僕の月、君の太陽

月ヶ瀬 杏

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 ◇

「お母さん、どこ行くの?」

 小2の秋。夕方の5時に帰宅すると、母が見慣れない大きな鞄を持って家から出てきた。
 玄関先で俺と鉢合わせた母が、何とも言えない複雑そうな顔をする。
 母は、学校から帰ってきた俺が遊びに行く前とは違う服を着ていた。

 白のブラウスに水色のスカート。
 それは普段ではあまり見ることのない、母の余所行きの服だった。

 母が夕方に出かけることは滅多にない。
 たまに何か買い忘れて夕方ちょっとスーパーに行くことはあったけど、着て行く服はデニムにTシャツを組み合わせただけの普段着で、街中に出かけるような格好でスーパーに行く母を見たことはない。
 よく見ると、普段すっぴんに近い母が夕方なのに俺にもはっきりわかるくらいの化粧をしていた。

「買い物?」

 不思議に思いながら首をかしげる。
 母は俺の質問に答えなかった。その代わりに、持っていた鞄が落ちる。
 何が入っているのか、地面に落ちた鞄はドスンと重たそうな音がした。
 鞄を見つめて数回瞬きしてから顔を上げると、母が何かを堪えるように唇を噛んで俺の前に跪いた。

「お母さん?」

 母の水色のスカートの裾が地面に擦れる。俺はスカートが汚れないか心配だった。
 そのスカートは母のお気に入りで、特に外で食事をするときは、食べこぼしたりしないように細心の注意を払っていたからだ。

 そわそわしながら地面についた母のスカートを見ていると、不意に肩をぎゅっと引き寄せられた。
 あまりにスカートのことを気にしていたせいで、母に抱きしめられていると理解するまでに少し時間がかかる。

「お母さん?」

 首を傾げたとき、母が俺の耳元でささやいた。

「ごめんね……」

 母に謝られる理由が全くわからなかった。
 今日は特に怒られることはしていないし、母との関係は朝から良好だったはずだ。
 学校から帰ってきたときだって、夕飯の準備をしていた母が笑いながら言っていた。
「今日は陽央の好きなエビフライよ」って。
 そのときに「タルタルソースつけてね」って言ったけど、もしかしてその材料が足りなくて作れないのかもしれない。

 母が手作りするタルタルソースは結構美味くて、それをかけたエビフライが俺の好物だった。
 だけど一度だけ、卵を切らしていて、母がエビフライにケチャップをかけて出してきたことがある。
 そのとき俺はものすごく不貞腐れて、母のことを困らせた。
 また俺が不貞腐れたら困るから、謝ってるのかな。

「今日は何を買い忘れたの?」

 笑って訊ねると、母が跪いたままはっとしたように顔をあげた。
 しばらく放心したように俺を見つめた母が、やがて小さく首を振る。

「うん、ごめんね。お母さん、ちょっと行ってくる」

 母がシュンと小さく鼻を啜る。

「うん、お腹空いてるし急いでね」

 そう言うと、母は黙って俺に回した腕を解いた。

「じゃぁ、ね……」

 立ち上がった母が淋しそうにつぶやく。

「いってらっしゃい」

 なぜか逃げるように俺から顔を反らすと、母はひとりで出かけて行った。

 家に入ると、親父がリビングのソファーに座っていた。

「お父さん? 今日、仕事早く終わったの?」

 親父が夕飯前に帰ってきているのは珍しい。
 嬉しくなって駆け寄ると、親父がハッと驚いたように顔をあげた。

「陽央、いつ帰ってきたんだ?」
「今だけど?」

 珍しく早く帰ってきたと思ったら、変なことを訊いてくる。

「買い物に出かけるお母さんとそこですれ違ったよ」
「買い物? お母さん、そう言ってたか?」
「ん? うん」

 普段適当な親父が、いつになく真剣な顔をしていた。
 首を傾げながら頷くと、親父はしばらく俺を見つめてから「そうか」と小さくつぶやいた。

 変だな、と思った。今日は、親父も母親も。

「お母さん、早く帰ってこないかな。腹減ったー」

 親父の隣に座って、テレビのリモコンに手を伸ばす。
 だけど、どれだけ待っても母は家に帰ってこなかった。

 その日、キッチンには母が揚げたエビフライとサラダとスープが置いてあった。
 冷蔵庫にはタルタルソースもちゃんと入っていた。材料は全部揃っていて、買い忘れなんてひとつもなかった。

