僕の月、君の太陽

6-2

「────ちゃん」

　ぐらぐらと身体が揺れる。

「お兄ちゃん」

　誰かの声が耳に届く。
　呼ばれているみたいだけど、耳に届く声はどこか遠くて。その声が本当に俺を呼んでいるのか、それとも夢なのかよくわからない。

「お兄ちゃん！」
　
　一際大きく身体が揺れ、耳元で鼓膜が破れるかと思うくらい大きな声がする。
　驚いて目を開けると、黒目がちの大きな瞳が上からじっと俺の顔を覗き込んでいた。

「お兄ちゃん」
「朔……？」

　寝ぼけた声で名前を呼ぶと、朔が俺に向かってぐいっと何かを突き出してくる。

「さっきからずっと鳴ってる」

　それは俺のスマホで、画面には奈未の名前が表示されていた。
　ぼんやりとした寝起きの頭で、とりあえず朔からスマホを受け取る。それをしばらくぼんやりと眺めていた俺は、大事なことを思い出してばっと飛び起きた。

「朔、熱」

　勢いよく飛び上がった俺に、朔がビクッと身体を揺らして後ずさる。
　朔に近づいてその額に触れると、彼女が少し顔を赤くした。

「もう、平気」

　小さな声でそう言った朔が、俺のスマホに視線を向ける。

「それより……さっきからずっと鳴ってるよ？」

　朔に言われて確かめてみると、数十分前からひっきりなしに、奈未から電話がかかってきていた。

　こんなに何度も電話してくるなんて、何の用事だろう。
　しばらく考えて、今日の午後から奈未と会う約束をしていたことを思い出した。
　時刻をよく見ると、もうとっくに正午を回っていて。奈未との待ち合わせ時間も、大幅に過ぎている。
　今まで一度だって、奈未との約束を忘れたことも、すっぽかしたこともない。それなのに、昨夜の朔の発熱で、奈未と約束をしたこと自体をすっかり忘れていた。

　めっちゃ怒ってるだろうな。
　待ち合わせ場所に来ない俺に怖い顔で電話をかけ続ける奈未の姿を想像して、苦笑いする。

「出ないの？　前にここへ遊びにきたお姉さんでしょ？」

　画面に表示されては消える奈未の名前を見つめながら、怒っているであろう彼女にどう話をしようか悩んでいると、朔が横からスマホを覗きこんできた。
　出ないとな。出ないといけないんだけど、なんか……
　まんまるい目でスマホを見つめる朔の横顔を数秒眺めてから、俺は奈未からの着信を受け続けるスマホの電源を切った。

「お兄ちゃん？」

　電源の落ちたスマホをぽいっと適当に放り投げると、朔が、不審な目で俺の顔をじっと見てきた。

「何？　なんか文句あるか？」

　つっかかるようにそう言うと、朔が慌てた様子で首を横に振った。

「そんなことより、風邪はもうほんとに平気なのかよ」
「うん、もうほんとに平気だよ」

　不機嫌な顔で訊ねると、朔が小首を傾げてはにかむ。その表情に、ほっとした。

「腹へってるか？　なんか作ってやるよ」

　朔の顔を見ずに立ち上がり、小さな声で「たいしたもんじゃねーけど」と付け足す。
　キッチンに向かう俺の後ろを、朔はペタペタと小さな足音を鳴らしながらついてきた。

　冷蔵庫にある材料を使って俺が作ったのは、野菜多めのラーメンだった。それを食べたあとは、お互いに特に干渉し合うこともなく、朔とふたりでだらだらと過ごす。

　朔は学校の図書館で借りてきたという本を熱心に読んでいて、俺はベッドに転がりながらぼんやりとテレビを見ていた。
　奈未との約束は、結局そのまますっぽかした。
　夕方になってからスマホの電源を入れ直したら、夕飯前に着信があった。
　奈未からかと思って恐々スマホを見たら、江麻先生からだった。

「こんにちは。朔ちゃんの具合はどうですか？」

　迷わず通話ボタンを押したら、電話口から彼女の優しい声が聞こえてきて、意味もなくほっとする。

「熱もさがって、元気です」
「よかったです。安心しました」

　朔の状況を伝えると、江麻先生が電話口の向こうで安堵の息をつくのがわかった。
　心配してわざわざ電話をかけてきてくれたのだと思うと、それだけで俺の心がぽわんとした暖かさで満たされる。

　江麻先生からの電話を切ったあと、奈未の名前で埋め尽くされた着信履歴を見て、彼女のほうもどうにかしなければ、と今さらながら思った。

約束をすっぽかしたことをちゃんと謝らないと。頭のなかで言い訳を考えながら、奈未に電話をかける。
　だけど何度掛け直してみても、コール音が鳴るだけだった。
　俺からの電話にも出たくないくらい怒っているってことか。

　奈未と付き合い出してから、これまでにも些細なことで何度か喧嘩をした。そういうときは、俺が謝ろうと思っても決まって電話が繋がらない。
　今回のように約束をすっぽかして、連絡すらしなかったのは初めてだけど。

　スマホに表示された奈未の携帯番号を見て、息を吐く。
　電話に出てくれないならメッセージで謝罪しようかと思ったけれど、約束をすっぽかすことになった経緯を文章にしてみると、なんだかひどく言い訳がましくなった。
　約束を忘れてすっぽかしたのは俺で、もちろん全面的に俺が悪い。
　だけど、昼前に目覚めて奈未からの異常なまでの着信履歴の数を見た瞬間、なんか面倒だ、と。彼女のことをそんなふうに思ってしまった。

　しばらく悩んだ末に「今日はごめん」とだけ、奈未にメッセージする。それに対する彼女のからの返信はなかった。
　でもそれは彼女にはよくあることだったから、俺はあまり深く気にしなかった。
　時間が過ぎればなんとかなるだろうと、そんなふうに単純に考えて放置してしまったのだ。

　そうして奈未と話すことも連絡を取り合うこともないままに、大学の前期が終わって夏休みが始まった。