ギリシャ神話ファンタジーを書いてます ~パリスの大冒険~

さんかく ひかる

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6 主人公は、あっさりワナにはまる

(27)造物主は車の値下げ交渉もできません

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 ヘクトルは、王宮の広間で、痩せた男と向かい合って座っていた。向かいの男をヘクトルは良く知っている。父プリアモス王が懇意にしている商売人だ。

 この大広間で、トロイアを訪れる多くの要人をもてなした。壁には、青銅の鎧と兜が置かれ、槍がいくつも立てかけられている。
 武器の傍には、装飾を施した木製の棚が置かれている。棚の上には、楔形文字を刻んだ粘土板がずらっと並んでいた。トロイアはかつて、東の大国ヒッタイトと関わりが深く、しばしば、楔形文字の外交文書を取り交わしていた。

「トロイアのワインは香りが違いますね~」

 男はカップに尖った鼻を近づけ、目を細めた。テーブルには、ワインにチーズ、そして干し肉が並べてある。

「で、あたしは王様と話したいって言ったんですがね」

 向かいに座る男は手をもみ、チロチロと王子に視線を送る。
 ヘクトルは、右手首に輝く、赤い石の腕輪を売人に見せつけた。

「ティノマコスよ。私は、鉱石の売買に関してプリアモス王より引き継いだ。不満か?」

 ヘクトルは商人に呼びかけた。王子の首には、幾重にも巻かれた金の鎖が輝いている。彼は宝飾品を好まないが、今回ばかりは、妻アンドロマケの勧めにより、要人を接待する父の装いを真似たのだ。

「いやいやいや~、ヘクトル様は次の王になられる方。不満なんて……」

 テーブル上で、拳大の黒い結晶の塊が、眩い金属光沢を放っている。

錫石すずいしの運搬、ご苦労だったな」

「へえ、残りの石は今、手下たちに王宮の庫へ運ばせてます」

「先ほど立ち会った。錫石はひと抱えあったから、砂金ひと袋で足りるな?」

 青銅器を作るためには、すずが欠かせない。が、錫は希少な鉱物で、どこでも取れるわけではない。
 北の海から錫石を運んでくるこの男は、トロイアにとって重要な交易相手だ。プリアモス王は、長年この商人ティノマコスと取引を続けていた。
 アカイアが軍備を拡張しているとの噂は、嫌でも耳に届く。ヘクトルは、錫石を多く仕入れ青銅の武具を増やすことを、父王に提案していた。

「え……それだけですかい……錫だって無限にあるわけじゃないんです。あたしら王様の熱意に応えるため、山を何か月も周り、やっと新たな鉱脈を見つけたんですよ」

 来たか。ヘクトルは、錫の売人の眼をじっと見つめる。
 錫をただ搬入するだけで、この男がわざわざプリアモス王に拝謁を求めるはずがない。
 王子は、首を傾けて笑った。

「ティノマコス、ワインが気に入ったのなら、壺にたっぷりトロイアのワインを酌んで運ばせよう」

「はぁっ?」

 それまで手をもんでいた商人の目が吊り上がった。

「あのさぁ、こっちはさ~、重たい石をどっさり運んで、はるばーる海を渡って来てやってんのよぉ。追加料金がワイン一本だけ~?」

 ティノマコスは、ヘクトルに指を突きつけた。
 商人の突然の変貌に、王子は言葉を失う。この男とは何度も会っているが、粗ぶった態度を見るのは始めてだ。

「そんなに立派な首飾りを沢山ぶら下げてるくせにぃ? 少しはさあ、あたしらにいい思いさせてくれたっていーんじゃないのぉ?」

 ヘクトルは眉根を寄せて、金の鎖に指を這わせる。この商人は、錫の対価としてこの首飾りを求めているのだろう。

「トロイアの職人の技と努力の結晶を、安売りしたくはない……」

「安売りだっとぉ! あのさあ、錫を欲しがってんのは、あんたらだけじゃないの。アカイアの連中も同じ。でも、アカイア人は気前いいからね~、どこかの偉そうな王子様とは違ってさぁ」