 その日、母が俺の前から姿を消した。

 父と母が離婚した。そのことをきちんと理解したのはそれからしばらくあとのことだった。
 その理由が母の方にあった。それを何となく知ったのは、さらにそのあと。

 子どもの頃、きっとほとんどの子どもがそうであるように、俺も母親のことが好きだった。
 だから、母がいなくなった理由を知ったときは失望した。
 両親の離婚の原因は、母に親父以外の好きな男が現れたから。

 母は、俺を捨てていったんだ────。




 あの日の記憶が蘇って、頭がぐらぐらした。
 今目の前にいるのは。朔の母親だというこのひとは。あの日姿を消してしまった、俺の実の母親だ。
 朔の……、いや。俺の母が目を見開いてこちらを凝視する。
 薄れかけた記憶の中にある母よりも年を重ね、やつれた顔をしている彼女の黒の瞳。小動物みたいなその目は、俺を見上げる朔のそれとよく似てる。

 どうして気づかなかったんだろう。
 『大原』は、俺の母親の旧姓だ。

「陽央、どうして……」

 母の口から、くぐもった声が漏れる。

 どうしてか、なんて。そんなの、俺が聞きたいよ。
 どうしてだよ。俺に嘘をついていなくなったくせに、今さら名前なんて呼ばないで欲しい。
 こんなところで。こんな状況で。
 頭がぐらぐらして、吐きそうだ。

「お兄、ちゃん?」

 俺と母を交互に見比べながら、朔が戸惑い気味に首を傾げる。
 俺はゆっくりと深呼吸すると、朔と繋いでいた手を離した。

「悪い。俺、もう行くわ」

 ウサギみたいに小さく鼻をひくつかせる朔を横目で見下ろす。

「え? 行くってどこに?」

 朔の声が返ってきたとき、俺はもう母に背を向けて歩き出していた。

「お兄ちゃん?」
「陽央!」

 朔と母の声が重なる。
 だけど、振り返ったりしなかった。振り返る余裕もなかった。
 早足でナースステーションの前を通り過ぎて、タイミングよくやってきたエレベーターに乗り込む。

 階下に向かうエレベーターのドアが閉まりきる直前、追いかけてきた朔の不安そうな顔が覗き見えたような気がする。
 だけどそんな気がしただけで、本当に朔だったかどうかは定かじゃない。

 早足で病院を出ると、ちょうど病院前から出るバスが発車するところだった。
 ドアが閉まる寸前で、駆け込み乗車する。
 バスが発進すると、俺はドアに近い席に座った。
 窓枠に肘をついて、ぼーっと車窓を眺める。

 バスが病院を出て5分ほど経ったとき、窓の向こうに河原が見えてきた。
 俺の住んでいる場所と風景がよく似ている。
 けれど、駅から病院に向かうときに河原なんて見た覚えがなかった。
 よく見ると、車窓を流れる景色が来たときとは全く違う。
 そこで初めて、駅とは真逆の方向に向かうバスに乗ってしまったことに気がついた。

 そういえば、バスに乗り込むときに行き先表示をきちんと確認しなかった。

 どれだけ動揺してたんだ……
 次のバス停で降りて、反対方面に向かうバスを待つしかない。
 俺は口元を歪めて苦笑いすると、窓枠にある降車ボタンを押した。

 バスが停まったのは、河原沿いの土手の上だった。
 土手の下は大きく開けていて、野球やスポーツができる広いグラウンドになっている。その周り一面に広がっている緑色は、よく見るとクローバーだった。
 クローバーが生えている河原沿いの道の雰囲気は俺の家の近所とどことなく似ている。
 その光景に導かれたのかもしれない。道を渡って反対側のバス停に移動しようとしていた俺の足は、気付くと河原へと続く階段を降りていた。 

 朔がまだうちに来たばかりの頃、彼女は母親が好きなシロツメクサの花を病院に届けようとして迷子になった。
 あのとき、俺の実の母親もその白い花が好きだったことを思い出して、ちょっと懐かしい気持ちになった。

 朔は、俺が小さい頃に母に読んでもらっていたのと同じ本が好きだった。その本が、まだ俺の心の底に僅かに残っていた母への想いを小さく揺さぶった。

 俺と母との思い出は、朔と彼女の母親との思い出とよく似てた。
 似てるはずだ。だって、俺と朔の母親は同一人物だったんだから。

 足元に広がるクローバーの群生。季節が過ぎ、緑の葉だけになったそれを、靴底でぐりぐりと踏みつける。
 気を抜けば、病院で見た痩せた母の顔が残像となって脳裏に浮かび上がってきそうで。それを掻き消すように、足元のクローバーを何度も強く踏みつけた。

