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6 主人公は、あっさりワナにはまる
(23)王女の悲劇
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トリファントスはカッサンドラに、自分が未来の人間だと明かした。アレキサンドリアの日々、父との確執、スフィンクスとの出会いを語る。
「カッサンドラさん、無理に信じなくてもいいですよ」
王女は俯いたまま呟いた。
「私、お兄様がこの方を神の使いとして披露されたとき、お兄様が騙されたのかと思いました」
「あははは、俺、怪しさ満点ですから」
「トリファントス様は、私がお慕い申し上げるアポロン様とは似ても似つかない方ですもの。到底、神の使いとは思えませんでした」
「おいおい、それは賢者殿に失礼だろう」
ヘクトルはカッサンドラの非礼を指摘するも、顔は笑っている。兄も妹と同じように、トリファントスをおよそ神々しくない賢者と思っているのだろう。
王女は静かに首を上げ、トリファントスとヘクトルの二人に視線を送った。
「ですが、これで納得できました。私、賢者様を信じます」
王女の済みきった声が、客間に響く。
「私の侍女が、賢者様の温かい励ましで結婚できたと喜んでいました」
「げっ! あの子、あんたんとこで働いてたのか!」
トリファントスに恋の悩みを相談した娘が恋の成就を報告したのは、数日前のこと。
中年男は、偉いスピードで進展するなあと感心しつつも、いや、それ自分関係ないよなと、思い直す。
男が戸惑う間も、王女は、賢者を信頼する訳を述べる。
「賢者様はトロイアの民に優しく語りかけました。みなその人柄を慕っております」
賢者と呼ばれる男は、二十日前の拙い演説を思いだし、逃げ出したくなった。
「未来からいらした方と聞き、ようやく腑に落ちました」
「そ、そうなんですか?」
「第一、賢者様が私たちを騙すつもりなら『ただの親父』と卑下しないでしょうし」
誉められているのかどうか微妙だが、ともあれ、中年男は、若くて美しい娘から高い評価を得られて、安堵した。
「ですから教えてください。あなたの知るカッサンドラの運命を」
未来人の安堵は続かなかった。振り出しに戻ってしまった。
ヘクトルは悲しげに首を振る。
「カッサンドラの考える通りだ。賢者殿は予言した。トロイアが滅ぶ。男は殺され女は敵の奴隷にされる……少なくともアンドロマケはそうなるんだな?」
なぜヘクトルが彼の妻の運命を知っているのか? また余計なことを口走ったのかとトリファントスは自らを振り返りつつ「俺、アンドロマケさんのことは覚えてないなあ」とあらぬ方を向く。
「パリスは知っていたぞ」
思い出した。
パリスとトリファントスのお披露目の前、彼はパリスにヘクトルの妻の悲惨な運命を告げた。そのあと部屋に入ってきたヘクトルは、なんの表情も見せなかった。
「ええ! やっぱ、あれ聞いてたんだ!」
「気にするな。戦とはそういうものだ」
「なんで俺は、余計なことを言っちまうんだよ!」
トリファントスはこのトロイアで、何度その台詞を叫んだことだろう。
王女は唇をきっと引き締める。
「では、あなたの知るカッサンドラも、敵の奴隷になったのですね」
「あ、ええ、まあ」
トリファントスは露骨に目をそらし、巷に伝えられているカッサンドラの悲劇を思い起こした。
トロイア伝説でも、悲劇の王女として知られているカッサンドラ。
彼女はアポロンに見初められ、彼より予言の力を授かった。が、皮肉にも、カッサンドラはその予言の力でアポロンに捨てられる未来を知り、神の求愛を拒む。
王女の拒絶に怒ったアポロンは、報復として「誰もお前の予言を信じることはないだろう」と呪った。
カッサンドラはトロイアの危機を何度も予言するが、アポロンの呪いのため聞く者はなく、トロイアはギリシャに滅ぼされる。
落城の日、カッサンドラは神の像にすがりつき祈るも、非情なことにギリシャの将軍に犯された。
