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6 主人公は、あっさりワナにはまる
(14)ギリシャ一の知恵者
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オデュッセウスが航海から戻ってみれば、妻が太った男と抱き合っていた。それも彼がよく知る男、となりの大きな島ドゥリキオンの王子、アンピノモスだ。
アンピノモスは、館の主と目が合うなり「えっ! なんで? うそ!」と声をひっくり返す。
一方、王妃は目を見開いたまま、微動だにしない。
小さな島の王は、妻を労うように声を掛けた。
「大切な客人のもてなし、ご苦労だったね。私が替わろう」
男は、妻と抱き合った男を強引に立たせ、引きずるように連れ出した。
ほどなく、アンピノモス王子の叫び声と、強弓が弾ける音が、館に響き渡る。
島の王妃は、叫び声の元に駆け付けた。
館の中庭で、太った男がうつ伏せで倒れていた。背中に矢を突き刺して。
倒れた男の頭のすぐそばに、若きイタケの王が、短剣を握りしめて立っている。先ほど唸った弓は、芝の上。
オデュッセウスの手は血塗られており、倒れた男の首からドクドクと赤い血が流れていた。
王妃は、顔を覆い絶叫する。王は、叫ぶ妻に取り合わず、女中たちに命じた。
「妃は客人のもてなしで疲れている。下がらせよ」
彼の妻は「あなた聞いて!」「坊やのためだったの!」と抗うが、大勢の女中に抱えられ、奥の間に閉じ込められた。
男の召し使いたちは「この方……ドゥリキオンの王子ですよね?」と戻ったばかりの主人をうかがう。このイタケより大きな島の王族を殺害したとなれば、どんな報復が待っているのか、男たちは恐れ身を震わせる。
しかし、彼らの王は男たちを下がらせ、ポツンと死体と向き合った。
オデュッセウスは初めて人を殺したわけではない。報酬につられ、ギリシャの都市同士の争いに、何度か戦士として加わり、多くの人を死に至らしめた。
となり島の王子アンピノモスには、前から不快感しかなかった。大した用もないのに、なぜこの貧しい島をよく訪ねてくるのかわからなかった、先ほどまで。
この男を殺めたことは、後悔していない。むしろ都合がいいぐらいだった。
しかし、風呂上がりの夫にオリーブオイルを塗ってくれた妻が、息子が熱を出すと夜通し看病する妻が、女神アフロディテさながらの行動に出るなど、ひとかけらも想像しなかった。
オデュッセウスは、人の思惑や行動を予想することには、自信を持っていた。貞淑な妻が、自分の留守中、他の男を館に入れ親密な時を過ごすこと、となりの島の冴えない王子が人妻を誘惑するなど、まったく彼は予想していなかった。
夫以外の男と抱き合う妻の姿は、彼の自信を、誇りを、ことごとく打ち砕いた。
「ポセイドン様……私は、あなた様に何度も祈りを捧げた……なのに……なぜ神は私をこのような目に遭わせる……」
オデュッセウスは、中庭の芝に座り込み、両脚を投げ出し、あらぬ方を見つめる。
と、杖を手にした老人の姿が、空気の中から浮かび上がってきた。
「おやおや、強い念に引かれてみれば……オデュッセウスとは、すごいのう」
無の空間から現れた老人に話しかけられ、男は瞬きを繰り返す。
「……私は、何を見ている? まさか神が? いやポセイドン様には見えないが……」
「その通り、わしはポセイドンじゃないぞ。時の神、クロノスじゃ」
老いた姿の神は、胸を張る。
「時の神? 私を裁きに来たのですか?」
「裁く? それは別の神の仕事じゃ。さて、わしを呼ぶということは、どこかに戻ってやり直したいのじゃろう?」
男はゆっくりと立ち上がり、顔を歪ませたまま胸を反らした。
「やり直す? 私が間違っていれば、やり直す意味もあります。が、私は、イタケの王として、人の夫として父として、間違えたことはありません」
時の神は、杖をグッと握りしめ、目を大きく開ける。
