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22 宇宙で一番大切なこと

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 ペンブルック伯爵令嬢メアリ・カートレットは、サイ・クマダ博士の研究室にいた。
 彼女は大きなキャップを被り、口元を布で覆っている。ゆったりしたシャツとズボンに身を包んだ彼女は、貧民の少年のようだ。
 が、かすかにもれる二つの緑色の光は、間違いなく僕の婚約者のものだ。
 メアリは、車椅子に座る老女の足元にしゃがみ込み、手を握りしめ話しかけている。

「おばあちゃん、楽しい?」
「いい笑顔。ちゃんと聞こえているのね。私も嬉しいわ」

 澄んだ声が、僕の耳朶をくすぐる。
 今すぐ駆け寄って抱きしめたいが、セバスチャンが僕の手の甲をつねり「駄目ですよ」と囁いた。
 衝動をやり過ごしてモップで床を擦りつづける。
 クマダ博士が、メアリにゆっくりと近づいた。

「あなたに頼んだのは、窓拭きなんですが。患者は、私の優秀な看護婦たちに任せなさい」

「で、でも患者さんたち、ずっと狭い部屋にひとりぼっちにされて……せめて歌でも聴かせてあげたくて……」

「余計なことをしなくていいんです。その患者は、なにも認識できませんよ」

「そんなことありません! 歌ったらちゃんと手を握り返して、笑うんです。このおばあちゃんは、ちゃんとわかっているわ」

「君は、医者か? 大学は文学専攻と聞いたが」

「はい。前世でも文学部でした」

 彼女は前世でも文学が好きだったのか。テイラー女史が書くような物語を、前世でも読んでいたのか。

「まったくあなたは、仕方ない……リズ!」

 博士はフロアの隅にいる看護婦に呼びかけた。

「この患者を部屋に戻してくれ」

「またなの? どこの坊やか知らないけど、あたしたちの仕事、邪魔しないでくれる?」

 リズと呼ばれた看護婦は、邪魔だと言わんばかりに、しゃがんでいるメアリの背中を蹴った。
 伯爵令嬢に対する無礼で、僕は怒りに身を震わせる。セバスチャンが「ここは堪えて」と諌めなかったら、僕は飛び出しただろう。
 今のメアリは、下働きの少年にしか見えない。

「ご、ごめんなさい。おばあちゃんが寂しそうだったから」

 メアリは、おずおずと立ち上がる。
 看護婦は苛立ちを隠さず、車椅子を押して奥の通路に消えていった。
 クマダ博士は、下男に扮したメアリに問いかける。

「さて、私がここの所長を務められるのは、今日で最後なんだが」

「え? そ、そんな……」

「奥で話そう」

 博士は僕らに目配せをし、メアリを別室に連れていった。
 彼が部屋の扉を半開きにしてくれたから、中の様子がわかる。雑然とした書棚に大きな机。ここは博士の書斎らしい。
 メアリは粗末な椅子に腰掛けた。
 博士はメアリに自身の状況――自分の研究実態が新聞に載り、大学から呼び出されていることを説明した。

「そうですか……先生は、貧しい患者さんをどうしても助けたかったんですよね」

 ん? メアリは、この施設の真の目的を知らないようだ。この男には、医師としての崇高な精神はない。自分の理論を証明するために、貧者の命をためらいなく犠牲にしてきた。
 クマダ博士は、耳障りのいい言葉でメアリを言いくるめているのだろう。

「仕方ないですよ。メアリさん、私はここを解雇されるだろう。あなたは家族のもとに帰りなさい」

「でも私は勝手に家を抜け出しました。いまさら戻れません……」

「そんなにしてまで前世を忘れたいんですか? 何十回も言っているが、手術は危険だ。今、あなたが相手してやった老女のようになるかもしれないんですよ」

「前世さえなければどうなろうと構いません」

「強情な令嬢だ。脅すつもりでここの患者を見せたら、なにか手伝いたいと居座る。追い出すつもりで、汚物にまみれた患者のおむつの洗濯を頼んだら、なんなくやってのける」

 なんだと! この男は、伯爵令嬢である王太子の婚約者に、そんな汚れ仕事をさせたのか! それだけでも死罪だ!

