85 / 101
6 主人公は、あっさりワナにはまる
(28)神の加護を受けた二人の男
しおりを挟む
商人との交渉を乗り切ったヘクトルは、槍を壁に立てかけ元に戻した。息を吐いてアイネイアスに微笑む。
「アイネイアス……助かった。俺は、槍を振り回すのは得意だが、商売は全く駄目なんだ……父上とは違って」
「そんなことないですよ。堂々たる王様ぶりでした」
王様ぶりと言われた男は、首を振る。
「いや……お前がティノマコスを捉えなければ、俺はあの男に屈していただろう」
「そうですか? 僕はむしろ、槍でいきなりブスっと刺すんじゃないかと、ハラハラしてたんですけどね」
ヘクトルはニヤッと笑い、アイネイアスの肩を叩いた。
「やはりお前は、部屋の外で待っていたんだな」
「入りづらい雰囲気だったもんで……」
王子は又従弟の肩を揺さぶる。この聡い男は、入室に一番効果的なタイミングを狙ったに違いない。
「その楔形文字は、どうした?」
ヘクトルは、アイネイアスが持っている粘土板を指さした。
「最近、楔形文字の練習を始めたんです。商人に会うと聞き、使えるかも、と持ってきました」
粘土板を持って青年は、照れくさそうに微笑んだ。
「ティノマコスが楔形文字をあまり知らなくて助かりました」
ヘクトルは腹を抱えて笑い転げた。
「あはははは! さすがトロイア一の知恵者! アフロディテ様の血を引くだけある!」
アイネイアスの眉毛がピクリと動いた。
「ヘクトル兄さんも、そう言うんですね。僕が女神の子だと」
アイネイアスがトロイアの王宮で暮らしてから、十年が経つ。トロイア王の遠縁のアンキセスが「プリアモス王に仕えさせたい」と、体格のいい少年を連れてきた。
彼はトロイアの王子達と似ておらず、王族らしい風格も、女神の華やかさもなかった。
「お前は間違いくアフロディテ様の息子だ。お前の知恵と力が、何よりの証拠ではないか」
神殿で鍛えられたアイネイアスは、トロイア王宮で存分に力を発揮した。今では、ヘクトルに次ぐ戦士として、誰もが彼を神の子と認めている。
「僕にはそれしか道がなかったんです」
「はは、俺も同じだ。産まれた時から、道は定められていた」
英雄は豪快に笑った。
アポロンから力の証を授かった王子に示された道は、ただひとつ。トロイアを栄えさせ守ること。
ヘクトルにはアポロンの、アイネイアスにはアフロディテの加護がある。
神の加護を受けた者にしかわからない苦しみを、この男も感じているに違いない――ヘクトルはある意味、弟たちより親しみを覚えていた。
アイネイアスは何を思ったのか、肩を落として大きくため息を吐いた。が、それはほんのひと時のこと。いつもの表情を取り戻し、おもむろに切り出した。
「どうです? 僕が鉄の製造技術を学びに、ヒッタイトへ行くのは。青銅より強い武器が、錫石なしで作れるんですよ。あんな商人に馬鹿にされなくてすみます」
アイネイアスは、その辺の海岸を散歩してくると言わんばかりの調子で、提案した。
途端にヘクトルは目を剥いた。
鉄の製法を学ぶ? それが不可能だと、トロイアの王族はみな知っている。
「冗談でもやめろ! 鉄の製法をヒッタイトは厳重に隠している……精錬所に忍び込んだスパイは、みな殺されたと聞くぞ」
「一か八かですよ。ヘクトル兄さんが殺されるわけにはいかない。でも、僕なら……問題ありませんよね」
アイネイアスは、平然と口元に笑みを湛えたまま、言い放った。
「馬鹿を言うな!」
ヘクトルは、又従弟の腕を取り、強く抱きしめた。
「お前は、トロイアになくてはならない戦士だ! だから父上は信頼の証にクレウサ……妹をお前に与えた。お前はもうプリアモス王の息子だぞ!」
アイネイアスと王女クレウサとの結婚が決まったのは、先日のことだ。
「……恥ずかしいから勘弁してくださいよ」
アイネイアスは、大きな腕の中で身をよじる。ヘクトルは気まずそうな顔で、義理の弟を解放した。
「つい、その……すまん……いや、命は大切にするんだぞ」
アイネイアスはいつもの眠そうな顔で笑った。
「命を大切……それ、トリファントスさんにもよく言われます」
「賢者殿の言うことだ。お前の未来に関わりがあるのだろう」
トロイアの跡継ぎは、大きく頷く。
アイネイアスはヘクトルから視線をそらして呟いた。
「そ、そんなことよりヘクトル兄さん、最近、王様を見かけませんね。錫石の商人と、いつも交渉されていたのに」
ヘクトルは、知恵者のするどい指摘に頭を抱えた。