 だけど、浮かび上がる残像はなかなか消えてはくれない。
 足元を睨みながら下唇を噛む。
 そのとき、ズボンのポケットにいれていたスマホが鳴った。
 スマホの画面に浮かび上がっているのは親父の名前。
 言葉にできない感情が胸に湧き上がってくるのを感じながらも、通話ボタンを押してスマホを耳にあてた。

「陽央? 今、どこだ?」

 黙っている俺に、親父が話しかけてくる。

「陽央、聞こえてるのか? 今、どこにいる?」

 親父の話すスピードはいつもより少し速くて、なんだか焦っているみたいだった。

 そりゃ焦るよな。
 だって、親父はちゃんとわかってたんだから。

「どこにいるって言ってもらいたいわけ?」

 唇を歪めて、自嘲気味に笑う。

「陽央」

 名前を呼ばれただけなのに、なぜか無性にムカついた。

「今さっき、朔の母親の病院に行ってきた。どうして隠してたんだよ」

 次に黙り込んだのは、親父のほうだった。

「だからしつこく言ってたんだな。見舞いに行くなら絶対に声かけろって。俺が朔の母親と顔合わせないようにしたかったんだろ? だってあのひとは──」
「陽央、聞いてくれ」

 親父が俺の言葉を遮る。だけど今は、親父の声に耳を傾ける気になんてなれなかった。

「朔が来たとき、親父言ったよな。あいつは自分の子だって。どういうことだよ? 再婚したお母さんのこと、裏切ってたのか? 出て行ったのはあのひとのほうなのに。何考えてんだよ」
「陽央、違うんだ。そうじゃなくて──」
「何が違うんだよ?」

 ケンカ腰で言葉を返すと、親父が困ったように息を吐く。

「とにかく、落ち着いたらマンションに戻れ。俺は今から病院に朔を迎えに行く。夕方にはマンションに連れて行くから、そのときにちゃんと話そう」
「ちゃんと、ってなんだよ。今、どういうことか説明しろよ」

 すぐに質問に答えない親父に話をはぐらかされたみたいで苛立った。

「今話したって、冷静に聞けないだろ」
「なんだよ、それ」
「とにかく、俺は今から朔を迎えに行く。お前が急に病院を飛び出していなくなるから、心配してたぞ。あとでマンションでな」

 そう言うと、親父から電話を切ってきた。
 ツーツーと鳴る機械音を聞きながら、小さく舌打ちをする。
 通話が切れたスマホを乱暴にポケットに突っ込むと、代わりに煙草とライターを引っ張り出した。
 朔と住むようになってからは自然と数が減っていたけど、今はそれに火を点けずにはいられない。
 口に咥えて吸い込むと、その苦い味に何だか息苦しくなった。
 半分ほど吸い終えたところで、虚しさがこみ上げてきて口から煙草を離す。
 地面で火を踏み消したとき、またスマホが鳴り始めた。

 また親父からか。鬱陶しく思いながらも放置はできない。
 だけど、画面に表示されていたのは親父ではなくて奈未の名前だった。

 矢吹の一件のあと、奈未はしょっちゅう俺に着信やメッセージを入れてくる。もちろん、あれ以降俺から連絡をしたことはないし、奈未からの連絡は全て無視している。
 普段なら奈未からの着信なんて無視して適当にやり過ごすけど、この状況でかかってきた奈未からの着信が悪質な嫌がらせに思えた。

 イライラした。イライラしたから、早く完全に断ち切ってしまいたいと思った。

 通話ボタンを押して、スマホを耳にあてる。

「あ、えっと……ハ、ハルヒサ?」

 ずっと着信もメッセージも無視してきたから、まさか俺が出るとは思わなかったらしい。
 奈未の声は焦っていた。

「よかった。電話、出てくれて嬉しい」

 だけど次の瞬間には、俺の機嫌をとるような甘えた声に切り替わる。

「ハルヒサ、今どこにいる? あのね、あたし、もっとちゃんとハルヒサと話がしたくて。こないだのこと、もっとちゃんと説明したいの。今からほんの少しだけでも会えないかな? ハルヒサの都合がいい場所があれば、どこでも行くから」

 早口で話す奈未の声を、俺はただ黙って聞いていた。

「あ、今日は都合悪いかな? いきなりは困るよね。別の日でもいいから、ハルヒサが都合がいい日ある?」

 俺が黙っているから不安になったのか、奈未の声のトーンが下がる。
 それでも彼女は、俺との約束を取り付けようと必死だった。そんな奈未の態度が俺を白けさせる。
 矢吹と一緒にいる奈未を見た瞬間は嫉妬にも似た怒りが湧いたけど、今となっては本気でどうでもいい。
 