「この世界には紙おむつがないから仕方ありません。前世でちゃんと介護の勉強しておけば、もっと役に立てたのでしょうが」

「そうまでして、あのお坊ちゃまと結婚したいんですか」

「あの方は、容姿優れた貴族の女性であれば、誰でもいいのでしょうが、でも、私は、私は……前世の記憶以上に、あの方への想いを消すことはできません」

 やめてくれメアリ! なぜそんな悲しいことを言う?
 確かに僕は、彼女が美しい伯爵令嬢だから妃に選んだ。
 しかし生まれ変わりとは結婚できない。だから彼女の頭から前世を消そうと、天才医師に依頼した。
 この博士は問題ありすぎる人物で、少なくとも現時点で、彼女から前世への思いを消すことはできない。

 では、メアリを諦めるのか?
 そんなことできるはずがない! それができるぐらいなら、メアリが生まれ変わりと知った時点で両親の勧めに従いすぐ婚約破棄をして、別の候補者に乗り換えた。

 僕の妃はメアリだけだ。輝く緑色の眼も、意志の強そうな眉も、豊かなブルネットの巻き毛も、そして優しい心もすべて僕のものだ!
 そう、メアリは優しい。
 嫉妬対象であるクシナダ・キアラを、外国人差別者から庇う。病院の老女を哀れみ、手を取って歌を聴かせる。
 心優しい彼女が、愛する両親や侍女たちを騙して屋敷を抜け出してまで、前世の記憶を消そうと執着している。虚ろになっても構わないと。

 すべて僕が原因だ! 僕が彼女に、魔王の手先なんてひどい言葉をぶつけたからだ!
 メアリは連れて帰る。彼女の母親に約束したのだ。

 僕はセバスチャンの手を振り切って、勢いよく博士の書斎に飛び込んだ。

「そんなことはない! 僕の妃は、君しかいないんだ!」


「え? どなた? あ、まさか……いやあああ!」

 僕の変装を見破ったのか、メアリは立ち上がり逃げようとした。入り口に立ちはだかり、強引に彼女の両腕を捕まえた。

「離して! もう私は意味がないの!」

 暴れる彼女を押さえつけるのは大変だ。僕とメアリは背丈が変わらない。

「意味がない!? 冗談じゃない。僕にとってはメアリがすべてだ!」

「もうあなたと結婚できないの!」

「いや、僕は君と結婚する!」

「無理です! だって、どうやっても前世の思い出は消えないし、前世をただの物語と考えることもできません!」

「前世を消す必要はない!」

 暴れていたメアリがおとなしくなった。


「ロバート様、なにをおっしゃって?」

 婚約者の大きな眼が、瞬きを繰り返す。

「メアリ、前世は楽しかったかい?」

「……前世が楽しい?」

「前世のロマンス小説は、面白かったかい? 前世の小説でも、高貴な男が強引に女に迫るのか?」

「え? だ、だって、ロバート様、私に前世さえなければいいって……」

「僕が間違っていた。君にとって前世は、大切な思い出なんだろう?」

「……私、前世を消さなくていいのですか? ロバート様は、こんな私を許してくださるの?」

「許しを乞うのは、僕の方だ」

 堪え切れず僕は、メアリを強く抱きしめる。

「君がネールガンドの妃に相応しいとか、史師エリオンが転生者を忌み嫌うとか、そんなことどうでもいい!」

 僕が彼女の前世を憎んだ本当の理由。
 史師エリオンの教えに反するからではない。
 僕の知らない世界で楽しそうに生きていた彼女が、許せなかっただけ。僕以外のなにかが彼女を喜ばせていたから、悔しかっただけ。
 僕は狭量な男だ。およそネールガンド国民の規範に相応しくない。
 ただの男として、確かなことはただひとつ。

「君が君であること以上に、この宇宙に大切なことはない!」

 なによりも大切な存在が、動きを止めた。
 目を見開き、肩を震わせている。

「ああ、ロバート様、ロバート様、ああああ!」

 婚約者は僕にしがみついて泣きじゃくった。
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