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5 定番ですが、主人公は王子様

(20)砂浜の恋人たち

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 パリスは町の馬を盗み、スエシュドス老人を乗せ、船着場までやってきた。が、なぜかヘクトルに先回りされた。

「な、なんでここにいるの?」

「こいつの脚に適う者はトロイアにはいない。裏道を急ぎ走らせた。がんばってくれたな」

 ヘクトルは、愛馬に頬ずりしている。

「ずるいじゃないか、待ち伏せなんて」

 大男は馬から離れ、パリスに近づいた。

「馬を盗み逃げ出した男に、ずるいと言われたくないな」

「スエシュドスじいさんが僕と行きたいって言ってくれたんだよ」

 ヘクトルはパリスに取り合わず、馬の綱をパシッと奪う。

「かわいそうに。本当の主人から引き離され、二人も乗せて無理矢理走らされたのか」

 盗まれた馬はヘクトルに導かれ、柵の内側に入る。

「お馬さんには悪かったよ。僕一人なら走って逃げた。でも、おじいさんが一緒だったから」

 パリスは無言の大男に腕を引っ張られ馬屋から追いだされる。
 右手首をヘクトルに取られ、ギュッとねじられた。

「いだだだだだだ!」

 あっという間にうつぶせのまま地面に押し倒される。両手首が背中に回されて抑えこまれ、身動きできない。

「痛い! やめてよ!」

「この程度の攻撃もかわせないのか。鍛える意味が少しはわかったか?」

「暴力は嫌いなんだ!」

「力があれば、お前は俺に捕まらず目的を果たせた」

「ヘクトルはそーやって、力尽くでみんなに命令するんだ!」

「わからず屋にはな!」

 手首の強烈な痛みで気が遠くなってきた。
 と、馬のいななきと蹄の音が聞こえてくる。

「いやあああパリス様!」「ヘクトル様、やめて!」

 二人の女の嬌声と共に、背中の重みから解放される。
 バサバサと砂地を蹴る音と男の怒鳴り声が、耳に飛び込んできた。
 自由になったパリスが顔を向けると、二人の女を乗せた白馬が視界に入る。
 ひとりは手綱を持つアンドロマケ、もうひとりは主人の腕の中で小さく丸まったオイノネだった。

 アンドロマケは手綱を握ったまま、夫に詫びた。

「ヘクトル様、申し訳ございません。あなたの御馬を勝手に持ち出しました」

 馬上の妻に、ヘクトルは目を吊り上げる。

「謝るのはそこじゃない! 人妻が、膝を晒して馬に乗るんじゃない!」

「父の客人だったアマゾネスの戦士から、共に馬乗りを習ったこと、お忘れですの?」

「お前はアマゾネスじゃないし戦士でもない!」

「忘れてしまったのね。初めてあなたとお会いした日を、私は忘れられませんのに」

「覚えてるに決まってるだろ! あの時、俺もお前も子供だったじゃないか!」

 実はこの時代、ギリシャ人もトロイア人も馬に乗れたか、非常に怪しい。が、女戦士集団アマゾネスは馬に乗っていたと、神話に伝わっている。ということで「この」トロイア物語では、一部の人は馬に乗れたことにする。この設定変更は、決して話の都合からではない!

 閑話休題(本題に戻る)。夫婦喧嘩の仲裁に、馬上の侍女が乗り出す。

「ごめんなさいヘクトル様! 私がお願いしたんです」

「いや、詫びるべきはオイノネではない」

 ヘクトルは、侍女を支えて馬から下ろす。彼が妻以外の女に触れるのは、このように手助けが必要なときだけ。

「詫びるべきは、卑怯にも逃げ出したあの男だ!」

 男が指し示した先で、若者が背を向けて砂浜を走っている。

「アレクサンドロス! お前を案じて駆け付けた娘の気持ちを踏みにじるのか!」

 パリスの背中がピタッと止まった。
 オイノネが砂を蹴って、明日の花婿の元へ走っていく。
 彼は覚悟を決めた。逃げられない。逃げてはならない。
 振り返り、息を切らしている娘に頭を下げた。