彼が商人との交渉という苦手分野に取り組んだのは、父が拒絶したからに過ぎず、ヘクトルの本意ではない。父に深慮があったとは思えない。彼は父から何も指示を受けていない。
「そうだ。俺がイデ山から戻ってから、父上はまつりごとから遠ざかってしまった」
政治に無関心な王――。
ヘクトルにとって、トロイア全体にとって、商人との交渉以上に大きな問題だった。
「アイネイアス……助かった。俺は、槍を振り回すのは得意だが、商売は全く駄目なんだ……父上とは違って」
「そんなことないですよ。堂々たる王様ぶりでした」
王様ぶりと言われた男は、首を振る。
「いや……お前がティノマコスを捉えなければ、俺はあの男に屈していただろう」
「そうですか? 僕はむしろ、槍でいきなりブスっと刺すんじゃないかと、ハラハラしてたんですけどね」
ヘクトルはニヤッと笑い、アイネイアスの肩を叩いた。
「やはりお前は、部屋の外で待っていたんだな」
「入りづらい雰囲気だったもんで……」
王子は又従弟の肩を揺さぶる。この聡い男は、入室に一番効果的なタイミングを狙ったに違いない。
「その楔形文字は、どうした?」
ヘクトルは、アイネイアスが持っている粘土板を指さした。
「最近、楔形文字の練習を始めたんです。商人に会うと聞き、使えるかも、と持ってきました」
粘土板を持って青年は、照れくさそうに微笑んだ。
「ティノマコスが楔形文字をあまり知らなくて助かりました」
ヘクトルは腹を抱えて笑い転げた。
「あはははは! さすがトロイア一の知恵者! アフロディテ様の血を引くだけある!」
アイネイアスの眉毛がピクリと動いた。
「ヘクトル兄さんも、そう言うんですね。僕が女神の子だと」
アイネイアスがトロイアの王宮で暮らしてから、十年が経つ。トロイア王の遠縁のアンキセスが「プリアモス王に仕えさせたい」と、体格のいい少年を連れてきた。
彼はトロイアの王子達と似ておらず、王族らしい風格も、女神の華やかさもなかった。
「お前は間違いくアフロディテ様の息子だ。お前の知恵と力が、何よりの証拠ではないか」
神殿で鍛えられたアイネイアスは、トロイア王宮で存分に力を発揮した。今では、ヘクトルに次ぐ戦士として、誰もが彼を神の子と認めている。
「僕にはそれしか道がなかったんです」
「はは、俺も同じだ。産まれた時から、道は定められていた」
英雄は豪快に笑った。
アポロンから力の証を授かった王子に示された道は、ただひとつ。トロイアを栄えさせ守ること。
ヘクトルにはアポロンの、アイネイアスにはアフロディテの加護がある。
神の加護を受けた者にしかわからない苦しみを、この男も感じているに違いない――ヘクトルはある意味、弟たちより親しみを覚えていた。
アイネイアスは何を思ったのか、肩を落として大きくため息を吐いた。が、それはほんのひと時のこと。いつもの表情を取り戻し、おもむろに切り出した。
「どうです? 僕が鉄の製造技術を学びに、ヒッタイトへ行くのは。青銅より強い武器が、錫石なしで作れるんですよ。あんな商人に馬鹿にされなくてすみます」
アイネイアスは、その辺の海岸を散歩してくると言わんばかりの調子で、提案した。
途端にヘクトルは目を剥いた。
鉄の製法を学ぶ? それが不可能だと、トロイアの王族はみな知っている。
「冗談でもやめろ! 鉄の製法をヒッタイトは厳重に隠している……精錬所に忍び込んだスパイは、みな殺されたと聞くぞ」
「一か八かですよ。ヘクトル兄さんが殺されるわけにはいかない。でも、僕なら……問題ありませんよね」
アイネイアスは、平然と口元に笑みを湛えたまま、言い放った。
「馬鹿を言うな!」
ヘクトルは、又従弟の腕を取り、強く抱きしめた。
「お前は、トロイアになくてはならない戦士だ! だから父上は信頼の証にクレウサ……妹をお前に与えた。お前はもうプリアモス王の息子だぞ!」
アイネイアスと王女クレウサとの結婚が決まったのは、先日のことだ。
「……恥ずかしいから勘弁してくださいよ」
アイネイアスは、大きな腕の中で身をよじる。ヘクトルは気まずそうな顔で、義理の弟を解放した。
「つい、その……すまん……いや、命は大切にするんだぞ」
アイネイアスはいつもの眠そうな顔で笑った。
「命を大切……それ、トリファントスさんにもよく言われます」
「賢者殿の言うことだ。お前の未来に関わりがあるのだろう」
トロイアの跡継ぎは、大きく頷く。
アイネイアスはヘクトルから視線をそらして呟いた。