「なんだと! あの者たちは、北の海にまで出て錫を求めているのか!」

 ヘクトルは立ち上がる。素早く壁に立てかけた槍を取った。

「おっとー! 錫、欲しくないの? そういう槍、たくさん作るんだろ?」

 商人ティノマコスの目が、ギラギラと光っている。
 ヘクトルは、首の鎖に手を掛ける。
 その時。広間に、爽やかな青年の声が響き渡った。

「待て! ヘクトル様への無礼は、僕が許さない!」

 声の持ち主が室内に飛び込んできた。青年の腰で、帯にぶら下げた袋が揺れている。
 すぐさま彼は脅迫者の腕を引っ張り、背中から羽交い絞めにした。

「くっ! あんたは……は、離してくれ……」

 身体を締め付けられた商人は、くぐもった声を漏らす。

「アイネイアス、遅いぞ」

 トロイアの王子は憮然と言い放つも、僅かに口元を緩めた。

「ヘクトル様、申し訳ございません」

 もう一人の王子は、商人の首をきりきりと締め出した。

「あ、アイネイアスさん……あんた……暴力は嫌いなんだろ……」

 アイネイアスもヘクトルと同様、商人と何度も顔を合わせている。

「だから、お前のような男が許せない!」

「あ、あたしは、暴力じゃない……道理を説いてた……だけさ……」

「道理? お前はヘクトル様を恐喝し、侮辱した! これが暴力でなくてなんだと!?」

 もがく二人の元へ、ヘクトルは槍を手にゆっくり歩む。
 商人は、羽交い絞めにされたまま、必死に笑顔を作る。

「ぐっ、げほっ! 王子様……あたしが……錫を、持っ、持ってこなかったら……ぐっ!……武器も農具も……作れない……あんたの大切な民……が困るだけ……ぐっ!」

 商人の言葉にヘクトルはグッと唇を噛み締める。
 が、アイネイアスはさらに腕に力を籠め、ティノマコスの耳元でがなりたてた。

「錫? 錫なんかいらない! 僕らにはヒッタイト皇帝がいる! そうですよね? ヘクトル様?」

 ――ヒッタイト皇帝! ヘクトルは、又従弟の言葉に目を見開いた。

「アイネイアス……離してやれ」

「ヘクトル様! こんな男を甘やかしてはなりません!」

「離すんだ!」

 王の長子の怒号と共に、アイネイアスは唇を噛みつつ手を離す。
 ヘクトルは解放された男の元へ近づく。槍をアイネイアスに預ける。
 そして首から金の鎖を外し、ティノマコスの首に掛けた。

「や、やった~、さすが王子! これからもよろしくってことで、頼んますわ」

 ヘクトルは、小躍りする男の肩をポンと叩いて笑った。

「ティノマコス、この先はない。その鎖は、私からの餞別だ。今まで苦労を掛けた。名残り惜しいが、今日で終わりにしよう」

「へ? 餞別? こっちのお坊ちゃん、ヒッタイトがどーとか言ってたけど、どんなに立派な王様がいたって、物がなければ話になりませんよ?」

 商人はヘラヘラと笑う。ヘクトルは腕くみをして唇をゆがめた。

「その『物』をヒッタイト皇帝が、私たちに約束してくれた……青銅より遥かに強力な武器を」

 途端、商人の顔がサーっと青ざめる。
 ヒッタイト帝国は、世界で初めて鉄器を製造したことで知られている。鉄は青銅より強くて壊れにくい。周辺国が青銅器を使っていた時代に、ヒッタイト帝国は、鉄の力で版図を拡大していった。

「ま、まさか……鉄か? いや、ヒッタイトが鉄を外国に渡すはずがない……」

 額に汗を流す商人に、ヘクトルは笑みを絶やさない。

「内乱で苦しむ帝国が、トロイアに援助を求めてきた。見返りとして……ヒッタイトは我らに、青銅より遥かに強力な金属、鉄の提供を約束してくれた」

「ハッタリだ! 証拠はあんのかよ!」

 ヘクトルはアイネイアスと顔を見合わせ頷く。と、アイネイアスは、腰にぶら下げた子袋を開き、中の物を掲げた。

「証拠ならここにある! 帝国からの要請文書だ!」

 アイネイアスの手には、拳大ほどの粘土板が握られている。板には楔形文字が刻まれていた。
 商人はまじまじと、青年が握りしめる物体を見つめる。粘土の乾き具合から、文字が刻まれてそれほど時が経ってないことが見て取れる。

「へっ? う、うそだろ……いや、こんな文字見たことない……」

「当然だ! 僕らとヒッタイトだけにわかる文字で書かれているからな! お前ごときが読めるわけない!」

 商人はなおも納得できないのか首を傾げている。
 と、アイネイアスはヘクトルに長槍を渡した。
 トロイアの長子は顔を歪ませ、受け取った槍を、商人の眼前に突き出した。

「ひっ! ひいいいい~!」

「トロイアの敵には容赦しない!」

「敵? いやですね~、あたしは長い間、王様のために、はるばる錫石を運んできたのに」

「アカイアの連中に、錫石を売るのだろう? お前が売った錫はやがて、やつらの槍となり剣となる……トロイアを突き刺すためのな!」

「ひ、す、すいません~。こちらはお返しします!」

 商人はもらったばかりの金鎖を外し、捧げ持つ。
 ヘクトルは槍を引っ込め、鎖を受け取った。

「お前はこれが欲しかったのでは?」

「め、めっそうもありません。どうか、これからも選りすぐりの錫石を持ってきますんで」

 ヘクトルは、跪いて震える商人を立たせて笑いかけた。

「そうか。では、これからもトロイアの民の守りとなってくれ」

「ごめんなさい~~~!!!」

 商人ティノマコスは、ヘルメスのサンダルを履いたかのように、退散した。
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