僕の月、君の太陽

月ヶ瀬 杏

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 夏休みに入ってから一週間。溶けそうなほどの暑さが連日続いていた。

「あちぃ」

 電気代節約のためになるべく窓を開けてやり過ごしていたが、耐えきれない暑さに、窓を閉めてエアコンの電源をいれる。設定温度をどれだけ下げても、部屋に立ち込めるむっとした熱気はなかなか冷めない。

「あちぃ」

 夕方からは学習塾の講師バイトがあるけど、クソ暑い日中はほとんどすることがない。

 夏休みに入ったら奈未とデートする約束をしていたけれど、約束をすっぽかして以来、彼女からの連絡はない。
 一度だけ俺から連絡をとってみたけど、音信不通。それから面倒になって、俺からも連絡をたっている。
 彼女との夏休みの予定が全て無くなったこともあって、俺は連日暇だった。

 エアコンを入れても、部屋の温度はなかなか下がらない。
 「あちぃ」ともう一度ぼやいて、ローテーブルの前に座っている朔をちらりと見る。
 子どものほうが代謝がよくて体温だって高いはずなのに、朔は汗ひとつかかず、涼しい顔で本を読んでいた。
 今日の分の算数の宿題を終えた朔は、読書感想文用の本に取り掛かっているのだ。
 誰も宿題をやれとどやしたりしていないのに、朔は朝起きて朝食を食べると、テーブルに向かって真面目にこつこつ宿題をする。

 小学生のとき、俺はこんなに真面目に勉強していなかったと思う。
 朔の真面目さは誰に似たのか……親父じゃないことだけは確実だ。

「それ、そんなおもしれーの?」

 さっきから片時も本から目を離さない朔に向かって、気だるい声で訊ねる。
 本のページを捲る手を止めた朔は、俺を見上げて無言で頷いた。それからすぐにまた、本へと視線を戻す。

「ふーん」

 俺はそんな朔を横目に見遣ると、ごろりとベッドに寝転がった。
 そうするとベッドの上に設置されたエアコンから吹く風がうまい具合に顔にあたり、ほんの少しだけ暑さが和らいだ。
 寝そべる俺の上で、エアコンの蓋がゆっくりと上下する。
 単調なその動きを見ていると、だんだん眠たくなってきた。

 夕方の学習塾のバイトまではまだまだ時間がたっぷりある。
 襲ってくる眠気にうつらうつらとしかけていると、いきなり耳元でスマホが鳴った。
 その音が予想以上に大きくて、寝落ちしかけていた目が醒める。

「誰だよ……」

 心地よい眠りへの誘いを邪魔されて、不機嫌な顔でスマホをつかむ。
 画面を見ると、「自宅」からの着信だった。
 スマホに登録してある自宅の番号。それにかけることも、そこからかかってくることも珍しい。

 親父や母親が俺に用事があるときは、大抵彼らの個人携帯からかかってくる。
 俺から連絡するときも、自宅ではなくそれぞれの個人携帯の番号にかける。
 だから、自宅の番号は登録してあるだけでほとんど使わない。それなのに、今日に限ってどうしたのだろう。

 訝しんでいると、スマホを持ったままなかなか電話を受けない俺を不審に思ったのか、朔が本から視線をあげた。
 朔に不審げな目で見られて、俺は自宅からの電話をとった。

「もしも────……」
「にーちゃん?」

 スマホを耳にあてた瞬間、電話口から舌足らずな高い声が響いてくる。

「カズ?」
「にーちゃん!」

 嬉しそうに俺を呼ぶのは、弟の和央だった。

「どうした? 急に」
「にーちゃん。どっかいきたい!」

 スマホを持ち直して耳にあてると、和央が甘えたような声を出した。

「は? 何だよ、いきなり。どっかってどこだよ」
「うーん。どっか! おとうさんが、にーちゃんにどっかつれてってもらえば、って」

仕事の都合で休みの日程が合わない実家の両親は、和央の保育園が夏休みに入っても、どこにも連れて行ってやれない。

ガッカリしている和央に、どうやら親父が余計な入れ知恵をしたらしかった。

『兄ちゃんならどっか連れて行ってくれるかもしれないぞ』

 親父がそう言ったから、和央は俺に電話かけたのだと言う。
 クソ親父……あの人は本当に、俺にロクなことしか押し付けてこない。

「兄ちゃん、忙しいんだよ」

 適当な理由をつけて断ろうとすると、和央がごねだした。

「どっかいきたい! どっかー!!」

電話口の向こうからものすごい叫び声が聞こえて、耳が痛くなる。

「カズ、うるさい」
「陽くん?」

 耳を抑えながら大声で言い返したとき、聞こえてくり和央の声が義理の母親の声に変わった。

「陽くん、ごめんなさいね。もしよかったら1日だけでも和央に付き合ってもらえない? 出かける場所は、近所の公園でもどこでもいいから」

 母親が申し訳なさそうに俺に頼んでくる。
 その声から、電話口の向こうで少し困った顔で頭をさげる彼女の姿が予想できてしまい、俺はスマホを握ったまま口を噤んだ。
 俺は昔から、母親の頼まれごとを断るのは苦手だ。

「陽くん」

 名前を呼ばれて息をつく。

「わかった。カズに替わって」
「ありがとう」
「にーちゃん!」

 母親が安堵の息を漏らした次の瞬間には、和央の声が聞こえてきていた。

「にーちゃん、オレ、うみがいい!」
「は? 海!?」

 本から顔を上げた朔が、俺の顔をちらりと見る。
 どうやら朔は、海、という言葉に少しだけ興味を惹かれたらしい。
 それまで俺の電話での会話には無関心だったのに、こちらをちらちらと見てくる朔は、あまり本に集中できていない様子だった。
 朔も海に行きたいんだろうか。

「にーちゃん、うみ!」

 耳元で和央が「うーみ、うーみ」と連呼する。それがあまりにうるさいのと、朔の反応が気になるのとで。俺は最終的に、和央を連れて海に行く約束をさせられてしまった。
 電話を切って顔をあげると、朔が読んでいた本の向こうからじっと俺を見てきた。

「何?」

 首を傾げて訊ねると、朔が急いで首を横に振って本へと視線を戻す。
 けれど懸命に本を睨んでいる朔は、ずっと同じページを開いていて、なかなか次のページを繰ろうとしない。

「朔」

 普通に呼びかけたのに、朔が本を握りしめたまま、驚いた様子で肩を揺らす。
 俺を見上げる朔の瞳が、少しだけ動揺をみせていた。

「お前も行きたいの?」

 俺の問いかけに答える代わりに、朔が大きく目を見開く。

「海だよ。お前も一緒に行く?」

 朔がゆっくりと一度瞬きをする。

「いいの?」
「いいよ。ガキひとり連れて行くのも、ふたり連れて行くのも一緒だし」

 苦笑いを浮かべた俺を、朔が大きな黒い瞳でじっと見つめる。その瞳は、俺を映してきらきらと輝いていた。

「海、行く」

 小さいけれど、はっきりとした朔の声が狭いマンションの一室に響く。

「そっか。じゃぁ、お前も連れてってやるよ」
「うん」

 朔が俺を見上げて、嬉しそうにはにかむ。その顔を見ていると、なんだかむず痒くなってくる。
 朔から視線をそらした俺は、首筋の横を指でそっと撫でた。

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