カッサンドラは総大将アガメムノンの奴隷となった。
が、悲劇はここで終わらない。
アガメムノンの妃は、夫の留守中に作った愛人と共謀し、国を乗っ取ろうと企む。
奴隷になったカッサンドラは、王アガメムノンの入浴の世話をしていたが、浴室に乱入した王妃とその愛人に、王もろとも殺されてしまうのだ。
トロイアの王子も王女も、悲壮感あふれる眼差しで賢者を見つめている。
こんなひどい話、本人にはもちろん、ヘクトルやパリスにも絶対言えない。この重苦しい空気を何とかしたい。
トリファントスは懸命に頭を回し、アレキサンドリアの日々を思い起こす。彼らの希望となる話がないのか、頭の中を検索する。
「そうだ! 俺たちの時代にもトロイアに町、ありますよ!」
苦し紛れに搾り出した話題が、トロイア兄妹の顔を、一斉に輝かせる。
「町には劇場があって、お芝居をやったり剣闘士が戦ったり、あのトロイア伝説の故郷ってことで、人気あるみたいです」
引きこもりのトリファントスは、もちろんトロイアに行ったことはない。が、屋敷を訪れる旅人から、トロイアの町の噂を耳にしたことがある。
彼のいた時代にも、トロイアに町は残っていた。トロイアは交易の要所として、何度も滅びと再建を繰り返していた。
「俺たち、ヘクトルさんがパリスさんを叱った話とか、奥さんや子供に優しかった話、聞いているんです。これって、トロイア王宮の誰かが生き残って伝えないと、残らない話ですよね」
兄と妹は目を合わせ大きく頷いた。ヘクトルは立ち上がり、拳を天井に向けてつき出す。
「アポロン様がオリュンポス山へ去っても、俺たちは神々を信じよう! ゼウス様もいずれわかってくださる! それでもゼウス様がトロイアを滅ぼすおつもりなら、民を別の地に逃がすのだ。地を失っても民は絶対に死なせてはならない! 父上プリアモス王の名に掛けても」
不吉な予言ばかりしてきた未来人は、憧れの英雄の力強い宣言に顔を綻ばせる。
「カッサンドラ、悪いが、お前の結婚はしばらくお預けだ。当面は、すべてアポロン様の思し召しの通りにするのだ」
「お兄様! もとから私は、人の男の物になるつもりはありません!」
ヘクトルはいきり立つカッサンドラに目をくれず、トリファントスに向き直った。
「やはり賢者殿がこのトロイアにいるのは、アポロン様のお導きに違いない。気掛かりなことがあれば、遠慮なく知らせてくれ」
英雄に目をキラキラされたトリファントスは、伝説における気掛かりを王女に尋ねた。
「カッサンドラさん、あの……もしアポロン様に捨てられたら、どうします?」
顔を輝かせた王女が、トリファントスをキッと睨み付けた。
「あなたの知るカッサンドラは、アポロン様に捨てられるのですね」
「あ、ええ、うん、まあ……」
カッサンドラは少し考え込み、顔をあげた。
「アポロン様が私を愛してくださるのは、いっときのこと。私より若い娘が現れればそれで終わりです。覚悟はできています」
トリファントスは安堵で顔を綻ばせる。このカッサンドラは強い。悲劇の伝説に負けていない。
「でも……叶うことなら.……」
王女はうつむき頬を染める。
「捨てられる前に、アポロン様からお子を授かりたいのです」
「えええ! いきなり子供かよ!」
トリファントスはのけ反った。この清楚な女性に、生々しい発言は似つかわしくないのに。
「賢者様、愛する殿方の子を授かりたいとは、おかしな願いですか? アポロン様にはすでにお子がいらっしゃいます。私も栄誉に預かりたいのです」
未来人は神話を思い出した。アポロンには、神々の王ゼウスほどではないが、子供がいる。
「カッサンドラ、アポロン様から子を授かるのは、めでたいことだ」
ヘクトルもあっさり歓迎している。
トリファントスが生きた時代は紀元三世紀末。エジプトがローマに支配され三百年経った。キリスト教が誕生して二百年以上経過した。神々への祭祀は盛んだが、神話の時代はすっかり遠ざかっている。
