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2章 千年前の女勇者
25 長年の望み
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――お前と寝たい
マルセルは、打ち明けるつもりがなかった願いをこぼした。
自分でも、なぜそんなことを口走ったのか、わからなった。言葉がマルセルの意志に反して、勝手に飛び出してしまった。
かのエリオンが、聖王と聖妃に誓う前にカリマと結ばれたのも、同じ状況だったのかもしれない。
カリマの全身が震えている。
誇り高い女王は、信頼していた幼馴染の醜い欲望を知ってしまった。彼女の震えは、侮蔑と怒りに由来するのだろう。
「そ、それは、冗談? それとも本気かい?」
琥珀色の鋭い眼が、男の邪心に突き刺さる。
ここで笑って冗談とすませれば、明日からもとの二人に戻れる。
が、上等なワインの作用か、長年の忍耐が限界に達したのか、マルセルは、今さら戻る気になれなかった。
カリマの心はエリオンのもの。せめて一晩、身体だけでも欲しい……身勝手極まりない欲望だが、もう後には引けない。
「冗談なんかじゃねえ。俺は本気だ」
「な、なんで? 突然……どうして……」
「お前は忘れてるだろうが、俺も男なんだよ。それだけだ」
もっと言いようがあるだろ! とマルセルは、自身に呆れた。
城の楽師ロベールなら、リュートを抱えてロマンティックに歌うだろう。
都で流行っている歌を思い出す。
君は僕のアタランテ
僕は、聖王様にはなれないよ
知恵も力もなにもない
でも、想いだけは、負けないよ……
カリマが「エリオン様は、人を聖王様や聖妃様にみだりに例えるなって言ってるのになあ」と顔を顰めている歌。
マルセルは、唐突に、聖王と聖妃の物語を思い出した。カリマが「エリオン様が教えてくれた」と目を輝かせて語った伝説を。
アトレウスは多くの女を囲い奢侈に溺れる暴君だった。少女アタランテは暴君のもとに乗り込み、君主の心得を説く。王は少女の言葉に感銘を受け、妃とした。彼はアタランテひとりだけを愛し、民を慈しむ名君となった……。
聖王は聖妃をどうやって口説いたんだ?
マルセルの頭に素朴な疑問が浮かぶ。
カリマに聞いたら教えてくれるかもしれないが、今、この場で聞く話ではないだろう。
疑問は浮かんでも、この場に相応しい文句が浮かばない。
長い沈黙を破ったのは、カリマの方だった。
「あたしは、姉ちゃんじゃないよ」
「そんなの当たり前だろ」
カリマは唾を飲み込み、唇をキュッと引き締めた。
「だったら……帽子とって」
「へ? この帽子か?」
マルセルは首を傾げ自分の頭を指す。
「姉ちゃんが忘れられないのはわかってる。でも今だけは、姉ちゃんの帽子、外して!」
カリマは泣きそうな声で訴える。
マルセルは今でも、夕方自室に戻ると、シャルロットがくれた帽子を身につける。
彼女の帽子は、彼の第二の皮膚と化していた。帽子をくれた女性を意識することなく。
「最近、頭が薄くなってきたからなあ」
「そんなの知ってるよ! あたしが後で、かつらでも新しい帽子でもあげるから!」
マルセルは寂しげに笑い、穴だらけの帽子を外してテーブルに置いた。自分の頭に手をやった。どうにも落ちつかない。
「……じゃあ、この先はあたしよくわからないけど……」
カリマがそっぽを向いて俯いた。
わからない? この先の道を、エリオンと何度も歩いたはずなのに?
彼女なりに、女と縁のなさそうな幼馴染に気を遣っているのだろうか?
マルセルは、女の余計な気遣いに苛立ちつつ、彼なりにこの先の道を歩むことにした。
ゆっくりと立ち上がり、硬直して座っている女の手を取った。
「あっちへ行くか?」
カリマは無言で小さく頷いた。男の指し示す方向には、女王の寝台が見える。女を立たせて手を引いた。
昔、彼女の小さな手を引いて、ラサ村の洞窟を探検したことを思い出す。
幼馴染の手を引くのは三十年ぶりか。
しかしここは、幼いときに探検したラサ村の洞窟ではない。足を数歩進めただけで、目的地にたどり着いた。
あの洞窟探検で、幼いカリマはギャアギャア泣き出した。
三十年経った今、女は大人しくベッドに腰を下ろして俯いている。
なぜカリマは抵抗しない? 彼女はエリオンを愛していたのではなかったのか?