「ごめん。君とは結婚できない」


 三度ゆっくり呼吸してから、パリスは頭を上げた。
 オイノネは涙を浮かべて笑っていた。

「よかった、パリス様にもう一度会えて。これ渡したかったの」

 侍女はパリスの荷袋を差し出した。

「旅に出るんでしょう? 笛も入ってます。あと私から」

 オイノネは荷袋の口を開け、真新しい小袋を取り出した。

「ミズタマソウです。種も入ってますよ。パリス様、先生に会ったら渡してください」

 それは、パリスがけがをしたときに、オイノネが塗ってくれた薬草だった。パリスが「ヒポクラテス先生に見せたい」薬草。
 オイノネの目から涙がポロポロと溢れる。
 この娘は、パリスが飛び出したと知り、旅の荷をまとめ、主人のアンドロマケに無理を言って追いかけてくれたのだ。
 堪え切れず、オイノネを抱き寄せ、口づける。

「オイノネ、好きだ。大好きだよ」

 娘の顔にキスを繰り返し、強く抱きしめた。
 抱き合う二人に、シャリシャリと二足のサンダルが音を立てて近づいてくる。

「アレクサンドロス。そこまで好きなら一緒になればいいだろ?」

 腕くみしたヘクトルが、眉をひそめている。

「怖いんだよ。結婚が……」

「俺だって怖かったぞ。女を守れるのか、自分は女に相応しいのか、悩んだ。でも、なんとかなるもんだ」

「そうじゃないんだ!」

 自分がオイノネに相応しいのか、オイノネを守れるのか。パリスは考えたこともなかった。
 侍女はパリスの腕の中から離れる。

「パリス様は、私たちを喜ばせようと、旅の話をして笛を吹いてくださって……そんなパリス様を見ているだけでよかったのに……」

 アンドロマケは侍女を手招きする。

「オイノネ、こっちにいらっしゃい」

「私との結婚でパリス様は気を遣ってくださったけど、太陽みたいな明るさが消えてしまって……私、間違っていました。パリス様を独り占めしようなんて」

 背の高い女主人は、小さな娘を抱き寄せた。

「恋はアフロディテ様の技なのよ。神様が恋するように定めたのだから、人にはどうにもならないわ。でも、あなたはいいことしたの。恋しい方の気持ちを大切にしたのだから」

「アンドロマケ様! 私、私……本当にごめんなさい」

「私もオイノネの願いを叶えたくて、パリス様に無理強いしました」

 アンドロマケは侍女の背中をなでながら、夫に語り掛ける。

「ヘクトル様、私は幼いときから、あなたによく仕えるよう父母から聞かされました。私たちの結びつきは、トロイアを守るために、お義父様と私の父が決めたことですもの」

「いや! アンドロマケ、俺は……」

「でもパリス様は、私たちとは男女の関わり方が違うのでしょう?」

 ヘクトルは妻の髪をひと房取り「髪が乱れている。急いで走ってきたんだな」と付け加え、パリスを向いた。

「アレクサンドロス、なんども言うが、お前はアポロン様からトロイアを守護する力を授かったのだぞ」

「その名前で僕を呼ぶな!」

 繰り返す波音が、パリスの訴えを増幅させる。

「ヘクトル、なんで変わっちゃったんだよ! トリファントスさんから、ヘクトルが兄さんだと聞いたとき、嬉しかったんだよ!」

「旅の間は自分の身さえ守ればいいが、ここに戻るとそういうわけにはいかない。トロイア全ての幸せが、俺たちにかかっている」

 ひと際高い波が、浜に打ち寄せる。

「僕はちっとも幸せじゃない! 王宮に閉じ込められ、モブ兵士にいじめられ、結婚すら自由にならない! ヘクトルなんか嫌いだ! 大っ嫌いだ!」

「お前が俺を嫌おうがどうでもいい。俺にはトロイアを守る宿命がある。アレクサンドロス、お前も同じだ」

「宿命なんて知らないよ! 僕を不吉だと捨てた親たちのために、なんで働かなきゃいけないんだよ!」

 波はパリス、そしてヘクトルの脚を濡らし、叫びと共に輝く海に呑み込まれていく。
 カモメらの鳴き声が響く砂浜で、トロイアの守護者は、ゆっくりと言葉を刻んだ。

「すまないことをした。父上と母上に代わって、詫びよう」
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