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四章 花嫁

71 午後のカプチーノ

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 カプチーノを入れるアイーダ。かつてのアレックスにとっては、ありふれた日常のひととき。
 そして彼は、いつも彼女にこう言うのだ。

「カプチーノは朝に飲むんだよ。もう午後だ」

「あああ! これだからイタリアンって嫌いよ! どーせあなた、起きたばかりだから朝と一緒でしょ!」

 ベテラン女優は、乱雑な音を立てて、テーブルにカップを置いた。

「食器をそうやって乱暴に扱っては駄目だよ」

「うるさいわね! この私がわざわざコーヒー入れてあげているのよ! ありがたくいただきなさい!」

 アレックスは微笑みながらソファに座り、かつての恋人が入れたカプチーノを味わう。

「……やはり、君のカプチーノが最高だ」

「それ、どの女にも言ってるわよね?」

「女とは限らないよ」

「あ、そう……じゃ、私、ロケ地に帰るわ。こんなところで、無駄な時間潰したくないの」

 女がテーブルのバッグを取ったとき、リビングにベル音が響いた。

「いやだ。何かしら」

「電話……みたいだね。僕のウシャスが全く使えなくなったから、ホテルにかけてきたんだ」

 アレックスは、モニター脇で点滅する手のひらサイズのパネルを取った。

「やあ、ルドラ! さっきは騒がせたね。せっかくトロントから来てくれたのに……そうだよ。前から言ってた。僕はもうウシャスは一切使えない……怒るなよ、ラニカが僕に与えた力だ、僕の好きに使っていいだろ?……そうか、大変だね、健闘を祈るよ……悪いが何もできない……え? ははは、僕が使えなくなったら早速異動か……構わないよ、ありがとう、ルドラ」

 老人は、パネルを元の位置に戻す。今のCEOルドラはラニカを入れて五代目。叩き上げのベテランだが、アレックスよりニ十歳ほど若い男だ。

「ウシャスが使えないとは、こういうことか……まず、スキンデバイスの登録から始めないとな」

 アレックスはソファに戻り、女に笑いかけた。

「来月からネパールのダヤル社保養所の管理所長を務めろ、とCEOに言われたよ」

 アイーダが怪訝な顔を見せ、男のとなりに座った。

「ネパールの保養所、それ……私がよく行くところね」

 ラニカは脳チップを外してから三十年余り、ダヤル社の保養所で手厚い介護を受けている。
 アイーダは、女優業の合間を縫って、育ててくれた恩人を定期的に訪れていた……恩人の息子の代わりに。

「アレク平気? ラニカは……今でもフィルを待っているの」

 ダヤル家にアイーダが引き取られてまもなく、ラニカの夫フィリッポは出ていった。
 アレックスは、寂しげな微笑をアイーダに向ける。

「アブリエット、楽しみができたよ。僕のことは嫌いでも、ラニカには会いに来てくれるだろ? ネパールで君の顔が見られるなんて、最高だよ」

 彼女が女優になる前の名前。何十年もアレックスに呼ばれることのなかった名前を不意に聞かされ、アイーダの心の壁がグラグラと揺れる。

「不思議だな。僕はもう君の中が見えないはずなのに、なぜ君の温かさを感じられるのだろう」

 女の目に涙が溢れてくる。男の指が女の涙を拭った。

「アブリエット、君はいい子だね」

 女は男の肩にしがみつく。

「アレク……本当はウシャス、残っているんでしょ……私の脳に今、アクセスして、操ってるのね……」

 アレックスにその力がないことを、アイーダは一目見てわかった。彼女の脳チップにアレックスの反応はなかった。ただ、目と耳と鼻、そして皮膚が、彼の存在を感じている。

「アブリエット、僕はラニカに与えられた力を使って、散々人を操ってきた……でも、心を得ることはできないんだ……」

 しがみつく手に力を籠める。
 アイーダは知っていた。彼が女の愛を得るのにわざわざウシャスなど使うまでもないことを。彼はただ笑いかけるだけで良かった。
 彼に育てられた女たちは、みな彼に恋をした。いつまでもキスしてくれない恋人のつれなさに、泣いていた。
 変わったのは、この十年ぐらいだろうか。アイーダが、ラニカに与えられた力でアレックスの心を守ったため、彼の時は三十代で止まる。
 親切な老人と思っていた相手から恋愛関係を持ちかけられ、苦しんだ少女がいた……鈴木ひみこのように──。

「僕はね、ウシャスがなくなっても平気だと思っていた。少し不便なだけだって……でも、一つだけ残念なことがある」

 アレックスはアイーダの豊かな髪に指を滑り込ませた。

「君の作品はすべてインタラクティブムービーだ。ウシャスが使えない僕は、今までの、そしてこれからの輝く君の姿を見ることができない……それだけが残念だよ」

 彼の微笑みは、五十年前、アイーダがダヤルの家に引き取られたときと変わらなかった。少女アブリエットが一瞬で恋を知った時と変わらない微笑み。
 女の目から涙があふれて止まらない。
 男は女の頬に、そっとキスを送る。

「ええ、私はあなたが大っ嫌い。一度も愛したことなんかないの! だからね、あなたが一番嫌がっていること、してあげるわ」

 女は男の顔をぐいっと引き寄せた。

「アレク、キスならちゃんとして」

 女は男の唇を奪った。
 彼女が初めてキスをしたときも同じ。いつまでも子ども扱いし、額や頬にしかキスしてくれない彼にしびれを切らして、少女アブリエットは憧れの兄に思いをぶつける。
 あの時はそっと唇を触れさせるのが精一杯だったが、今は違う。男の唇を食み、舌を絡ませた……すべて、彼が教えたこと。
 アレックスは一瞬怯むが、すぐ目を伏せ、女を力強く抱きしめた。
 母に奪われてから三十年以上避けてきた、男と女の口づけだった。
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