ギリシャ神話ファンタジーを書いてます ~パリスの大冒険~

さんかく ひかる

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6 主人公は、あっさりワナにはまる

(20)イケメンの入浴シーン、書きたかっただけです

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 トロイア王子の館の奥に、モワモワと湯気が立ち込めている。湯気は、青銅の大きな三脚窯から広がっている。大人が入れそうな大きな窯に、湯がなみなみ湛えられている。女がひと抱えもある壺で湯を汲み出し、床に置かれた大きな鉢に注ぐ。もう一人の女が壺を傾け、鉢の湯に水を加えた。
 彼女たちの女主人が、鉢に満たされた湯に手を差し入れる。

「もっとお湯を。そろそろ熱くしていいわ」

 侍女は湯を鉢に加えた。アンドロマケは湯を掻き回し「良い加減ね」と頷くと、壺に汲んだ。

「湯など適当でいいぞ」

 湯気が立ち込める部屋に男の声が響く。男は横長の大きな陶器の中に、裸体を横たえていた。

「あなた、最初はそう言うのに、湯浴みを始めるともっと熱くって、注文つけますよね」

「あはは、そうだな」

 ヘクトルは自嘲気味に笑い、器のへりに背中を預けた。
 以前、父王が使っていたこの浴槽は、ヘクトルの巨体には小さい。膝を折り曲げ、長い脚を収める。
 アンドロマケはヘクトルの腕を取り、湯を夫の指先に掛けた。熱めの湯が、トロイア王子の腕から肩に注がれた。

「ヘクトル様、もう少し頭を前に」

 男は妻に大人しく従う。湯は、彼の漆黒の髪から太い眉へ整った鼻梁へ流れ落ちる。
 アンドロマケは、夫の頭に指を滑らし、丹念に髪を洗い流した。
 ヘクトルは瞼を閉じ、湯の温かさと妻の指の動きに心身を委ねた。


 二十日前、ヘクトルは数人の部下を連れ、雷鳴轟く南のイデ山へ馬で駆けつけた。
 イデ山の麓には、アンドロマケの父が治めるテーベの町がある。ヘクトルは妻の父に会い、町の被災状況を確認した。雷による火事で多くの建物が焼け出され、人も家畜も傷を負った。
 ヘクトルは、建築用の木材に薬、薪や食料といった物資と、医師や大工などテーベの復興に必要な人を寄越すよう、二人の部下に指示し、トロイアに先に返した。

 その後彼は、残りの部下たちに、壊れた家屋の仮修理やけが人の手当をさせ、自らもテーベの人々と共に動いた。
 トロイアからの物資や応援隊の到着を確認し、都に戻る。
 戻るや否や、城門の前で弟王子デイポボスが出迎え、「兄上、叱らないで聞いてくれ」と泣きついてきた。

 ヘクトルはトロイアの我が家に入る前に、港のポセイドン神殿に連れて行かれた。
 見ると神殿には巨大な地下室が出来上がっている。大人十人は入れそうな空間が広がっている。
 兄王子は弟王子に「なぜ俺を待てない! 勝手なことをするな!」と叱り飛ばすが、アカイアから逃げてきた船乗りたちがデイポボスを庇う。
 彼らは、アカイア人がトロイアに攻めてきたら、トロイア人ではない自分たちは城に入れない、いざという時のため避難所を作りたい、と訴えた。
 ヘクトルは首を傾げた。

「しかし、アカイア人が攻めてきても、お前たちもアカイア人だ。そう酷い目には合わないだろう?」

「ヘクトル王子、わかってないっすねえ! アカイアはトロイアみたいに、のんきじゃないっす。ミュケナイの王様の話、聞いたことねえっすか?」

「ミュケナイの王とは、アガメムノンか。なかなか優れた王に見えたが」

 トロイアの商船はアカイアの海賊に何度も襲われているが、ヘクトルはその背後にアガメムノンがいると考えている。悔しいが、王としての力量は認めざるを得ない。

「いやアガメムノンじゃなくて、その親父っす。スパルタのメネラオスの親父でもありますね」

 ヘクトルはかすかに眉をひそめた。
 スパルタのメネラオス王は、兄と違い野心はなく誠実な男だ。問題は、未来人トリファントスの予言にある。旅仲間であり実は弟だったパリスが、メネラオスの妃ヘレネをさらい戦争となるという、恐ろしい予言。
 アカイアの船乗りたちの話は、彼ら兄弟ではなく、彼らの父親のことらしい。

「前のミュケナイの王は、弟と王位を巡って戦争したんすよ。俺らが言うのもなんだけど、アイツら、兄弟でも平気で殺し合うんだ」

「なんだと!」

 ヘクトルは眦を吊り上げた。思い出した。父プリアモスが、弟アレクサンドロスを捨てた理由を。

 ヘクトルには大勢弟がいるが、彼が次のトロイア王であることは、だれもが認めていた。ヘクトル自身の力もさることながら、彼の右臀部にはトロイアの守護神アポロンからの印が刻まれていたから。

 実は、ほかにも印を刻んだ王子が生まれたが、すぐ捨てられた。プリアモス王は、アカイアの兄弟王子が王位を巡って争ったと聞き、平和で豊かなトロイアでも兄弟が対立することを恐れたと言う。
 父王が耳にした噂の兄弟とは、アガメムノンとメネラオスの父のことかもしれない。
 兄弟で殺し合うなど、このトロイアでは、考えられない。しかし、アカイア人は違うようだ。虐げられた船人の恐れは、もっともに思える。

