僕の月、君の太陽

月ヶ瀬 杏

文字の大きさ
上 下
30 / 35

11-1

しおりを挟む
合宿から戻って新たな「家族」の一員となって数週間、藤倉は共栄教会の寮で新たな生活を始めていた。
長年働いた新聞店を辞めて寮に引っ越してから仕事も変える。
新たな職場は共栄教会の先輩教徒の岡崎正英が働くヤマト運輸の物流センター羽田クロノゲートベース。
そこの投入口Dで岡崎と共に荷下ろし作業に従事し、重い荷物を扱いながら単調なリズムの中で一日が過ぎていく。だが、そんな作業の合間にも、藤倉の頭の中では教会代表のイ・リキョンの言葉が響いていた。

「憎しみはお前の強さである。抑えるな。お前を見下す者に裁きを」

仕事中、藤倉はその教義を口の中で何度も繰り返しつぶやいた。
荷物をベルトに投げ入れながら徐々に湧き上がる怒りを感じる。
それは、ただの職場のストレスだけではない。
彼の中には、これまでの人生で自分を無視し、蔑んできた人間たちへの憎悪が燃え盛っていた。

そうであっても、普段教会の寮の食堂では他の信者たちと顔を合わせてイ・リキョンの教えとその絶対性を一緒に語り合う。
岡崎は年がやや上なくらいの同年代で職場も同じなので面倒をよく見てくれる。
ガソリンスタンドで働く高木泰助も先輩教徒ではあるが、十歳以上年上の自分に気を使って敬語で接してくれていた。

一見皆になじんでいたように見えるが、藤倉の思考は別のところに向かっていたことを彼らは知らない。
共栄教会の教義やイ・リキョンの語録に忠実に従い、合宿ではつきっきりだった桝の言葉を信じる一方で、彼の心の奥底で燃え盛っていたのは違う思いだった。



ある日、自分の計画が完璧に進行していると信じて疑わなかった桝が寮にやってきて藤倉に言った。

「準備は整った。明日の晩やる」

その指示は簡潔で、冷徹だった。
ターゲットは某人材派遣会社社長。
彼の家は藤倉の先輩教徒の岡崎、高木、立花、坂尾によってすでに特定されていた。
防犯カメラの位置も把握し、無力化する準備も整っている。
高木はさらに火炎瓶を複数本準備しており、それを使って社長の家を明日の晩襲撃する計画だった。
教団の言葉で言えば「神の怒り」を下すための行動だ。
しかし、桝が本当に目的としていたのは自分が狙っていたガールズバーの女といい仲になって半妾にした社長への私的な復讐だった。

藤倉はその「天罰」を直接下す役割を担わされることになっていた。
火炎瓶を何本か社長の家に投げ込み、社長とその家族ごと家を全焼させるのだ。
桝は藤倉を洗脳し、完全に自分の都合の良い兵士に育て上げたと思っている。
藤倉は教団の語録を繰り返し口にし、これまで他の信者たちと同じように桝の命令に従順だったからだ。



しかし決行の日の夜が明けようとする早朝。
藤倉の中で何かが変わり始める。
高揚感と憎悪が胸の中で渦巻き、どうにも眠れなかったのもあったが、目がさえながらも頭をぼんやりさせた藤倉は昨晩高木から渡された何本かの火炎瓶をカバンに入れて寮を静かに抜け出した。

頭の中では、桝の言葉が反響し続けている。
「神の裁きの執行者だ」と。
だが、その言葉を反復するたびに、心の中にある何かがずれていくような感覚に苛まれていた。
そんなのでは「裁き」にならないと。
それは自分の考える「神の意志」ではないと。

寮を出た藤倉は、最寄り駅の東西線南砂駅で当てもなく電車に乗り込んだ。
夜の闇が薄れていく中、彼は無心に乗り換えを繰り返し、気づけば新宿駅に着いていた。
人混みが増え始める時間帯だったが、彼の頭はどこか空っぽ。
新宿駅で小田急線に乗り込み、再び当てもなく走る車窓を見つめる。

「どこに向かっているんだ…?」と自問しながらも、藤倉の手は火炎瓶の入ったカバンを握りしめたままだ。
代々木上原駅でふと降り立ったが、どういうわけかまた新宿に戻ろうと、向かいの朝のラッシュアワーでごった返し始めたホームへ向かった。
通勤客が押し寄せるプラットフォームに立ち、新宿へ向かう列車を待っていたが通勤客はあまりにも多い。

真ん中の車両は人が多い。
先頭か最後尾なら人が少ないだろう。

立っていたのが後寄りのプラットフォームだったので自然と最後尾の列車の乗り口へ向かう。
その間、無意識的に・リキョンの語録を口走り始める。

「持たざる者が真の価値を持つ」
「成功者を妬むことは祝福されるべき行為である。なぜなら彼らはお前から奪ったのだ…」
「奪われたものを取り戻せ。それは正義だ」

ぶつぶつ口ごもり続けた藤倉が目的の場所まで来た時、目の前の光景に目を見開くことになる。
彼の口ずさむ語録もより過激さと狂気を含んだものに変わり、声も大きくなる。

「弱者は神の剣となる!」
「恨みを怒りに変えよ、それを解き放て!それは神の意志である!」
「憎しみは強さである。お前を傷つけた者たちを罰せよ!」
「裁きは手を下す者にのみ許される。それが神の意志だ!」
「お前を見下す者は神の敵である!」

