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一章 出会い

7 がっかりスポット

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 ひみことアレックスを乗せたエアカーは、札幌に向かって飛行している。
 長時間のフライトで、ひみこは移りゆく地上の景色に見とれていたが、ふと室内を見回し、向かいに座るアレックスに素朴な疑問をぶつける。

「この飛行機、パイロットいないんだ。大丈夫?」
「パイロット?」

 アレックスは首を少し傾げたが、すぐ微笑を取り戻した。
「自分でドライブする趣味の人もいるけどね。僕は好きではないな。だって君とこうやって話すことができないだろ?」

 ひみこは、自分の疑問が解消されないことに不満を覚えた。が、今まで見てきたドラマの世界が現実とは違う、ということは理解した。
 三時間後、エアカーは札幌特別区の高層ビル屋上に降下した。


 札幌駅から二キロほど離れた位置に建つ三十階建てのタワーホテルが、アレックスの住居だ。
 屋上で待ち構えていたスタッフに案内され、角のスイートルームに着いた。

「今日からここが、君のホームだ」

 ひみこはアレックスに促され、部屋に入る。自然、口をぽっかり開け小さな目を丸くする。
 ドラマでよく豪華なホテルを目にするが、本物は初めてだ。
 ツーベッドルームスイートで、中央に、ソファテーブルにダイニングと小さなキッチン。壁には巨大なモニターがかかっている。
 入り口の通路の両脇に二つドアがあり、それぞれのベッドルームへつながる。バスルームもそれぞれ用意されている。

「この部屋、うちの何倍もあるなあ」
 ひみこは、目を丸くしたままボソッと呟く。実際このスイートの面積は、鈴木宅の三倍を超える。

「ダヤルさんって、すごいお金持ちなんですね」
「ああ、そうだよ。僕の母はラニカ・ダヤルだからね」

 否定しないんだ、と、ひみこは心の中で突っ込む。
 アレックスが屈み、ひみこに顔を近づけた。
「それより、僕のことはアレックス、またはアレクと呼んでほしいな」
 ひみこは眉根を寄せた。

 日本のドラマで育った日本人としては、今日知り合った外国から来た偉い人を、下の名前で呼ぶのは抵抗があった。ひみこの目に映るアレックスには「アレックス」と呼ぶにはためらう雰囲気がある。
 ためらいつつも、彼の青い虹彩に圧されるよう「あ……ア……」と、呼びかけようとしたとき、ホテルの美容師とスタイリストが部屋に入ってきた。

「頼むよ。この子をとびきりの美女にしてくれ」

 アレックスがスタッフに笑いかける。ひみこは訳の分からないまま、スタッフに促され自分のベッドルームに連れていかれた。
 アレックスはドアの向こうから手を振り「楽しみに待ってるよ」と、ひみこを見送った。


 一時間後。ドアから浴衣姿のアジアの少女が現れた。
 長すぎてボサボサだった髪は艶やかに輝き、アップにまとめられている。くすんだ肌も赤みが差した。

「あ……アレックス!」

 ひみこは初めて、男の名前を呼んだ。怒りを込めて。
 体中にドロドロの物質をこすり付けられ気持ち悪い。頭もぎゅうぎゅうに縛りつけられ重くて簪が痛い。胸元で帯を締め付けられ苦しいし、下駄で足元はグラグラする。
 怒りで目を吊り上げる少女に、笑顔の男は両腕を広げ、その小さな肩に手を添えた。

「素晴らしい! 君は天使だ! さあ『がっかりスポット』に出かけよう」

 ひみこの顔色が怒りから戸惑い、そして喜びに変わる。
「あのね、札幌の時計台、見てみたい!」


 タクシーで五分ほど進み、目的地に着いた。
 車から降りて、はじめて少女は現実の世界を目の当たりにする。
 通りと空を走る車。輸送用の大小さまざまなドローンが飛び交う。

 道行く人の中には、フードのついた裾の長いローブを着ている。「魔法使いみたい」と、ひみこはつぶやいた。

「ひみこ、これを見たかったんだろ?」
 アレックスが指したところに、赤い屋根と白い羽目板の壁が美しい木造建築があった。中央の塔の大きなアナログ時計が目を引く。ローマ数字の時計の大きな文字盤が時代を象徴している。
 札幌の時計台。正式には「旧札幌農学校演武場」といい三百年前に建てられた。札幌農学校は、かの北海道大学の前身だ。ここでは生徒の兵式訓練や入学式などが行われた。