産まれたときから彼女を知っているから、肝心なことが抜けてしまう。
カリマは幼い子どもでも純情可憐な乙女でもない。三十代半ばの大人の女だ。
愛するエリオンと離れて十年以上経つ。ずっと一人で夜をすごし、寂しくなったのだろう。
愛を感じない幼馴染の中年男で構わないから、慰めてほしくなったのか?
人間必ずしも、教えの通りには動かない。動けない。ときには、間違っているとわかっても、流されてしまう。
夫婦の貞節を説いたエリオン自身が、妻ではない女に子どもを産ませたではないか。
男は、自分の誘いに女が乗った理由を探し求める。いくつもの疑問詞が浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返す。
しかし、震える女の顔に手を添え、薄い唇に自身の唇をそっと重ねた途端、疑問は霧散してしまった。
星が流れた。
マルセルは、長年の望みをラテーヌ女王の寝台で、ようやく叶えた。
しかし幸せは、一瞬のうちに終わる。
カリマは処女だった。
彼女は勇者であり女王であった。
寂しいからといって、安易に流される女ではなかった。
なのにマルセルは、清らかな女王の操を奪ってしまった。
(嘘だ嘘だ! 俺は、なんてことをやっちまったんだ!)
マルセルの額に、冷や汗がダラダラと流れる。
自らの罪と向き合うのが、恐ろしい。一刻も早く、この場から立ち去りたい。
手早く身支度を済ませ、女王の寝室からそそくさと逃げ出した。
翌日。
王女コンスタンスの立太子式が、つつがなく行われた。
女王カリマの様子は変わらず、いつものように堂々たる女王ぶりを見せた。昨夜、となりに立つ宰相に貞操を奪われたとは、誰も信じないだろう。
王女は、母のチュニックとズボンに煌びやかな刺繍を添えた。そして王女自身は、自らが織った美しいドレスに身を包み、誇らしげに微笑んだ。
マルセルは儀式の最中、もっと大きな疑問を抱く。
王女の母は、昨日まで男を知らなかった。
では、この美しい王女は誰が産んだ? 彼女は誰の娘だ?
マルセルは、打ち明けるつもりがなかった願いをこぼした。
自分でも、なぜそんなことを口走ったのか、わからなった。言葉がマルセルの意志に反して、勝手に飛び出してしまった。
かのエリオンが、聖王と聖妃に誓う前にカリマと結ばれたのも、同じ状況だったのかもしれない。
カリマの全身が震えている。
誇り高い女王は、信頼していた幼馴染の醜い欲望を知ってしまった。彼女の震えは、侮蔑と怒りに由来するのだろう。
「そ、それは、冗談? それとも本気かい?」
琥珀色の鋭い眼が、男の邪心に突き刺さる。
ここで笑って冗談とすませれば、明日からもとの二人に戻れる。
が、上等なワインの作用か、長年の忍耐が限界に達したのか、マルセルは、今さら戻る気になれなかった。
カリマの心はエリオンのもの。せめて一晩、身体だけでも欲しい……身勝手極まりない欲望だが、もう後には引けない。
「冗談なんかじゃねえ。俺は本気だ」
「な、なんで? 突然……どうして……」
「お前は忘れてるだろうが、俺も男なんだよ。それだけだ」
もっと言いようがあるだろ! とマルセルは、自身に呆れた。
城の楽師ロベールなら、リュートを抱えてロマンティックに歌うだろう。
都で流行っている歌を思い出す。
君は僕のアタランテ
僕は、聖王様にはなれないよ
知恵も力もなにもない
でも、想いだけは、負けないよ……
カリマが「エリオン様は、人を聖王様や聖妃様にみだりに例えるなって言ってるのになあ」と顔を顰めている歌。
マルセルは、唐突に、聖王と聖妃の物語を思い出した。カリマが「エリオン様が教えてくれた」と目を輝かせて語った伝説を。
アトレウスは多くの女を囲い奢侈に溺れる暴君だった。少女アタランテは暴君のもとに乗り込み、君主の心得を説く。王は少女の言葉に感銘を受け、妃とした。彼はアタランテひとりだけを愛し、民を慈しむ名君となった……。
聖王は聖妃をどうやって口説いたんだ?
