、見覚えのある五十代の女性がいた。

「ご無沙汰しています。増川さん」私は頭を下げた。
 彼女は、かつて父が社長を務めた素芦もとあし不動産の社員だった。私は学生時代の夏休み、父の会社にお邪魔して雑用を手伝っていたので、ベテラン従業員の顔は覚えている。
「那津美さん……こちらへどうぞ」
 増川さんが気まずそうにうつむいたまま、ロビー奥の応接室に通してくれた。

 素芦不動産の社員の多くは、このミツハ不動産宇関支店に勤めている。
 お茶が出されたが、手をつけずに待つ。ほどなく、よく知っている男性が現れた。まさかこの男が現れるとは、と私は驚きつつ、逆に期待も膨らむ。
 私は立ち上がって頭を垂れた。
「荒本さん、あなたがいらっしゃるとは思ってもみませんでした」
「那津美、いいから座れ」
 男は尊大そうに顎でしゃくって私に命令し、自分もソファにドスンと沈み込んだ。

 響くようなバリトンボイス。この渋い声。認めたくないが、声だけなら暗黒皇帝陛下とまでいかないが、イケてる。
 いや、声だけではない。顔も客観的に見ればイケメンの部類だ。日に焼けた健康な肌。まっすぐな眉。鋭い眼光。整った鼻梁に、短く刈り込んだ髪。背は高く、平均女子よりは高い私でも見上げるぐらい。胸板も厚くラガーマンみたいだ。実際、彼は、柔道をやっていた。今も続けているのかは知らないが。

 この男、荒本丞司は五歳年上の遠い親戚だ。冠婚葬祭や月祭りなど行事で顔をよく合わせている。会いたくないが、荒本家は素芦もとあし家の分家なので付き合いは避けられない。

「出世されたと伺っています。お時間、忙しいのでは?」
「ようやく副支店長だ。何の用だ?」
「MA第3ビルに入居しているカメノ塾のテナント料について、お願いがございます」
 男は腕くみしてチッと舌打ちする。
「無理だ」
 まだ、賃料を下げてほしい、とは言ってないのに、いきなり却下された。

「疋田の叔母さんには、荒本さんだって世話になったではありませんか」
「世話? そんで社内で稟議が通ると思ってんのか?」
「荒本さんは副支店長とおっしゃってましたよね?」
「副支店長だからだよ。コネで赤字賃料を設定したら、部下に示しがつかねーだろ。どっかの社長さんはそうじゃなかったがな」
 男がニヤッと笑う。死んだ父のことを差しているのだ。
「荒本さん、小さい時、お父様お母様と喧嘩して家出して、うちや疋田さんの屋敷にいらしてましたよね」
 
 荒本の眉毛がピクっと動く。情けないが遠い親戚という『コネ』に頼るしかない。
「叔母さんが作ったおにぎりやいなりずし、一緒に食べましたよね?」
 端正な顔の男が舌なめずりした。
「ああ、お前と風呂に入り、一緒に寝てやった。お前がせがむから」

 全身の血がかっと熱くなった。
「気持ち悪いこと言わないで! 何十年前よ! 私、幼稚園にも行ってなかったわ!」

 ソファに座った彼が白い歯をむき出しにして笑った。
 この気持ち悪い男は、これでも結婚している。私は彼の妻をよく知っている。
「そうだ。疋田の叔母のことも何十年も前だ」
 特大のブーメランが私に襲いかかる。
 悔しい。隙がない。しかし、塾を潰すわけにいかない。

「荒本さん、カメノ塾には、勉強についていけない子、学校に行けない子どもたちが通ってます。地域の支えなんです」
「こっちは慈善事業じゃねーんだ。ビルには管理費だって税金だってかかる。そんなに地域で必要ってーなら、役場にでも掛け合うんだな」
 反論できない。ことばづかいは乱暴だが、筋は通っている。

 それなら本当に役場にお願いして援助してもらえないかと考えたとき、副支店長室の電話が鳴った。
「あ? ああ、このまま通せ」

 社員からの内線電話らしい。
「お客様ですか? それでは私、今日は帰ります」
 荒本がニヤっと笑う。
「まあ待て」
 と、ほどなく、私の知らない社員の案内でその客が現れた。

「那津美ちゃん! 大丈夫だった!?」
 客は、疋田の叔母だった。私に駆け寄ってくる。
「はは、俺はホントに信用されてねーみたいだな」
 荒本の視線が突き刺さった。


 叔母が泣きそうな顔で私の腕をさすった。
「那津美ちゃん、平気ね? 変なことされなかった?」
「やだ。大丈夫よ。叔母さん、荒本さんにお願いしてるだけ。賃料のことで」
 小さな叔母の背中をさすった。
 叔母は、行先を言わないで飛び出した私を心配して、ここまで追いかけてくれた。嬉しくもあり恥ずかしくもある。

 叔母は落ち着くと、私から離れて荒本に向き直った。
「丞司君、今まで世話になったわ。今月で塾たたむの。来月中には出てくから」
「そうですか。じゃ、今まで滞納したテナント料、まとめて請求させていただきます。そうそう原状回復もね」
 荒本は、事務的に告げる。
「私、何とかするから待ってて! ねえ叔母さん、もう少しがんばろうよ」

