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しおりを挟む江麻先生と会うことになったのは、奈未とひさしぶりのデートをした3日後のことだった。
待ち合わせ場所は、奈未と一緒に行ったショッピングモールの最寄り駅。
仕事帰りの江麻先生と大学帰りの俺がふたりでごはんを食べに行くには、そこが一番便利で、気の利いたレストランも集まっている場所だった。
「ひさしぶりですね」
約束の時間よりも少し早めについた俺が、駅の改札の外で待っていると、手を振りながら改札を抜けて出てきた江麻先生がにこりと笑いかけてくれた。
ひさしぶりに見る柔らかな笑顔に少しドキリとしながら、俺も軽く笑い返す。
「おひさしぶりです。江麻先生、どこか行きたい店あります?」
俺も一応いくつか店を考えていたけれど、リクエストがあれば……と聞いてみる。
「そうですね……」
江麻先生はちょっと考えるふうに首を横に傾けてから、すぐににこりと笑った。
「どこでもいいですよ。お兄さんのお勧めのお店で」
江麻先生ならきっとそう言うだろうと思っていたけど、あまりに予想通りで口元が緩む。
「じゃぁ、こことかどうですか?」
あらかじめネットで調べていた店の情報を、スマホで江麻先生に見せる。
駅から徒歩10分くらいのところにあるその店は、大学生の俺にはちょっと敷居が高い。だけどオシャレで、大人の女の人が喜びそうなイタリアンレストランだ。
奈未をそこに誘ったらきっと……というか、確実に目を輝かせて喜ぶと思う。
もし黙って行ったことが奈未にバレたらかなり不機嫌になると思うけど、値段が高いからそう簡単には連れていけない。
本当のところ、俺のバイト代からして完全に予算オーバーなのだけど、今回は夏休みにいろいろと付き合ってもらったお礼だし、江麻先生は年上だから、俺もちょっと見栄を張ってみた。
「この店、雰囲気がいいって人気ですよね。私は行ったことはないんですけど、結構高くないですか?」
店の情報を見た江麻先生が、心配そうに眉を寄せる。
「大丈夫ですよ。夏休みいろいろお世話になったし、俺がご馳走するんで」
江麻先生の心配そうな表情に、俺のプライドが少し傷つく。
江麻先生は俺とそんなに年が離れてるわけではないけどやっぱり年上だし、ちゃんと仕事もしているし。
学生の俺に高い店で奢らせることにはきっと抵抗があるんだろう。
「ほんとに大丈夫なんで。行きましょう」
俺は強い口調でそう言うと、江麻先生の前に立って歩き出した。
そんな俺の後ろを、彼女は何も言わずについてくる。
目的のイタリアンレストランに着くと、俺は江麻先生の前に立ってドアを開けた。
「いらっしゃいませ」
ドアを開けた瞬間、入り口のそばに立っていた黒い制服姿の男性店員が、俺たちに向かって丁寧に頭をさげた。
「ご予約はされていらっしゃいますか?」
顔をあげた店員がにこやかに微笑みながら、俺に話しかけてくる。
「え、っと……予約とかそういうのはちょっと……」
ネットで調べて人気店なのはわかっていたけれど、平日だし予約のことまでは頭になかった。
戸惑って口ごもると、店員がほんの少し表情を曇らせる。
「申し訳ございません。ただいまのお時間、予約のお客様で満席でして……ご予約のないお客様をご案内できるのは、席が空き次第というのとになってしまうのですが……」
申し訳なさそうに丁寧に対応してくれる店員に、こちらが逆に申し訳なくなる。
暖色系の照明に照らされる店内には、既にたくさんの客の姿が見える。
そのほとんどが気張り過ぎない程度のよそ行きの格好をしていて、大学帰りに普段着でふらりとやってきた俺の考えが甘かったことは明白だった。
「別のとこ、探しますか?」
店員と向き合ったまま困っていると、江麻先生が小声で話しかけてくる。
強引に連れてきたくせに、こんな結果でかなりダサい。
でも、予約がない場合にどれくらい待ち時間があるかもわからないから、結局店員に頭をさげて店を出た。
「なんかすみません……」
店を出てから江麻先生に謝まる。
変な見栄を張った自分が、本当にかっこ悪い。
気まずさを誤魔化すように斜め下を見ながら首筋を掻くと、江麻先生が笑いながら首を横に振った。
「全然。気にしないでください」
「どうしましょうか」
他にも候補の店はあったけど、そこもやっぱりちょっと敷居が高い店だから予約がないとダメかもしれない。
「この辺り、大学から近いんですよね? お兄さんがよく行くお店とかないんですか?」
心の中でため息をついたとき、江麻先生がそう言った。
「よく行く店ですか?」
友達や奈未と気軽によく行く店。そういうところがないわけじゃない。
でもそれじゃ、夏休みのお礼のために江麻先生を食事に誘った意味がない。
心の中の変なプライドと闘っていると、江麻先生がにっこりと笑った。
「お兄さんが友達とよく行く店があればそこに連れてってください。そのほうがゆっくりくつろげるでしょ?」
俺を見上げて笑う江麻先生の顔を見ていると、彼女が気遣いからではなく本心でそう言ってくれているような気がした。
「沖縄料理とか、嫌いじゃないですか?」
ちょっと迷ってから、そんな提案をしてみる。
ここから歩いて10分くらいのところに、俺が友人や奈未とよく行く沖縄料理専門の居酒屋があった。
そこはこじんまりとしていて座席同士の間隔も狭くてちょっとガチャガチャしてるけど、料理が美味しくて店の人の雰囲気がいい。
学生とか若い客も多くて、料理の値段も手頃。
さっきのイタリアンみたいにおしゃれで大人の女性が喜ぶ雰囲気じゃないのかもしれないけど、温かみのある店の雰囲気が俺は気に入っていた。
「いいですね。沖縄、学生時代に一回だけ行ったことあるんですよ」
俺の提案に、江麻先生が笑顔で賛成してくれる。
「じゃぁ、そこで」
彼女の笑顔を見て、変な見栄を張ったりせずに初めからそこに連れて行けばよかったかな、と思った。
そんな自分に少し苦笑いすると、俺は彼女の隣に並んで沖縄料理の居酒屋に向かった。
俺が連れて行った店を、江麻先生は気に入って喜んでくれた。
行き慣れた店は居心地が良くて、見栄を張って敷居の高い店に行ったりしなくて良かったと会計をしながら思った。
「今日はごちそうさまでした。料理も美味しかったし、楽しかったです」
店を出て駅に向かって歩く途中、江麻先生が俺を見上げて微笑んだ。
「いえ、こちらこそ。ありがとうございました」
俺は軽く照れ笑いを返すと、小さく頭を下げた。
ふわりとした江麻先生の柔らかな笑顔は、俺の胸をいつもほんの少し揺さぶる。
江麻先生からさりげなく視線をそらしたとき、ふとあるものが俺の視界に飛び込んできた。
駅に続く道から逸れた繁華街の路地の入り口。
そこに、見覚えのあるグレーのマキシ丈のワンピースを着たミルクティ色の長い髪の女が、明るめの茶髪に緩めのパーマをかけた見た目の軽そうな男に肩を抱かれて立っていた。
こちらを凝視して呆然としているミルクティ色の髪の女の隣で、茶髪の男が彼女の髪に馴れ馴れしく触ったり、その耳元に唇を寄せたりしている。
「お兄さん?」
突然一点を見据えて立ち止まってしまった俺に、江麻先生が心配そうに声をかけてくる。
けれど、俺はその声に反応することができなかった。
目の前で茶髪の男に肩を抱かれている女が奈未だったから。
「奈未……?」
名前をつぶやくと、江麻先生が隣で首を傾げる。
けれど、俺の視線の先に気付くと、気遣わしげに眉尻を下げた。
「私、どうしましょうか?」
何を思ったのか、江麻先生がそんなふうに訊ねてくる。
俺は眉を寄せると、困った顔で首を傾げた。
「すみません。本当はちゃんと駅まで送りたかったんですけど、ここまででもいいですか?」
「大丈夫ですよ。もし、誤解を解く必要があればいつでも呼んでくださいね」
何も言わなかったのに、江麻先生は目の前にいるのが俺の彼女だと気付いたらしい。
江麻先生はそんなふうに俺に言い残してから、ひとりで駅へと歩いて行った。
せっかく夏休みのお礼がしたくて時間を作ってもらったのにな。
歩き去っていく江麻先生の背中を見送りながら、申し訳なく思う。
でも俺には、あまり長い時間そうしている暇はなかった。
すぐに奈未へと視線を戻すと、未だに男に肩を抱かれたままの彼女への元と歩み寄る。
奈未は近づいてくる俺を真っ直ぐに見ていたけれど、隣の男はまだ俺の存在に気付かずに彼女に馴れ馴れしく触れ続けていた。
「奈未。行かねぇの?」
立ち止まり続ける奈未を、男が繁華街のほうへと導こうとする。
けれど奈未は男を無視すると、会話できる距離まで近づいてきた俺に向かって口を開いた。
「誰? 今の女」
「自分のことは棚にあげて置いて随分な物言いだな」
苦笑すると、奈未の隣にいた男が俺の存在に気が付いた。
「あれ、ハルヒサだ。何でここにいんの?」
男がバカっぽい口調でそう言って、無遠慮に俺を指差す。
それだけでなく、勝手に名前を呼び捨ててくる男の態度が癪に触る。
そいつは、何日か前に大学で奈未と一緒にいた矢吹だった。
「そっちこそ、こんなとこでこいつと何してんの? 同じ学部の友達にしてはやけに親密そうだけど」
嫌味を込めてそう言ってやったのに、矢吹は堂々と奈未の肩を引き寄せて、俺を挑発するみたいにニヤリと笑った。
「実際、同じ学部の友達以上に親密だし?」
「は?」
俺の口から思わず低い声が出る。
眉間を寄せた俺を見る矢吹の目は、ムカつくほどに愉快げだ。
「ハルヒサはあたしの質問に答えて。あの女、誰なのよ」
奈未が肩に回された矢吹の腕をうっとおしそうに振り払う。
矢吹が不服げに奈未を横目で見たけれど、彼女はそんなことは気にも止めない様子で。俺の質問を無視して、怖い顔で詰め寄ってきた。
「ねぇ、誰?」
自分は俺の目の前で軽そうな男に身体をベタベタ触られながら歩いていたくせに。
その言い訳すらしないで江麻先生のことを問い詰めてくる奈未に少し苛立った。
「そっちこそ、こいつと何してたのか弁解しろよ」
冷たくそう言うと、奈未が怖い顔で俺を睨んだ。
「何言ってんの? ハルヒサこそあたしに弁解しなさいよ。あの女、誰? あたし、知ってるんだから。ハルヒサ、夏休みにあの女と会ってたでしょ?」
別にやましいことなんてないのに、奈未の言葉に少しだけドキリとしてしまう。
その動揺が表情に現れてしまっていたのか、奈未が俺を睨みながら悔しげにキュッと唇を噛み締めた。
「あたし見たんだから。夏休み中、ハルヒサがあの女と一緒にいるところ。それも、1回じゃない」
俺を睨む奈未の瞳に涙の膜が張られていく。
確かに、夏休み中に俺は何度か江麻先生と会った。
でも彼女と会うときはいつだって、そばに朔と和央がいたはずだ。
「彼女はうちに同居してる妹が前に通ってた学童保育の先生だよ。いつ見たのか知らないけど、妹も近くにいただろ」
奈未が今にも泣きながらヒステリックに叫び出しそうで、仕方なく俺のほうが先に弁解とやらをしてやる。
だけどその答えに納得できなかったのか、奈未は瞳いっぱいに涙を溜めながらさらに強く俺を睨みつけてきた。
「へぇ。妹ダシにしてその先生をたぶらかしたんだ?」
「何だよ、その言い方」
皮肉っぽくけしかけられて、ムッとする。
「確かに、1回目はあの無愛想な妹が一緒にいたよね。あの子、あたしには超感じ悪かったのに、あの女と3人でカフェでお茶してるときは楽しそうだったじゃん。けど、その次に遊園地で見たとき、ハルヒサはあの女とふたりきりだったじゃない!」
「遊園地?」
奈未がカフェで見たと言うのは、海に行く前に朔のサンダルを買いに行って、偶然江麻先生に会ったときのことだろう。
確かに朔は、奈未がうちに遊びに来たときよりもずっとリラックスしてたけど、それは江麻先生と朔の付き合いの長さを考えたら当たり前だ。
その次の遊園地だって、朔と和央を連れて行ったんだから、ふたりきりだったなんてあり得ない。
「とぼけないで」
首を傾げていると、奈未が低い声でつぶやいた。
「遊園地でふたりで仲良くジェットコースターの列に並んでたじゃない。あたし、見たんだから!」
奈未に言われてはっとした。
そういえば、ジェットコースターだけは、江麻先生とふたりで乗った。それをタイミング悪く見られてたのか。
奈未もあの日遊園地に来ていたのなら、そのときに俺を直接問い詰めればよかったのに。
完全に冷静さを失っている奈未にどこから説明して宥めようかと考えていると、彼女が怒りに任せてさらに言葉を投げつけてきた。
「いつから浮気してたの? あの女とどこまでやってんの? あたしとの約束すっぽかした日も妹が熱出したなんて本当は嘘で、あの女と会ってたんでしょ?」
黙っていると、奈未が次々と責めたててくる。
勘違いさせてしまった俺の行動が悪いのだろうけど、奈未の憶測は全て事実無根で。
責められれば責められるほど、説明する気が失せてうんざりとしてきた。
「奈未、ちょっと落ち着けよ。俺、あの人と浮気なんてしてないから」
ため息混じりに言うと、それが余計に勘に障ったのか、奈未がキッと眉尻をつりあげた。
「だったら、どうしてさっきあの女とふたりきりで歩いてたのよ! 浮気じゃなかったら何?」
声を荒げた奈未は、とても興奮していた。
たぶん、今ここでどんなにうまい説明ができたとしても、彼女は俺の話を受け入れないだろう。
「奈未。ちょっと場所変えてゆっくり話そう」
奈未の肩に手を置いて、彼女の怒りを宥めるように穏やかな声でゆっくり話す。
それでも彼女は、俺の手を虫でも叩き落とすように思いきり振り払った。
「いやっ。誤魔化さないで」
取りつく島もない奈未の様子に困っていると、それまで黙っていた矢吹がにたりと笑った。
「なぁ、奈未。もういいだろ。浮気彼氏のハルヒサなんてほっといていこうぜ」
矢吹がニヤついた顔で俺を見ながら、奈未の肩を引き寄せる。
「ちょっと、やめてよ」
奈未が嫌そうに顔を顰めるのを見て、俺も矢吹に対して苛立ちを感じた。
こいつ、何考えてんだ。
俺と奈未の話はまだ終わっていないのに、無遠慮すぎる。
「お前、さっきから人の彼女に馴れ馴れしく触ってんじゃねーよ」
低い声で威嚇して、奈未の肩を抱く矢吹の胸を軽く突き飛ばす。
矢吹はちょっとよたつくと、へらへらと笑った。
「ハルヒサにそんなこと言われたくねーよ。俺も遊園地で見たんだからな。ハルヒサがあのふわふわした感じの可愛い彼女と浮気してるとこ」
「は?」
矢吹の言っている意味がよくわからなくて、眉を顰める。
だけど、俺が矢吹の言葉の意味を理解するよりも先に、奈未が顔色を変えて彼を睨んだ。
「ちょっと矢吹。余計なこと言わないで!」
「何だよ、奈未。お前、ハルヒサの前だとほんと俺に冷たいよな。『最近彼氏が素っ気なくて淋しいから慰めて』って、泣きついてきたのはお前のくせに」
矢吹がにたりと笑いながら、素肌が見えている奈未の肩を指先で舐めるようにすっと撫でた。
矢吹の言葉に、さっきまで怒りで赤かった奈未の顔が徐々に色を失っていく。
そんな奈未の顔を愉快げに眺めたあと、矢吹がニヤついた顔を俺のほうに向けて、チラリと出した舌先でわざとらしく下唇を舐めた。
それを見た俺の胸に、小さな疑惑の種が芽生える。
もしかしてこいつ……
無言で奈未と矢吹を見つめていると、それに気づいた奈未がはっとしたように矢吹の手を振り払った。
「ハルヒサ。あたし、場所変えてちゃんとハルヒサの話聞く」
一方的に俺の浮気を責めていた奈未が、突然手のひらを返して俺に譲歩してきた。
焦ったように矢吹から離れて俺に歩み寄ってこようとする奈未。そんな彼女の手首を、矢吹ががっしりとつかまえる。
「ちょっと、離して!」
「えー、何言ってんだよ。奈未」
腕をぶんぶんと振って拒絶する奈未を、矢吹が可笑しそうに見下ろす。
奈未の手首をつかんでいる強い力とは裏腹な、気の抜けたような矢吹の緩い声。それが全てを物語っているような気がした。
「ハルヒサ……」
困った奈未が、泣きそうな目をして俺を呼ぶ。
胸に芽生えた疑惑の種。それが俺の胸に根付いて、今にも葉を出しぐんぐんとその背を伸ばしそうだったけれど、俺は涙目で見上げてくる奈未のことをギリギリまで信じていたかった。
「奈未のこと離せ」
矢吹がつかむのとは反対側の奈未の手首をつかんで引っ張る。
