ギリシャ神話ファンタジーを書いてます ~パリスの大冒険~

さんかく ひかる

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6 主人公は、あっさりワナにはまる

(29)引きこもりの王

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「父上、ティノマコスは帰りました。あやつは錫石の値上げを主張してきましたが、アイネイアスの働きで、砂金一袋で済ませることができました」

 商人との交渉を終えたヘクトルは、宮の奥、プリアモス王の私室に、急いで駆け込む。
 王は海風を受けてテラスに立っていた。

「そうか」

 彼は息子に背を向けたまま、風に身を任せている。

「父上、私は間違っていましたか? ティノマコスの言うまま、値の砂金を増やした方が良かったのでしょうか?」

 何も返答はなく、ただ王者の衣の裾が、風ではためいているのみ。
 ヘクトルは堪え切れず、跪いて父の衣の裾を引っ張った。

「父上! 私は兵士たちを鍛え、城壁工事を指示することはできます。しかし、いかに欲深い商人たちと交渉すべきか、わかりません! 今度のことも、アイネイアスがいなければ、何もできなかった。父上、どうか私を導いてください! 私を叱ってください!」

 裾を引っ張る手に力を籠めた。

「あれほどトロイアの繁栄に尽くされた父上が、どうされたのです? 私は、イデ山から戻った日より、表の宮で父上にお会いしておりません」

 ようやく王は振り返る。が、息子の問いに何も答えない。

「雷雲がトロイアを襲った日、父上は、賢者殿とカッサンドラと共に、民を励ましたそうですね。しかしその日から、民にも重臣たちにも顔を見せなくなったと、アイネイアスから聞きました。弟たちも心配しています」

 父は息子に合わせるかのようしゃがみ込んだ。

「ヘクトルよ、もうよい。どんなに足掻いても、ゼウス様はトロイアを滅ぼすのだ」

 海風が王子の頬を通り過ぎていった。



 ――ゼウスがトロイアを滅ぼす

「……父上……カッサンドラからアポロン様の神託を聞いて、それで気を落とされて……」

 プリアモスが表に顔を出さなくなった理由を知り、ヘクトルは肩を震わせる。

「トロイアの滅亡は決まったわけではありません! アポロン様は我らに奢るなと警告をされているのです! ここで王家の者が力を合わせずして、どうして民を守れましょう!」

 息子は父の手をグッと握りしめた。が、プリアモスは力なく首を振る。

「トロイアは、アポロン様とポセイドン様が仲違いされたときに滅びかけた……亡き我が父上、ラオメドン王の時代だ」

「はい。その後、父上はトロイアを一代で立て直されました」

「民の多くが病と干ばつに苦しみ、我が父上は早く亡くなった。私がトロイアを継いだとき今のお前よりずっと若かった。土地の農作物だけに頼っていては干ばつに対応できない。そこで私は港を整備し広く交易を始めた」

「トロイアの繁栄は、すべて父上が成されたことです」

「昔は、今ほどゼウス様へ熱心に祈りを捧げていなかった。ゼウス様は、海の向こうの神々の一柱に過ぎなかった」

 ヘクトルは静かに頷いた。彼が物心ついた時からゼウスへの祭祀は頻繁に行われていたが、トロイアに昔からいた神でないことは、トロイア王族なら誰でも知っている。

「港に入ってきたアカイア人から、ゼウス様がどれほど偉大な神か聞かされた。だから私はゼウス様への祭祀を始めた。かつて、アポロン様とポセイドン様の仲違いで滅びかけたトロイアも、神々の王ゼウス様なら守ってくださると……」

 プリアモス王は、震えながら床に座り込む。

「私はトロイアに全てを捧げた。人としての情を犠牲にすることもあった……それでも、ゼウス様が私のトロイアを滅ぼすというのなら、もう私は……」

 ヘクトルは、父の絶望を理解した。何十年も心血を注いで国を守ったのにそれが無駄になる、となれば、何もかも虚しくなるだろう。

「お前にも辛い思いをさせたな」

 息子は父を抱きしめ、背中をなでた。

「ええ、鍛練から逃げ出した子供の私を、あなたは倉に三日間閉じ込め、食事を与えなかった。幼い頃は父上を恨みましたよ。でも父上のお陰で、私はトロイア一の戦士となれたのです」

 息子の腕の中で、父は「すまなかった」と嗚咽を堪えて力なく呟く。

「そればかりではない。アレクサンドロスは、生まれたばかりなのに美しい赤子だった。私の腕の中で力いっぱい泣いておった……あんなに愛らしい子は、見たことがなかった」

 ヘクトルは手を止めた。なぜここで、自分から捨てた息子の名を出すのだろう?