「やったあ、ちゃんとがっかりしてる」
 ひみこは声を弾ませた。時計台の周りは、ひみこが知っている以上に「がっかり」な状態で、正面以外は超高層ビルに取り囲まれている。

「ほら、タマ、見てよ」
 ひみこは腕時計を着けた左手を上げ、タマに時計台を見せた。
 しかしタマは、東京の家を出てから相変わらず通訳マシーンに徹し何も語らない。それを寂しく思うがひみこは興奮の方が優っていた。
 時計台は、高層ビルに囲まれた様子が何とも哀れで、日本三大がっかりスポットなどと言われている……ということを、以前、タマは得意げに説明していた。

 アレックスはサングラスを外して、時計台を眺める。
「ああ、そういうことか……君はそのままで見て『がっかり』したわけか」
 彼はもう一度サングラスをかけ、ヒンジに指を添え、しばらく時計台に顔を向ける。

「ひみこ、このグラスで見てごらん」
 アレックスは、自分のサングラスを外してかけさせた。

「あれ? がっかりじゃなくなった」
 ひみこは首をかしげた。そのグラスを通すと時計台の周りには高層ビルはなく、青空と生い茂る緑が広がっている。

「急いで簡単に作ったけど……この建物ができた当時は、こんな感じだったのかな?」

 ひみこは頭をグルグル回す。目にするのは、時計台と自分自身、そして隣の大きな男だけ。広々とした草原に二人きりだ。先ほどまで歩いていた人はどこへ行ったのだろう?
 何だか頭がクラクラしてきた。

「歩くと危ないよ。僕はただ、必要な要素を切り出しただけだから」

 アレックスは「がっかり」ではない景色を、ひみこに見せてくれたようだ。
 が、彼のそのサービスはひみこにとって過剰なのか、作られた映像に圧迫され頭が痛くなってきた。

「どうした!」

 頭痛と浴衣の帯の圧迫感、真夏の三十五℃を超える札幌の日差しで、ひみこはバランスを崩してしまう。
 反射的にアレックスは、ひみこの背中を支え、小さな少女を抱えた。

「スーリヤ!」

 男は天高く、腕を掲げる。先ほど東京から札幌まで運んだエアカーと同じ車種が現れ、道路沿いの駐車スペースに着地した。
 アレックスはひょいとひみこの身体を持ち上げ横抱きにした。

「ちょ、やめて! 恥ずかしい!」
「暴れないでくれるかな」
「ぎっくり腰になっちゃう!」
「僕がいつも持ち上げているバーベルより軽い。君はもっと食べた方がいい」
 男は騒ぐ少女を車に押し込めた。


「ごめんなさい」
 移動中、ひみこは、サングラスを外し保護者に返した。
「せっかく、がっかりじゃない時計台見せてくれたのに……なんか、あたし、変になっちゃった」
「僕こそ悪かった。いきなり君に観光をさせて……今日はもう休むんだ」
 ぐったりしてソファに沈む少女の頭に、アレックスは手を添えた。


 ひみこは、アレックスが「作った」景色を見た途端、まるでその景色に身体が押しつぶされるように気持ちが悪くなってしまった。
 少女は、黒いリストバンドの腕時計……浴衣にはおよそミスマッチの時計の画面をいじる。

「タマ、ねえタマ、どうしちゃったの?」
 いくら呼び掛けても、タマは反応しない。アレックスとの通訳以外は全く動かない。毎日、下らないドラマを見せ謎な解説をする三毛猫。
 いつもうざくて邪魔くさかったのに、こうも静かだと寂しくて仕方ない。

 新しい家は、前の家より何倍も広い豪華なホテル。
 新しい保護者は、親切でお金持ちで少女を軽々持ち上げるぐらい逞しい人。
 なのに。
 ひみこは、空飛ぶ車の中、両親への怒りから知らない男に着いてきたことが正しかったのか、早くも不安になってきた。
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