「これはすごい自信じゃのう。わしを呼び出す者の多くは、過去に戻りたいと訴えるんじゃが、おぬしの目的は違うようじゃな」
「過去に戻っても同じこと! それより私は、別の世界、オリュンポスの神々から離れた世界を知りたい!」
オデュッセウスは、足元に転がる死体を蹴とばし、血塗られた短剣を高く掲げた。
その後、オデュッセウスの行動は素早かった。
涙ながらに縋りつく妻も、膝にまとわりつく幼い息子も振り切って、手勢を連れてイタケの島から出陣した。
妻と抱き合っていた王子の島、ドゥリキオンに乗り込み制圧し、近隣のサメやザキュントスの島も合わせて配下に置いた。
オデュッセウスは貧しい小さな島の王から脱却したが、それには飽き足らず、ギリシャ本土の権力者、ミュケナイのアガメムノン王に近づく。
アガメムノンは、オデュッセウスの助けもあって、ギリシャの王たちの上に君臨した。
「スフィンクスを救った王女……心優しい娘のおかげで、トロイアの攻略がやりやすくなったな」
スパルタ王宮の客間でひとりになったオデュッセウスは、長椅子に腰かけた。島の王女と過ごしたひと時を思い出す。
テーバイで演じたスフィンクスの芝居で、ナウシカに近づけた……もちろん偶然ではない。
オデュッセウスは、以前からヘクトルを監視していた。ヘクトルが仲間と共にスフィンクスを懐柔した場面を、遠くから観察していた。
テーバイの町で、パーティーから離脱したナウシカを見かけ、とっさにスフィンクスの芝居を演じた。
「私も小さな島の王族だが、あの清らかな娘とは大分離れたところに来てしまったな」
ナウシカの話から、パリスというトロイア王子の存在を知った。ヘクトルよりは容易に攻略できる性格だ。
王女ヘルミオネとミノタウロスとの結婚……お人好しのあの男だ。必ず食いついてくる。
ヘクトルの仲間で気がかりなのは、未来人のトリファントスだ。
「恐れることはない。あの男が知っているのは、せいぜい1500年後の世界ではないか。私はもっと遠い世界を知っている……ゼウスより強力な神が支配する世界を。ヘブライ人モーゼが崇めている神を」
オデュッセウスは、長椅子に体を横たえ目を閉じた。時の神の導きで垣間見た遠い世界が、瞼の裏に映し出された。
アンピノモスは、館の主と目が合うなり「えっ! なんで? うそ!」と声をひっくり返す。
一方、王妃は目を見開いたまま、微動だにしない。
小さな島の王は、妻を労うように声を掛けた。
「大切な客人のもてなし、ご苦労だったね。私が替わろう」
男は、妻と抱き合った男を強引に立たせ、引きずるように連れ出した。
ほどなく、アンピノモス王子の叫び声と、強弓が弾ける音が、館に響き渡る。
島の王妃は、叫び声の元に駆け付けた。
館の中庭で、太った男がうつ伏せで倒れていた。背中に矢を突き刺して。
倒れた男の頭のすぐそばに、若きイタケの王が、短剣を握りしめて立っている。先ほど唸った弓は、芝の上。
オデュッセウスの手は血塗られており、倒れた男の首からドクドクと赤い血が流れていた。
王妃は、顔を覆い絶叫する。王は、叫ぶ妻に取り合わず、女中たちに命じた。
「妃は客人のもてなしで疲れている。下がらせよ」
彼の妻は「あなた聞いて!」「坊やのためだったの!」と抗うが、大勢の女中に抱えられ、奥の間に閉じ込められた。
男の召し使いたちは「この方……ドゥリキオンの王子ですよね?」と戻ったばかりの主人をうかがう。このイタケより大きな島の王族を殺害したとなれば、どんな報復が待っているのか、男たちは恐れ身を震わせる。
しかし、彼らの王は男たちを下がらせ、ポツンと死体と向き合った。
オデュッセウスは初めて人を殺したわけではない。報酬につられ、ギリシャの都市同士の争いに、何度か戦士として加わり、多くの人を死に至らしめた。
となり島の王子アンピノモスには、前から不快感しかなかった。大した用もないのに、なぜこの貧しい島をよく訪ねてくるのかわからなかった、先ほどまで。