トリファントスが耳にする「半神の子」という言葉は、父親がわからない子供という意味で、母子共々白い目で見られる。
しかしこの時代は、どういう仕組みなのかわからないが、本当に神と人の間に子が生まれたのかもしれない。
未来人の困惑をよそに、ヘクトルは妹への説教を止めない。
「しかしカッサンドラ、神は人の子を育てない。女一人で子を育てるのは大変だ……ゼウス様の子を産んだ女人たちは、妃ヘラ様から大いに苦しめられたからな。子を産むなら、なおさら夫が必要だぞ」
「お兄様! 先ほど私に結婚を諦めろとおっしゃいましたよね! 私は一人でアポロン様の子を育ててみせます!」
「結婚を諦めろとは言ってないぞ。もう少し先になると言ったまでだ」
王女は不意にトリファントスの手を取った。
「賢者様、用は済みました。これ以上は時間の無駄です」
中年男は、厳しい顔の王女に睨み付けられる。ヘクトルがクスクスと笑った。
「カッサンドラ。やはりお前は賢者殿が気に入っているのだな」
トリファントスはうんざりしてきた。この英雄は、どうしても自分と王女をくっつけたいらしい。
「ヘクトルさん、勘弁してくださいよ~。俺、昔、女に振られたんで、コリゴリなんです」
咄嗟に口から飛び出した言い訳は、全くのでたらめではない。が、トリファントスは、その女のことを、今の今まですっかり忘れていた。
「賢者殿は、一人の女を一途に思っているのか。パリスとは大違いだな」
ヘクトルは眉を寄せ、寂しげな微笑みを未来人に向ける。トリファントスは、英雄から向けられた哀れみに胸が痛んだ。女よけの口実に過ぎないのに。
「パリスはやり過ぎだが、賢者殿は少しあいつを見習った方がいいな。カッサンドラと一緒になってくれるとありがたいが、他に気になる女がいても構わぬ。その時は力になるぞ」
どこまでこの英雄はお節介なのか。
苦笑いを浮かべたトリファントスは、カッサンドラに手を引っ張られ客間をあとにした。
二人並んで、ヘクトルの館を出る。
トリファントスは「じゃあ」と、自分の住処に帰ろうとするが、王女に「賢者様」と呼び止められた。
「あなたは私の侍女を温かい言葉で励ましてくださいました」
「いや、そんなんじゃないっすよ」
「私にもその言葉をいただけませんか」
「カッサンドラさん、無理に信じなくてもいいですよ」
王女は俯いたまま呟いた。
「私、お兄様がこの方を神の使いとして披露されたとき、お兄様が騙されたのかと思いました」
「あははは、俺、怪しさ満点ですから」
「トリファントス様は、私がお慕い申し上げるアポロン様とは似ても似つかない方ですもの。到底、神の使いとは思えませんでした」
「おいおい、それは賢者殿に失礼だろう」
ヘクトルはカッサンドラの非礼を指摘するも、顔は笑っている。兄も妹と同じように、トリファントスをおよそ神々しくない賢者と思っているのだろう。
王女は静かに首を上げ、トリファントスとヘクトルの二人に視線を送った。
「ですが、これで納得できました。私、賢者様を信じます」
王女の済みきった声が、客間に響く。
「私の侍女が、賢者様の温かい励ましで結婚できたと喜んでいました」
「げっ! あの子、あんたんとこで働いてたのか!」
トリファントスに恋の悩みを相談した娘が恋の成就を報告したのは、数日前のこと。
中年男は、偉いスピードで進展するなあと感心しつつも、いや、それ自分関係ないよなと、思い直す。
男が戸惑う間も、王女は、賢者を信頼する訳を述べる。
「賢者様はトロイアの民に優しく語りかけました。みなその人柄を慕っております」
賢者と呼ばれる男は、二十日前の拙い演説を思いだし、逃げ出したくなった。
「未来からいらした方と聞き、ようやく腑に落ちました」
「そ、そうなんですか?」
「第一、賢者様が私たちを騙すつもりなら『ただの親父』と卑下しないでしょうし」
誉められているのかどうか微妙だが、ともあれ、中年男は、若くて美しい娘から高い評価を得られて、安堵した。
「ですから教えてください。あなたの知るカッサンドラの運命を」