 が、叔母は首を振って、荒本を向いた。
「丞司君、すごいわねえ。やんちゃだったあんたが、偉くなって……このビルも兄さんが社長だったときとは違って、街のビルみたいだ」
「それより、ちゃんとテナント料払ってから出てってくださいよ」
 私は、叔母が賃料を滞納していることすら知らなかった。そこまで追い込まれていたなんて。真智君を正職員に採用どころじゃない。

「丞司君。あんたんところに、疋田の屋敷を売るよ。それで何とかならない?」
「ダメだって! あんないい屋敷、ミツハなんかに売っちゃダメ!」
 七年前、私も同じ目にあった。私の場合はそうせざるを得なかったが、カメノ塾はせいぜい賃料滞納分だけだ。

「叔母さん! 私の給料はなくていいよ。それなら払えるでしょ?」
 丞司が高笑いを始めた。
「ぶはははは。お前、おかしーだろ」
 おかしいのはわかってる。
「やめて那津美ちゃん! そうじゃないんだよ」
 叔母が叫ぶように私に縋りついた。

「あたしはもう七十だよ。疲れたんだ。だって……」
 叔母の喉が大きく鳴った。
「月のウサギさまが、見えないんだ……素芦もとあしの娘だったのに」
 そのことばに私は何も言えなくなった。
 荒本は「何がウサギさまだ。これだから宇関の連中は……」と舌打ちした。


 私と叔母は、それぞれの車を運転して、塾に戻った。いつのまにか、夜になっていた。
 塾の応接室のソファに向かい合って座る。
 叔母は、いきなり切り出した。
「あなたは、アサカワさんとお付き合いしてるんだから、今さら、あんな男と関わっちゃだめよ」
 アサカワ君には片思い中、と言ったんだけど……そういう問題ではない。
「心配しないで。必要以上にあの男と関わる気ないから。それより、月のウサギさまが見えないって」

 月の模様は、餅をつくウサギの形に見える。宇関の古い住民はそれをウサギさまと親しみを込めて呼び、秋の月祭りにはウサギさまに祈りを捧げる。が、この数年、祭りの日は雨か曇りが多く、ウサギさまは姿を現さない。
「目が悪くてね、お月様がぼんやりとしか見えないんだ」
 月のウサギさまが見えなくなるのは、どれほど心細いだろう。働くのが辛くて辞めたくなるのも仕方ない。目が悪くては、車の運転も不安だろう。

「そうだ! ビルから出て、叔母さんの屋敷を塾にしようよ。運転しなくてすむよ。そこから今まで払ってなかった賃料を払えばいいよ。テナント料が浮くでしょ? 私は、給料なくていいし、それまで何とか続けようよ」
「もういいんだ、那津美ちゃん。言ったでしょ? 屋敷を売るって」
「屋敷売って、私みたいにアパート暮らしするの? 大変だよ」
 叔母が寂しげに微笑む。
素芦もとあしの娘をやめたいんだ。県外に嫁いだ娘が、一緒に暮らそうって言ってくれたの」

 叔母が宇関から出るつもりなのだ。
 母は二十年前にいなくなった。父は七年前に死んだ。私にとって今や、叔母が親代わりだった。

「素芦の娘をやめたいって……どうして……」
 叔母は、ただ首を振るばかりだ。
「あたしね、ウサギさまが見えなくなってから、ずっと宇関を出ること考えてたんだ」
 私はただ静かに叔母のことばを待った。
「でもさ、あたしがいなくなったら、那津美ちゃん、本当に独りぼっちになっちゃうでしょ? お父さんもお母さんもいなくて可哀相だったから、がんばってたの」

 初めて叔母の思いを知った。
 何も言えない。言おうとしても唇が動かない。
 叔母は、ずっと前から塾を閉鎖したかったのだ。なのに、父も母もいない私のためにがんばって続けてくれた。

「でも、アサカワさんみたいないい人がいてくれるなら、もう安心だわ」
 唐突にアサカワ君が登場する。
「でも、彼は年下すぎるし、私が一方的に好きなだけだし……」
 叔母からのお見合い避けの言い訳を私は繰り返す。
「那津美ちゃんに好きな人ができた、ということが大事なの。それにアサカワさんも、那津美ちゃんのこと好きよ。いい笑顔だったもの」

 今まで独りでカワイソウだった私だが、アサカワ君の登場でカワイソウではなくなった。
 叔母は、この宇関にもう未練はないのだ。
「わかりました。叔母さん、元気でいてください」
「那津美ちゃんもよ。ちょっとぐらい年下だって、しっかりしてる人の方がいいわよ」

 どういう根拠で、あの宇宙オタク大学生をしっかりしている人と叔母は言うんだろう? それに年も「ちょっとぐらい」じゃない。彼はまだ大学生。
 でも言えない。アサカワ君はただの知り合いだなんて。安心しきっている叔母に、これ以上、私のために働けなんて言えない。

 宇関の片隅で愛されてきたカメノ塾は、四半世紀近い歴史を閉じることになった。
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