この男を殺めたことは、後悔していない。むしろ都合がいいぐらいだった。
しかし、風呂上がりの夫にオリーブオイルを塗ってくれた妻が、息子が熱を出すと夜通し看病する妻が、女神アフロディテさながらの行動に出るなど、ひとかけらも想像しなかった。
オデュッセウスは、人の思惑や行動を予想することには、自信を持っていた。貞淑な妻が、自分の留守中、他の男を館に入れ親密な時を過ごすこと、となりの島の冴えない王子が人妻を誘惑するなど、まったく彼は予想していなかった。
夫以外の男と抱き合う妻の姿は、彼の自信を、誇りを、ことごとく打ち砕いた。
「ポセイドン様……私は、あなた様に何度も祈りを捧げた……なのに……なぜ神は私をこのような目に遭わせる……」
オデュッセウスは、中庭の芝に座り込み、両脚を投げ出し、あらぬ方を見つめる。
と、杖を手にした老人の姿が、空気の中から浮かび上がってきた。
「おやおや、強い念に引かれてみれば……オデュッセウスとは、すごいのう」
無の空間から現れた老人に話しかけられ、男は瞬きを繰り返す。
「……私は、何を見ている? まさか神が? いやポセイドン様には見えないが……」
「その通り、わしはポセイドンじゃないぞ。時の神、クロノスじゃ」
老いた姿の神は、胸を張る。
「時の神? 私を裁きに来たのですか?」
「裁く? それは別の神の仕事じゃ。さて、わしを呼ぶということは、どこかに戻ってやり直したいのじゃろう?」
男はゆっくりと立ち上がり、顔を歪ませたまま胸を反らした。
「やり直す? 私が間違っていれば、やり直す意味もあります。が、私は、イタケの王として、人の夫として父として、間違えたことはありません」
時の神は、杖をグッと握りしめ、目を大きく開ける。
「これはすごい自信じゃのう。わしを呼び出す者の多くは、過去に戻りたいと訴えるんじゃが、おぬしの目的は違うようじゃな」
「過去に戻っても同じこと! それより私は、別の世界、オリュンポスの神々から離れた世界を知りたい!」
オデュッセウスは、足元に転がる死体を蹴とばし、血塗られた短剣を高く掲げた。
その後、オデュッセウスの行動は素早かった。
涙ながらに縋りつく妻も、膝にまとわりつく幼い息子も振り切って、手勢を連れてイタケの島から出陣した。
妻と抱き合っていた王子の島、ドゥリキオンに乗り込み制圧し、近隣のサメやザキュントスの島も合わせて配下に置いた。
オデュッセウスは貧しい小さな島の王から脱却したが、それには飽き足らず、ギリシャ本土の権力者、ミュケナイのアガメムノン王に近づく。
アガメムノンは、オデュッセウスの助けもあって、ギリシャの王たちの上に君臨した。
「スフィンクスを救った王女……心優しい娘のおかげで、トロイアの攻略がやりやすくなったな」
スパルタ王宮の客間でひとりになったオデュッセウスは、長椅子に腰かけた。島の王女と過ごしたひと時を思い出す。
テーバイで演じたスフィンクスの芝居で、ナウシカに近づけた……もちろん偶然ではない。
オデュッセウスは、以前からヘクトルを監視していた。ヘクトルが仲間と共にスフィンクスを懐柔した場面を、遠くから観察していた。
テーバイの町で、パーティーから離脱したナウシカを見かけ、とっさにスフィンクスの芝居を演じた。
「私も小さな島の王族だが、あの清らかな娘とは大分離れたところに来てしまったな」
ナウシカの話から、パリスというトロイア王子の存在を知った。ヘクトルよりは容易に攻略できる性格だ。
王女ヘルミオネとミノタウロスとの結婚……お人好しのあの男だ。必ず食いついてくる。
ヘクトルの仲間で気がかりなのは、未来人のトリファントスだ。
「恐れることはない。あの男が知っているのは、せいぜい1500年後の世界ではないか。私はもっと遠い世界を知っている……ゼウスより強力な神が支配する世界を。ヘブライ人モーゼが崇めている神を」
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