未来人の安堵は続かなかった。振り出しに戻ってしまった。
ヘクトルは悲しげに首を振る。
「カッサンドラの考える通りだ。賢者殿は予言した。トロイアが滅ぶ。男は殺され女は敵の奴隷にされる……少なくともアンドロマケはそうなるんだな?」
なぜヘクトルが彼の妻の運命を知っているのか? また余計なことを口走ったのかとトリファントスは自らを振り返りつつ「俺、アンドロマケさんのことは覚えてないなあ」とあらぬ方を向く。
「パリスは知っていたぞ」
思い出した。
パリスとトリファントスのお披露目の前、彼はパリスにヘクトルの妻の悲惨な運命を告げた。そのあと部屋に入ってきたヘクトルは、なんの表情も見せなかった。
「ええ! やっぱ、あれ聞いてたんだ!」
「気にするな。戦とはそういうものだ」
「なんで俺は、余計なことを言っちまうんだよ!」
トリファントスはこのトロイアで、何度その台詞を叫んだことだろう。
王女は唇をきっと引き締める。
「では、あなたの知るカッサンドラも、敵の奴隷になったのですね」
「あ、ええ、まあ」
トリファントスは露骨に目をそらし、巷に伝えられているカッサンドラの悲劇を思い起こした。
トロイア伝説でも、悲劇の王女として知られているカッサンドラ。
彼女はアポロンに見初められ、彼より予言の力を授かった。が、皮肉にも、カッサンドラはその予言の力でアポロンに捨てられる未来を知り、神の求愛を拒む。
王女の拒絶に怒ったアポロンは、報復として「誰もお前の予言を信じることはないだろう」と呪った。
カッサンドラはトロイアの危機を何度も予言するが、アポロンの呪いのため聞く者はなく、トロイアはギリシャに滅ぼされる。
落城の日、カッサンドラは神の像にすがりつき祈るも、非情なことにギリシャの将軍に犯された。
カッサンドラは総大将アガメムノンの奴隷となった。
が、悲劇はここで終わらない。
アガメムノンの妃は、夫の留守中に作った愛人と共謀し、国を乗っ取ろうと企む。
奴隷になったカッサンドラは、王アガメムノンの入浴の世話をしていたが、浴室に乱入した王妃とその愛人に、王もろとも殺されてしまうのだ。
トロイアの王子も王女も、悲壮感あふれる眼差しで賢者を見つめている。
こんなひどい話、本人にはもちろん、ヘクトルやパリスにも絶対言えない。この重苦しい空気を何とかしたい。
トリファントスは懸命に頭を回し、アレキサンドリアの日々を思い起こす。彼らの希望となる話がないのか、頭の中を検索する。
「そうだ! 俺たちの時代にもトロイアに町、ありますよ!」
苦し紛れに搾り出した話題が、トロイア兄妹の顔を、一斉に輝かせる。
「町には劇場があって、お芝居をやったり剣闘士が戦ったり、あのトロイア伝説の故郷ってことで、人気あるみたいです」
引きこもりのトリファントスは、もちろんトロイアに行ったことはない。が、屋敷を訪れる旅人から、トロイアの町の噂を耳にしたことがある。
彼のいた時代にも、トロイアに町は残っていた。トロイアは交易の要所として、何度も滅びと再建を繰り返していた。
「俺たち、ヘクトルさんがパリスさんを叱った話とか、奥さんや子供に優しかった話、聞いているんです。これって、トロイア王宮の誰かが生き残って伝えないと、残らない話ですよね」
兄と妹は目を合わせ大きく頷いた。ヘクトルは立ち上がり、拳を天井に向けてつき出す。
「アポロン様がオリュンポス山へ去っても、俺たちは神々を信じよう! ゼウス様もいずれわかってくださる! それでもゼウス様がトロイアを滅ぼすおつもりなら、民を別の地に逃がすのだ。地を失っても民は絶対に死なせてはならない! 父上プリアモス王の名に掛けても」
不吉な予言ばかりしてきた未来人は、憧れの英雄の力強い宣言に顔を綻ばせる。
「カッサンドラ、悪いが、お前の結婚はしばらくお預けだ。当面は、すべてアポロン様の思し召しの通りにするのだ」
「お兄様! もとから私は、人の男の物になるつもりはありません!」
ヘクトルはいきり立つカッサンドラに目をくれず、トリファントスに向き直った。