「しかし、アポロン様は私に不吉な夢を見せた……だから私はアレクサンドロスを捨てて、死んだことにした……あの美しい子を……」

 ヘクトルは思い起こす。プリアモスは、アポロンの印を授かった弟アレクサンドロスが、跡継ぎの地位を脅かすことを恐れたのだ。

「私がただの父親なら、あれを誰よりも可愛がってやっただろうに……あれは私を恨んでいるに違いない……」

 トロイアを栄えさせた偉大な王はいない。ここにいるのは、家出した息子を恋しがる哀れな父親だ。

「父上、アレクサンドロスを捨てたことを、本当は後悔されているのですね?」

 ヘクトルの大きな腕の中で、プリアモスは小さく頷いた。

「では、アレクサンドロスを呼び戻しましょう!」

 息子は、父を救う活路を見出し、声を上げた。
 と、プリアモスの目が輝きはじめる。

「アレクサンドロス……あれが戻るのか?」

「あいつは海の向こうにいます。しばらくお待ちください。アレクサンドロスが戻ったら、いかに悔やんでいるか話してやってください」

 ヘクトルは、プリアモスの肩を支えて立ち上がらせ、テラスの傍の椅子に座らせた。
「では、失礼」とヘクトルは頭を下げる。

「待つのだ」

 プリアモスは息子を呼び止めた。

「アレクサンドロスがヘレネをトロイアに連れて帰ると、賢者殿が予言していたな」

 未来人の重要な予言――パリスがスパルタの王妃ヘレネをさらい、ギリシャ軍が彼女を取り戻そうと攻め込む――トロイアの破滅は、そこから始まる。
 父の懸念はもっともであり、ヘクトルもそこは不安だった。あの調子のいい男は、人妻だろうが王妃だろうが見境なく口説きかねない。

「父上、アレクサンドロスに強く言い聞かせてあります。人妻に近づくな、と。万が一、彼がヘレネと共にトロイアに帰ってきたら、絶対に上陸させません。では」

 ヘクトルは王に背を向け、退出した。
 プリアモスは肩を落としてこぼす。

「……トロイアが滅ぶなら……せめてあの美しいヘレネともう一度……いや……」

 王のつぶやきは、王子には届かなかった。


 ――パリスを連れ戻す。

 引きこもった父を立ち直らせる術を見つけたヘクトルは、意気揚々と王宮を闊歩する。
 海の向こうの彼を探すのは難しい。それなら、アカイアへ渡る多くの船乗りたちに、幾度でも伝えよう。ヘクトルが待っている、急ぎ戻れ、と。


 彼は頭を巡らす。
 なぜ、アポロンは二人の王子に印を授けたのだろう? 不吉な夢を見させて捨てさせるぐらいなら、初めから印を授けなければよいのに……。

「いや! アポロン様が、印を授けた王子を蔑ろにするはずがない!」

 王宮の門をくぐり、足早に石畳の道を進む。
 ヘクトルは確信した。アポロンは、パリスを真の王にすべく印を授けたに違いない。

「パリスはたった四日間で、宮の女たちを虜にしたな……アンドロマケがよく言っている。オイノネは今も毎日、アポロン様にあいつの無事を祈っているとか……はは、間違いなく父上の子だ」

 プリアモス王には正妃ヘカベだけではなく、多くの妾が仕えている。

「あいつなら、欲深い商人を煽ててその気にさせるんだろうな」

 トロイアの長子は寂しげに自嘲する。
 ヘクトルは町を出て、港への道を駆け抜けた。

「パリス! 一日も早く戻れ! お前はトロイア人だ! お前は、トロイア王になる男なんだぞ!」

 男はアポロンの恵みで輝く海に向かって叫んだ。
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