「あたしがハルヒサの都合がいい場所まで行くよ。だから──」
「じゃぁ、いつもの駅前のホテルで会う?」

 必死に俺を繋ぎとめようとする奈未が滑稽で、片側の口端が引き上がる。
 通話を受けてから初めてそんなふうに言葉をかけると、電話口の向こうで彼女の息が弾むのがわかった。

「今から会ってくれるの?」

 期待のこもった奈未の声。
 上目遣いに俺を見る彼女の顔が想像すると、ふっと侮蔑のこもった息が漏れる。

「そんなわけねーだろ」
「え?」
「直接会おうが会うまいが、俺が聞きたいことはひとつだし、その答えがどうであろうと俺の気持ちは変わらない」

 自分でも驚くほど冷たい声が出た。

「浮気したんだろ、あいつと」

 断定的に訊いたのは、会って話したいとか説明したいとか、そういう奈未の言い訳なんてもうどうでもよかったから。
 返す言葉が見つからないのか、さっきまで一方的に話し続けていた奈未が黙り込む。
 説明はしたくても、否定はできないってことか。
 唇を歪めて苦く笑う。
 そのまま通話終了ボタンを押そうと親指を動かすと、奈未が俺を呼び止めた。

「ハルヒサ、聞いて! 違うの」
「何が?」
「後悔してる。あたしが間違ってたって……学部の飲み会の席でいつもより飲み過ぎて、どうかしてた」

 奈未の声を聞きながら思い浮かべていたのは、さっき病院で見た母の顔だった。
 親父はあの人とどんな気持ちで再会して、どんな思いで今も会っているんだろう。
 身勝手な理由で姿を消したあの人を、赦しているんだろうか。

「あたしは今もずっとハルヒサのことが好きなの。前みたいに戻れなくても、離れたくない。赦してくれるまで、何度でも謝る。そばにいてくれるなら、何でもする。だからハルヒサ、あたしにもう一度チャンスをちょうだい」

 奈未の声がどこか遠くに聞こえる。
 頭の中を素通りしていく彼女の声を聞きながら思った。

 いや、違うか。
 俺の場合はもう、赦すとか赦さないとかそういう問題じゃないんだ。

「わかった」
「ハルヒサ」

 俺のつぶやきに反応した奈未の声が、歓喜に揺れる。
 でも俺が今から告げる言葉は、彼女を喜ばせるためのものじゃない。

「俺はもう奈未とは付き合えない。一緒にいたいとも思えない」
「え、でも……今さっき、わかったって……」
「奈未が言いたいことはわかった。でも、このまま付き合い続ける気持ちにはなれない」
「ハルヒサっ!」

 悲鳴にも似た奈未の声が、俺の鼓膜を震わせる。

 奈未のことは好きだった。その容姿も声も、ちょっとワガママな性格も。
 だけど今は、耳に届く彼女の声をただ煩わしいとしか感じない。

 赦すとか赦さないとかじゃない。
 俺にはどうしたって受け入れられない。奈未も、母も。母を赦したのかもしれない親父も。

「電話もメッセージもこれで最後にして。俺はもう、お前と話すことなんて何もないから。大学で見かけても、近寄って来ないで。俺もそうするし」
「ハルヒサっ! 待ってよ! あたしはそんなの──」
「さよなら」

 奈未がまだ何か言っていたけど、これ以上の会話は無駄な気がして、一方的に電話を切った。

 電話を切ったあと、奈未の連絡先を消去した。
 そうすると、何だか少しスッとした。
 奈未の連絡先を消したスマホに、すぐに電話がかかってくる。
 画面に表示されるのは、ただの数字の羅列。意味のないそれを数秒見つめると、スマホをズボンのポケットに押し込む。
 しばらく無視しているうちに、着信は鳴り止んだ。

 静かになると、土手の上のほうからバスのエンジン音が聞こえてきた。
 病院前経由で電車の駅へと向かうバスが、停留所に近づいてくる。
 土手を駆け上がれば、あのバスに充分間に合う。
 けれど、バスに乗り込んだあとの行き先を考えると、足が前に出なかった。
 躊躇っているうちに、停留所で止まったバスが発進する。

 遠退いていくバスの後ろ姿を見つめながら、朔のことを考えた。
 きっと、いきなり病室を飛び出してしまった俺のことを心配してるだろう。
 親父が待っていると思ったら億劫だけど、大きな丸い瞳を不安気に揺らす朔の顔を想像すると、帰らなければいけないと思った。


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