「やはり賢者殿がこのトロイアにいるのは、アポロン様のお導きに違いない。気掛かりなことがあれば、遠慮なく知らせてくれ」
英雄に目をキラキラされたトリファントスは、伝説における気掛かりを王女に尋ねた。
「カッサンドラさん、あの……もしアポロン様に捨てられたら、どうします?」
顔を輝かせた王女が、トリファントスをキッと睨み付けた。
「あなたの知るカッサンドラは、アポロン様に捨てられるのですね」
「あ、ええ、うん、まあ……」
カッサンドラは少し考え込み、顔をあげた。
「アポロン様が私を愛してくださるのは、いっときのこと。私より若い娘が現れればそれで終わりです。覚悟はできています」
トリファントスは安堵で顔を綻ばせる。このカッサンドラは強い。悲劇の伝説に負けていない。
「でも……叶うことなら.……」
王女はうつむき頬を染める。
「捨てられる前に、アポロン様からお子を授かりたいのです」
「えええ! いきなり子供かよ!」
トリファントスはのけ反った。この清楚な女性に、生々しい発言は似つかわしくないのに。
「賢者様、愛する殿方の子を授かりたいとは、おかしな願いですか? アポロン様にはすでにお子がいらっしゃいます。私も栄誉に預かりたいのです」
未来人は神話を思い出した。アポロンには、神々の王ゼウスほどではないが、子供がいる。
「カッサンドラ、アポロン様から子を授かるのは、めでたいことだ」
ヘクトルもあっさり歓迎している。
トリファントスが生きた時代は紀元三世紀末。エジプトがローマに支配され三百年経った。キリスト教が誕生して二百年以上経過した。神々への祭祀は盛んだが、神話の時代はすっかり遠ざかっている。
トリファントスが耳にする「半神の子」という言葉は、父親がわからない子供という意味で、母子共々白い目で見られる。
しかしこの時代は、どういう仕組みなのかわからないが、本当に神と人の間に子が生まれたのかもしれない。
未来人の困惑をよそに、ヘクトルは妹への説教を止めない。
「しかしカッサンドラ、神は人の子を育てない。女一人で子を育てるのは大変だ……ゼウス様の子を産んだ女人たちは、妃ヘラ様から大いに苦しめられたからな。子を産むなら、なおさら夫が必要だぞ」
「お兄様! 先ほど私に結婚を諦めろとおっしゃいましたよね! 私は一人でアポロン様の子を育ててみせます!」
「結婚を諦めろとは言ってないぞ。もう少し先になると言ったまでだ」
王女は不意にトリファントスの手を取った。
「賢者様、用は済みました。これ以上は時間の無駄です」
中年男は、厳しい顔の王女に睨み付けられる。ヘクトルがクスクスと笑った。
「カッサンドラ。やはりお前は賢者殿が気に入っているのだな」
トリファントスはうんざりしてきた。この英雄は、どうしても自分と王女をくっつけたいらしい。
「ヘクトルさん、勘弁してくださいよ~。俺、昔、女に振られたんで、コリゴリなんです」
咄嗟に口から飛び出した言い訳は、全くのでたらめではない。が、トリファントスは、その女のことを、今の今まですっかり忘れていた。
「賢者殿は、一人の女を一途に思っているのか。パリスとは大違いだな」
ヘクトルは眉を寄せ、寂しげな微笑みを未来人に向ける。トリファントスは、英雄から向けられた哀れみに胸が痛んだ。女よけの口実に過ぎないのに。
「パリスはやり過ぎだが、賢者殿は少しあいつを見習った方がいいな。カッサンドラと一緒になってくれるとありがたいが、他に気になる女がいても構わぬ。その時は力になるぞ」
どこまでこの英雄はお節介なのか。
苦笑いを浮かべたトリファントスは、カッサンドラに手を引っ張られ客間をあとにした。
二人並んで、ヘクトルの館を出る。
トリファントスは「じゃあ」と、自分の住処に帰ろうとするが、王女に「賢者様」と呼び止められた。
「あなたは私の侍女を温かい言葉で励ましてくださいました」
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