「そうか。工事はどこまで進んだ?」

「ヘクトルさん、見てくださいよ」

 船人のリーダーは、空いた地下室の上に大きな石の板を被せた。石の蓋は神殿の石畳に溶け込んでいる。
 ヘクトルは目を見張り、石蓋の上に足を置いた。

「素晴らしい細工だな。この下に人がいるとは、まずわからないだろう」

 何度か足踏みするが、石の蓋はびくともしない。

「お前たち、船乗りではなく、実は大工なのだろう?」

 船人たちは「あ、まあね」と顔を見合わせる。

「スエシュドスのじいさんは、見る目がある。お前たちのような働き者を選び、トロイアに寄越したのだから」

 捨てられた王子アレクサンドロス、いや旅仲間パリスは、あの老人と上手くやっているのだろうか? まさか未来人が予言した通り、スパルタのヘレネ王妃と「友達」と称して人の道から外れたことをしていないだろうか?
 ヘクトルは、かつての旅仲間を案ずる。

 弟王子デイポボスは、無言のヘクトルに「で、兄上、そ、その」とモジモジと手を揉んだ。
 兄は口元を緩め、弟の肩をポンと叩いた。

「この工事をしっかり監督するんだぞ。俺も時々見に行く」

 アカイアの船乗りたちは「やったああ!」と歓声を上げ抱き合った。デイポボスは大きく息を吐き、胸を撫で下ろした。


 ヘクトルは瞼を閉ざし、流れる湯に身を任せる。

「アンドロマケ。テーベのお父上は、火事で焼け出された民ひとりひとりを励まされていたぞ。王として見習うべき方だな」

「ありがとうございます。私の故郷を気に掛けてくださって」

「今度はもっと穏やかな時に、会いたいものだ。なあ、アステュアナクス」

 ヘクトルは、浴槽のヘリにしがみつく幼子の頭に手を伸ばした。
 子供は「ちち~」とピョンピョン跳ね、浴槽に入ろうと身を乗り出す。

「やめなさい! お父様はお疲れなの。邪魔しないで! もう!」

「お前も母に洗ってもらうか?」

 ヘクトルは息子を持ち上げ、カラカラと笑う。

「坊やはおととい、洗ってあげたばかりなのに……仕方ないわね」

 館の女主人は口を尖らせるも、夫と共に息子の服を手早く脱がせた。アステュアナクスは父の膝の上で手を叩きはしゃぎ出した。

「アステュアナクス、大人しくして。お父様を洗って差し上げられないでしょ」

 アンドロマケが湯を注ぐたびに子供はキャアキャアと暴れる。ヘクトルは「母を困らせるんじゃないぞ」と、息子の頭を小突く。
 湯を汲む侍女は「おぼっちゃまは、本当にご主人様が大好きなんですね」とニコニコ笑う。
 親子三人が、湯で身も心も温め合っていた時だった。

「ヘクトル様~、カッサンドラ様がいらっしゃいました。お話があるそうです」

 侍女がパタパタと湯の間に入ってきた。
 ヘクトルは頭を上げた。

「カッサンドラだと?」

 女主人は手を動かしたまま、入ってきた侍女に命じる。

「ヘクトル様の湯浴みはもう少しで終わるわ。それまでカッサンドラ様が退屈されないよう、客間の琴と笛の音を絶やさないように。ワインとパンも差し上げて」

 侍女は頷き踵を返す。が、ヘクトルは「頼む」と息子を妻に預け、浴槽を飛び出した。
 裸体の主人が走り出すものだから、侍女たちは「きゃああ」と顔を赤らめ俯く。

「あなた待って! 服を!」

 アンドロマケはアステュアナクスを床に下ろし、ヘクトルの衣と帯を抱えて走り、夫に向かって投げ放つ。

「助かる」

 ヒラヒラと舞い踊る衣を、ヘクトルは受け止め腰に巻きつけた。帯はそのまま床に落ちた。


 アポロンの花嫁カッサンドラ。
 幼い頃は兄と妹はよく海辺で遊んだが、妹がアポロンと通じるようになってから、兄妹で過ごすことは減った。ヘクトルがアンドロマケと結婚し、兄弟と別に暮らすようになってから、カッサンドラはあまりこの館に顔を見せない。
 わざわざこの館にやって来るということは、アポロンより重大な神託を授かったのだろうか。トロイアを襲った雷雲と関わりがあるのかもしれない。

 ヘクトルは、水滴をポタポタ床に垂らして客間に駆け込む。
 目を吊り上げた妹王女が硬直して真っすぐ立っていた。が、予想しなかった人を目の当たりにし、彼は足を止めた。

「どういうことだ?」

 トロイアの跡継ぎは、妹王女の隣で縮こまっている男を訝し気に見つめた。
 王女の傍らに立つ中年男は、バツが悪そうにヘラヘラ笑う。

「あ、す、すいません。えー、王女様がどうしてもって、言うもんだから」

 千五百年先の世界からやってきた男、トリファントスの左手は自身の頭にあり、ポリポリと髪をいじっている。
 しかしその右手は、カッサンドラに絡めとられていた。
 ヘクトルは、若い妹と未来から来た中年男の顔を、交互に見比べた。

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