彼の目の前には女性ばかり。
そこは自分も含めた男全員を完全排除が合法な女性専用車両の乗り口だったのだ。

「すべての者に与えるべきものが、お前から奪われたのだ。奪い返せ」
「愛されない者こそ、神の真の戦士である」
「愛される資格をお前から奪った者に裁きを下せ」

藤倉の中で、人間として絶対外すべきではない何らかのリミッターが外れた。

「感受性を殺せ、良心というまやかしを捨てよ、さもなくばそれらはお前を滅ぼす」

火炎瓶がつまったカバンのチャックを開けて、藤倉は火炎瓶の感触を確かめ、取り出そうとしていた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

独身寮のふるさとごはん まかないさんの美味しい献立

水縞しま
ライト文芸
旧題:独身寮のまかないさん ~おいしい故郷の味こしらえます~ 第7回ライト文芸大賞【料理・グルメ賞】作品です。 ◇◇◇◇ 飛騨高山に本社を置く株式会社ワカミヤの独身寮『杉野館』。まかない担当として働く有村千影(ありむらちかげ)は、決まった予算の中で献立を考え、食材を調達し、調理してと日々奮闘していた。そんなある日、社員のひとりが失恋して落ち込んでしまう。食欲もないらしい。千影は彼の出身地、富山の郷土料理「ほたるいかの酢味噌和え」をこしらえて励まそうとする。 仕事に追われる社員には、熱々がおいしい「味噌煮込みうどん(愛知)」。 退職しようか思い悩む社員には、じんわりと出汁が沁みる「聖護院かぶと鯛の煮物(京都)」。 他にも飛騨高山の「赤かぶ漬け」「みだらしだんご」、大阪の「モダン焼き」など、故郷の味が盛りだくさん。 おいしい故郷の味に励まされたり、癒されたり、背中を押されたりするお話です。 

嵐大好き☆ALSお母さんの闘病と終活

しんの(C.Clarté)
エッセイ・ノンフィクション
アイドル大好き♡ミーハーお母さんが治療法のない難病ALSに侵された! ファンブログは闘病記になり、母は心残りがあると叫んだ。 「死ぬ前に聖地に行きたい」 モネの生地フランス・ノルマンディー、嵐のロケ地・美瑛町。 車椅子に酸素ボンベをくくりつけて聖地巡礼へ旅立った直後、北海道胆振東部大地震に巻き込まれるアクシデント発生!! 進行する病、近づく死。無茶すぎるALSお母さんの闘病は三年目の冬を迎えていた。 ※NOVELDAYSで重複投稿しています。 https://novel.daysneo.com/works/cf7d818ce5ae218ad362772c4a33c6c6.html

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

10年間の結婚生活を忘れました ~ドーラとレクス~

緑谷めい
恋愛
 ドーラは金で買われたも同然の妻だった――  レクスとの結婚が決まった際「ドーラ、すまない。本当にすまない。不甲斐ない父を許せとは言わん。だが、我が家を助けると思ってゼーマン伯爵家に嫁いでくれ。頼む。この通りだ」と自分に頭を下げた実父の姿を見て、ドーラは自分の人生を諦めた。齢17歳にしてだ。 ※ 全10話完結予定

イケメン彼氏は警察官!甘い夜に私の体は溶けていく。

すずなり。
恋愛
人数合わせで参加した合コン。 そこで私は一人の男の人と出会う。 「俺には分かる。キミはきっと俺を好きになる。」 そんな言葉をかけてきた彼。 でも私には秘密があった。 「キミ・・・目が・・?」 「気持ち悪いでしょ?ごめんなさい・・・。」 ちゃんと私のことを伝えたのに、彼は食い下がる。 「お願いだから俺を好きになって・・・。」 その言葉を聞いてお付き合いが始まる。 「やぁぁっ・・!」 「どこが『や』なんだよ・・・こんなに蜜を溢れさせて・・・。」 激しくなっていく夜の生活。 私の身はもつの!? ※お話の内容は全て想像のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※表現不足は重々承知しております。まだまだ勉強してまいりますので温かい目で見ていただけたら幸いです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 では、お楽しみください。

15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~

深冬 芽以
恋愛
 交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。  2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。  愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。 「その時計、気に入ってるのね」 「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」 『お揃いで』ね?  夫は知らない。  私が知っていることを。  結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?  私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?  今も私を好きですか?  後悔していませんか?  私は今もあなたが好きです。  だから、ずっと、後悔しているの……。  妻になり、強くなった。  母になり、逞しくなった。  だけど、傷つかないわけじゃない。

お飾りの侯爵夫人

悠木矢彩
恋愛
今宵もあの方は帰ってきてくださらない… フリーアイコン あままつ様のを使用させて頂いています。

手を伸ばした先にいるのは誰ですか~愛しくて切なくて…憎らしいほど愛してる~【完結】

まぁ
恋愛
ワイン、ホテルの企画業務など大人の仕事、そして大人に切り離せない恋愛と… 「Ninagawa Queen's Hotel」 若きホテル王 蜷川朱鷺  妹     蜷川美鳥 人気美容家 佐井友理奈 「オークワイナリー」 国内ワイナリー最大手創業者一族 柏木龍之介 血縁関係のない兄妹と、その周辺の何角関係…? 華やかな人々が繰り広げる、フィクションです。

処理中です...