「そ、そんなことよりヘクトル兄さん、最近、王様を見かけませんね。錫石の商人と、いつも交渉されていたのに」
ヘクトルは、知恵者のするどい指摘に頭を抱えた。
彼が商人との交渉という苦手分野に取り組んだのは、父が拒絶したからに過ぎず、ヘクトルの本意ではない。父に深慮があったとは思えない。彼は父から何も指示を受けていない。
「そうだ。俺がイデ山から戻ってから、父上はまつりごとから遠ざかってしまった」
政治に無関心な王――。
ヘクトルにとって、トロイア全体にとって、商人との交渉以上に大きな問題だった。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説

【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。
三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎
長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!?
しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。
ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。
といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
スライム10,000体討伐から始まるハーレム生活
昼寝部
ファンタジー
この世界は12歳になったら神からスキルを授かることができ、俺も12歳になった時にスキルを授かった。
しかし、俺のスキルは【@&¥#%】と正しく表記されず、役に立たないスキルということが判明した。
そんな中、両親を亡くした俺は妹に不自由のない生活を送ってもらうため、冒険者として活動を始める。
しかし、【@&¥#%】というスキルでは強いモンスターを討伐することができず、3年間冒険者をしてもスライムしか倒せなかった。
そんなある日、俺がスライムを10,000体討伐した瞬間、スキル【@&¥#%】がチートスキルへと変化して……。
これは、ある日突然、最強の冒険者となった主人公が、今まで『スライムしか倒せないゴミ』とバカにしてきた奴らに“ざまぁ”し、美少女たちと幸せな日々を過ごす物語。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

Another World〜自衛隊 まだ見ぬ世界へ〜
華厳 秋
ファンタジー
───2025年1月1日
この日、日本国は大きな歴史の転換点を迎えた。
札幌、渋谷、博多の3箇所に突如として『異界への門』──アナザーゲート──が出現した。
渋谷に現れた『門』から、異界の軍勢が押し寄せ、無抵抗の民間人を虐殺。緊急出動した自衛隊が到着した頃には、敵軍の姿はもうなく、スクランブル交差点は無惨に殺された民間人の亡骸と血で赤く染まっていた。
この緊急事態に、日本政府は『門』内部を調査するべく自衛隊を『異界』──アナザーワールド──へと派遣する事となった。
一方地球では、日本の急激な軍備拡大や『異界』内部の資源を巡って、極東での緊張感は日に日に増して行く。
そして、自衛隊は国や国民の安全のため『門』内外問わず奮闘するのであった。
この作品は、小説家になろう様カクヨム様にも投稿しています。
この作品はフィクションです。
実在する国、団体、人物とは関係ありません。ご注意ください。
ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話
桜井正宗
青春
――結婚しています!
それは二人だけの秘密。
高校二年の遙と遥は結婚した。
近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。
キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。
ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。
*結婚要素あり
*ヤンデレ要素あり
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる