僕の月、君の太陽

月ヶ瀬 杏

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「晴れてよかったですね」

 海へと向かうバスの中。朔と一緒にひとつ前のふたりがけの座席に座っている江麻先生が、俺を振り返った。
 ふわりとした柔らかな笑顔を、窓から差し込む夏の太陽が照らす。

「江麻先生、海」

 だけど彼女が振り返ったのは、ほんの一瞬。隣に座る朔に腕を引っ張られて、すぐに窓に顔を向けてしまう。

 夏休みのとある一日。俺は和央と朔のふたりを連れて、海へと向かっていた。
 そこに江麻先生が加わることになったのは、予定外だ。
 けれど、窓の外を見つめて控えめにではあるが確実に普段よりもはしゃいでいる朔と、バスの中で立ち上がってはうろちょろしようとする和央のふたりを俺ひとりで世話するのは思ったよりも大変で。
 江麻先生が保護者として一緒に付き合ってくれてよかったと心底思った。

 江麻先生が同行してくれるきっかけを作ったのは、ちょうど一週間前。浜辺で履けるサンダルを買うために街に出たときのことだ。

 自分の手持ちのサンダルがないことに気付いて、念のために朔にも確認してみたら、案の定、朔もサンダルを持っていなかった。
 俺が聞かなかったら、朔はきっと当日までサンダルがないことを黙っていて、クソ暑いのに手持ちのスニーカーとかで出かけるつもりだったんだと思う。
「ついでにお前のも買ってやる」と言ったら、朔は必要ないと俺の厚意を頑なに拒否した。
 ガキのくせに変なところで気を遣う朔の態度がムカついて、俺はほとんど無理やり朔を買い物に引っ張り出した。

 自分のサンダルを手に入れたあと、恥ずかしいのを我慢して朔と共に女物の靴を売っている店に入る。
 でも婦人靴の専門店には子ども用のサンダルはほとんど置いていなくて、困っていたところへ買い物に来ていたらしい江麻先生に声をかけられた。

「海行くんだ? 朔ちゃん、いいね」

 サンダルを買いにきた事情を話すと、江麻先生がにこりと笑った。

「よかったら、サンダル探し手伝いますよ。女の子のアイテムを探すなら、お役にたてるかも」

 江麻先生はにこにこと笑いながらそう言うと、朔の手を引いて子ども用のサンダルが置いてある店を教えてくれた。

 サンダルを買ったあとは、買い物に付き合ってもらったお礼をするために江麻先生をお茶に誘った。
 カフェのテラスで冷たいコーヒーを飲みながら、少しだけ世間話をする。

「どこの海に行く予定なんですか?」

 江麻先生に聞かれて、俺は家からバスに乗って一時間ほどの場所にある海水浴場の名前を告げた。

「あそこ、海の水も結構綺麗ですよね。子どもの頃は浜辺でよく遊んだけど、最近全く海に行かないな。今度ひさしぶりに行ってみようかな」

 そう言って笑うと、江麻先生はコーヒーをひとくち飲んだ。

「だったら、一緒に行きますか?」

 たぶん江麻先生は、そこまで本気で海に行きたかったわけではないと思う。
 そんなことはきちんと頭で理解していたつもりだったのに、気づくと俺は彼女に誘いかけていた。

「え?」

 コーヒーを飲んでいた江麻先生が驚いたように顔をあげる。
 俺と彼女の間でオレンジジュースを飲んでいた朔も驚いたようで、何度も目を瞬いていた。

 俺、変なこと言ったな……

 江麻先生と朔の反応を見て、ちょっと軽率だったと思った。
 何も考えずに江麻先生も一緒に……、なんて言ってしまったけど、彼女にしてみれば嘗ての生徒とその家族と海に行くなんて微妙すぎるし、誘われたって困るに決まっている。

「すいません。つい……なんか江麻先生、誘いやすいから」
「そう、ですか?」

 慌てて言い訳をしたけど、咄嗟に口から出たそれもあまり適当ではなかった。

 誘いやすい、なんて。まるで、ナンパでもしてるみたいだ。

 江麻先生がちらりと朔に視線を向けながら、困ったように笑う。その笑顔を見て、彼女に変な誤解をされていたら困ると思った。

「あ、別に変な意味じゃないんです。人として声かけやすいっていうか……雰囲気が優しいし、頼りがいがあるのかも。こないだ朔が熱出したときも無意識に助けを求めてしまったし」

 焦っているせいで、やたらと口数が多くなる。そんな俺を、朔と江麻先生がふたりしてじっと見つめていた。

「それに俺、一応彼女いますし」

 変な意味で江麻先生を誘ったわけじゃない。そのことを何とかして伝えたくて、俺は夏休みに入る前から連絡すらとっていない奈未の存在を仄めかした。

 俺の言葉に、朔が微妙そうにぴくりと眉を動かす。その隣でぱちりとひとつ瞬きした江麻先生が、にこりと笑った。

「普通にいそうですよね、彼女」

 江麻先生が俺の顔をじっと見つめる。その邪気のない瞳に、戸惑った。
 言葉に詰まってテーブルに視線を落とすと、江麻先生が口を開く。

「もしお邪魔じゃなかったら、一緒に行かせてもらってもいいですか?」
「え?」

 江麻先生が何の話をしているのか、一瞬よくわからなかった。顔をあげてぽかんとしていると、彼女が困ったように笑う。

「だから、海です」
「海?」

 聞き返すと、江麻先生が首を横に傾けて小さく肩を竦めた。

「名目は保護者で。もしお邪魔じゃなかったら、一緒に行かせてください」

 そこまで言われて、俺はようやく江麻先生が俺の誘いを受けてくれていることに気がついた。

「ほんとにいいんですか?」
「え? 冗談だったんですか?」

 目を丸くしながら確認すると、江麻先生が戸惑ったように問い返してくる。

「いえ、冗談ではなかったんですけど……」
「よかった。ひとりで勘違いしてたら恥ずかしいとこでした」

 はにかむように笑った江麻先生が、朔にちらりと視線を向けた。

「小さい子がふたりいるなら、少しはお役にたてると思います。お兄さんひとりじゃ、大変でしょ?」

 江麻先生が、朔から俺に視線を戻して小首をかしげる。

「そうですね。一緒に来ていただけたら助かります」

 俺たちの話がまとまると、それまで黙って話を聞いていた朔が嬉しそうに笑った。

「江麻先生も一緒に海行けるなんて、楽しみ」
「私も朔ちゃんと海に行くの、楽しみ」

 朔と江麻先生が、顔を見合わせて笑う。そんなふたりの横顔を見て、俺の心はなぜだかじわっと熱くなった。

 そんなできごとがあって、今俺の前には朔と並んでバスの座席に座る江麻先生がいる。

 海を前に珍しくはしゃぐ朔を見守る江麻先生の横顔を見つめていると、隣にいた和央が座席に足をあげて膝立ちになった。
 それから俺の耳に口を近づけて、小さな指で江麻先生を指しながらこそこそと囁いてくる。

「ねぇ、エマせんせーってさ、にーちゃんのカノジョ?」
「は?」

 和央の言葉に、俺はつい大きな声を出して座席から立ち上がってしまった。

 ちょっと見てただけで、どうしてそうなる……!?

 最近のガキはませてるってよく聞くけど、まさか自分の弟にそんなことを言われると思わなかった。
 突然立ち上がった俺を、和央がびっくりしたように見上げる。
 前に座っていた朔と江麻先生も、俺が立ち上がったことに気付いて、何事かというように振り返ってきた。

 和央、朔、それから江麻先生。不思議そうな顔をした3人から一斉に見つめられて、急に恥ずかしさがこみ上げてくる。

「お客様、危険ですので走行中は立ち上がらないようお願い致します」

 さらにその上、俺が立ち上がっていることに気づいた運転手が車内にアナウンスを流す。それを聞いた乗客たちが、ちらちらと俺を振り返る。
 俺はさらに恥ずかしくなって、顔を火照らせながら静かに座席に腰をおろした。

「そんなわけねーだろ」
「何が?」

 低い声で小さくぼやくと、和央が俺を見上げて小さく首をかしげた。

「だから……」

 江麻先生がカノジョなのか、とか聞いてくるから。その返事だろうが。
 自分が訊ねてきたくせに、そのことをもう忘れている和央に向かって舌打ちしたくなる。
 だけど無邪気に俺を見上げる和央に、今さらぐだぐだと説明するのも面倒だった。
 恥ずかしい思いをした俺がバカみたいだ。
 俺は和央からふいと視線を逸らすと、海に着くまで何も言わないと決めて、口を閉ざした。


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