マルセルの頭に素朴な疑問が浮かぶ。
カリマに聞いたら教えてくれるかもしれないが、今、この場で聞く話ではないだろう。
疑問は浮かんでも、この場に相応しい文句が浮かばない。
長い沈黙を破ったのは、カリマの方だった。
「あたしは、姉ちゃんじゃないよ」
「そんなの当たり前だろ」
カリマは唾を飲み込み、唇をキュッと引き締めた。
「だったら……帽子とって」
「へ? この帽子か?」
マルセルは首を傾げ自分の頭を指す。
「姉ちゃんが忘れられないのはわかってる。でも今だけは、姉ちゃんの帽子、外して!」
カリマは泣きそうな声で訴える。
マルセルは今でも、夕方自室に戻ると、シャルロットがくれた帽子を身につける。
彼女の帽子は、彼の第二の皮膚と化していた。帽子をくれた女性を意識することなく。
「最近、頭が薄くなってきたからなあ」
「そんなの知ってるよ! あたしが後で、かつらでも新しい帽子でもあげるから!」
マルセルは寂しげに笑い、穴だらけの帽子を外してテーブルに置いた。自分の頭に手をやった。どうにも落ちつかない。
「……じゃあ、この先はあたしよくわからないけど……」
カリマがそっぽを向いて俯いた。
わからない? この先の道を、エリオンと何度も歩いたはずなのに?
彼女なりに、女と縁のなさそうな幼馴染に気を遣っているのだろうか?
マルセルは、女の余計な気遣いに苛立ちつつ、彼なりにこの先の道を歩むことにした。
ゆっくりと立ち上がり、硬直して座っている女の手を取った。
「あっちへ行くか?」
カリマは無言で小さく頷いた。男の指し示す方向には、女王の寝台が見える。女を立たせて手を引いた。
昔、彼女の小さな手を引いて、ラサ村の洞窟を探検したことを思い出す。
幼馴染の手を引くのは三十年ぶりか。
しかしここは、幼いときに探検したラサ村の洞窟ではない。足を数歩進めただけで、目的地にたどり着いた。
あの洞窟探検で、幼いカリマはギャアギャア泣き出した。
三十年経った今、女は大人しくベッドに腰を下ろして俯いている。
なぜカリマは抵抗しない? 彼女はエリオンを愛していたのではなかったのか?
産まれたときから彼女を知っているから、肝心なことが抜けてしまう。
カリマは幼い子どもでも純情可憐な乙女でもない。三十代半ばの大人の女だ。
愛するエリオンと離れて十年以上経つ。ずっと一人で夜をすごし、寂しくなったのだろう。
愛を感じない幼馴染の中年男で構わないから、慰めてほしくなったのか?
人間必ずしも、教えの通りには動かない。動けない。ときには、間違っているとわかっても、流されてしまう。
夫婦の貞節を説いたエリオン自身が、妻ではない女に子どもを産ませたではないか。
男は、自分の誘いに女が乗った理由を探し求める。いくつもの疑問詞が浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返す。
しかし、震える女の顔に手を添え、薄い唇に自身の唇をそっと重ねた途端、疑問は霧散してしまった。
星が流れた。
マルセルは、長年の望みをラテーヌ女王の寝台で、ようやく叶えた。
しかし幸せは、一瞬のうちに終わる。
カリマは処女だった。
彼女は勇者であり女王であった。
寂しいからといって、安易に流される女ではなかった。
なのにマルセルは、清らかな女王の操を奪ってしまった。
(嘘だ嘘だ! 俺は、なんてことをやっちまったんだ!)
マルセルの額に、冷や汗がダラダラと流れる。
自らの罪と向き合うのが、恐ろしい。一刻も早く、この場から立ち去りたい。
手早く身支度を済ませ、女王の寝室からそそくさと逃げ出した。
翌日。
王女コンスタンスの立太子式が、つつがなく行われた。
女王カリマの様子は変わらず、いつものように堂々たる女王ぶりを見せた。昨夜、となりに立つ宰相に貞操を奪われたとは、誰も信じないだろう。
王女は、母のチュニックとズボンに煌びやかな刺繍を添えた。そして王女自身は、自らが織った美しいドレスに身を包み、誇らしげに微笑んだ。
マルセルは儀式の最中、もっと大きな疑問を抱く。
王女の母は、昨日まで男を知らなかった。
では、この美しい王女は誰が産んだ? 彼女は誰の娘だ?
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