俺の行動に奈未は嬉しそうに目を輝かせたけれど、矢吹はそれを嘲笑うように唇を歪めたままだった。
「やだ。今日のこいつの先約は、ハルヒサじゃなくて俺だもん」
「は?」
矢吹の言葉に、表情が歪む。
「矢吹、離して。あたしはハルヒサと話があるんだから」
奈未が俺の方に身を寄せて、矢吹を拒絶する。
矢吹はニヤけながら俺と奈未を交互に見つめたあと、小さな子どもみたいにわざとらしく唇を尖らせた。
「えー、奈未。今さらそれはないって。俺もうその気になってんのに」
「ちょっと!」
顔を青くして矢吹を牽制する奈未。
けれど矢吹は彼女の言葉を無視して、にたりと俺に笑いかけてきた。
「なぁ、奈未ってハルヒサとのときもやっぱ激しいの?」
今にも芽を出し、葉を伸ばしていきそうだった疑惑の種。
俺の胸に止めを刺したのは、無遠慮な矢吹のひと言だった。
「ちょっと、変なこと言わないで!」
すぐそばでヒステリックに叫ぶ奈未の声が、なぜか遠くから聞こえる喧騒みたいに思える。
「変なことじゃなくて、ほんとのことじゃん」
へらりと笑う矢吹を、奈未が鋭い目で睨みつける。
「いい加減なこと言わないで! ハルヒサ、こいつが言ってること全部信じなくていいから」
奈未が縋り付くような目で俺を見つめる。
でも、必死に訴えかけてくる奈未の声もどこか遠くて。奈未の手首をつかんでいた俺の手から、すとんと力が抜けた。
「ハル、ヒサ……?」
俺を呼ぶ奈未の声が不安そうに震える。
上目遣いに俺を見つめる奈未の瞳が揺れていた。
あぁ、そっか。だから奈未は夏休み中、俺に連絡をとって来なかったんだ。
淋しかったら簡単に慰めてくれる、そういう相手がいたから。奈未にとって、それは別に俺じゃなくてもよかったんだ。
「奈未。俺、帰るわ」
感情のこもらない目で奈未を見下ろし、唇の端をひきつったように引き上げる。
それだけつぶやいて立ち去ろうとすると、奈未が俺の腕に縋り付いてきた。
「待って、ハルヒサ。ふたりだけでちゃんと話そう」
俺を見上げる奈未の瞳が潤む。
だけど、俺の心が彼女の涙に揺さぶられることはなかった。
「ちゃんとって、何を?」
「だから、ちゃんとだよ」
俺を行かすまいと、腕に縋り付く手に力を込める奈未。
必死になる彼女を見下ろす俺の口元に、苦い笑みが浮かんだ。
「奈未の言うちゃんとした話っていうのが何かは知らねぇけど……さっき俺が一緒にいた人は、本当に妹がお世話になってた先生だよ。夏休みに妹と弟が海や遊園地に出かけたがって、成り行きで保護者として何度か付き添ってもらった。ふたりでいたのは、あのジェットコースターに並んでたときだけ。今日は、夏休みにいろいろ付き合ったお礼にメシ奢ってた。それ以上のことは何もない。嘘だと思うなら、彼女と妹に会って聞いてみてもいい」
本当は順を追ってちゃんと説明して奈未に事実をきちんと理解してもらいたかったけど、今はもうどうでもよかった。
一気に早口で説明した俺を、奈未が呆然と見上げる。
「散々人のこと責めたてといて、実際浮気してたのはそっちじゃねぇか」
嘲るように笑ってつぶやくと、奈未が俺の腕を抱きしめるようにぎゅっとつかんだ。
「ハルヒサ、あたしは会えなくて淋しくて……」
「確かに、奈未より妹優先してた俺も悪いよ。けど、淋しかったら、簡単に他の男にヤらせんだ?」
皮肉っぽく笑って訊ねると、俺の腕を抱きしめていた奈未の力が抜けた。
「ハルヒサ、あたしは────」
「言い訳とか別に聞きたくない。俺はもう帰るから、そいつにでも慰めてもらえよ」
奈未に冷たい言葉を投げつけると、顎でしゃくるようにして矢吹を指す。
「ハルヒサ……」
潤んだ奈未の瞳から涙が零れる。彼女の涙を無表情で見つめる俺の視界の端で、矢吹が愉しそうに俺たちを見ていた。
矢吹に一瞥を投げてから、奈未に背を向ける。
その瞬間、背後で奈未が嗚咽を漏らしながら泣き崩れるのがわかった。
「ハルヒサ!」
奈未が泣きながら俺の名前を呼ぶ。
けれど俺は、一度も後ろを振り返らなかった。
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