僕の月、君の太陽

月ヶ瀬 杏

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 暗くなるまで奈未とふたりで部屋で過ごしたあと、俺は彼女を駅まで送っていった。
 河原沿いの道を歩いて、駅の改札で手を振って別れる。
 同じ道を通って家に戻ると、部屋の中は家を出たときと同じで真っ暗だった。

 そういえば、チビがまだ帰ってきてない。
 時計を見ると、夜の9時前だった。

 ガキのくせに、こんな時間までどこをほっつき歩いてんだ。

 自分で追い払って忘れていたくせに、遅くまで帰って来ないとなると、それはそれで腹が立つ。
 
 稀にみるほど愛想が悪くて警戒心の強いチビだから、まさか誰か知らないやつに自分からついていくってことはないだろうし。
 逆に、あんなにかわいくないガキをさらっていく物好きもいなさそうだ。
 
 もう少し待ったら帰ってくるだろう。
 
 呑気に構えていたけれど、9時半を過ぎても帰ってくる気配がない。

 時計を見て舌打ちしながらも、10時近くになっても帰ってこないとなるとさすがに気になってくる。
 
 その辺を探しに行ってみるか。

 そう思って立ち上がったとき、スマホが鳴った。

「もしもし、陽央か?」

 電話をかけてきたのは、親父だった。

「何?」

 出かけようと立ち上がったところを邪魔されて、対応が少し不機嫌なる。

「朔はどうした?」

 電話口の向こう。親父の声音がいつになく厳しかった。

「あぁ……」

 いないけど、今から探しに行く……

 正直に答えるのはさすがにまずい気がして、口ごもる。

「いないんだろう、そこに」

 口ごもった俺を追及するように、親父が厳しい声でそう言った。

「いや、今ちょっと風呂に────」
「言い訳はいい」

 親父が俺の言葉を遮る。

「今、朔が前まで通っていた学童保育から電話があった。暗くなり始めているのに、前住んでいた家の近くのバス停の周りをうろうろしてたらしい」
「前の家の近く?」
「俺もこれから向かうつもりだが、会社からだと少し時間がかかりそうなんだ。陽央の家からの方が近いから、先に行ってやってくれないか?」

 親父は朔が前に住んでいた家の最寄り駅と、学童保育の住所を俺に伝えて電話を切った。
 親父から教えられたその駅と俺が住んでいるマンションの最寄り駅との距離は、わずかに3駅分。意外と近くに住んでいたらしい。

 それにしても。どうして、前の家の近くまで行ったりしたんだ。

 チビがいなくなったのには、追い払って放っておいた俺にも少しくらいは責任がある。
 俺はスマホで地図を調べながら、チビが待っているという学童保育へ向かった。
 その場所は、チビが以前通っていた小学校に併設されているそうだ。

 チビが以前住んでいた駅は俺のマンションの最寄り駅から3駅分だったが、そこから学童保育までの道のりが遠かった。
 途中に俺の家の近くの川に続いていくと思われる細い川があり、その川と直角の方向に15分ほど進むと、目的となる小学校が見えてくる。
 駅からそこまで、大人の足でも20分以上かかった。
 7歳のチビがひとりでここまでやってきたのだとしたら……結構な長旅だったはずだ。
小学校の校門から中に入ると、校舎と併設するように、1階立ての小さなプレハブ小屋があった。
 その小さな窓からは、黄色い明かりが漏れている。

「すみません」

 外からドアをノックすると、中から人が近づいてくる気配があった。

「はい」

 出てきたのは、若い女の人だった。
 見た感じ、年齢は俺とさほど変わらないように思える。
 緩くパーマをかけたショートボブの髪とあまり高くはない身長、それから二重の大きな目が彼女を年齢より幼く見せているのかもしれない。

「えっと……」

 俺が何も言わずにじっと立っていると、彼女が少し困ったように笑った。

「あ。俺、村尾です。えっと、チビ……じゃなくて、朔の────」

 どう名乗ればいいのかわからない。
 だけど、「兄だ」と言うのだけは、ものすごく抵抗があった。

「あぁ、朔ちゃんのお兄さん」
「いや。兄って言うか……俺はただ、父親の代理で……」

「お兄さん」と呼ばれたことに、ひどい違和感がある。
 けれど、彼女は俺の言葉を受け流すようににっこりと笑った。

「はじめまして。私、ここの指導員をしている、本谷もとや 江麻えまです。今、朔ちゃん呼びますね。よかったら、中に入っててください」

 指導員って、ここの先生ってことか……?

 彼女は俺をプレハブ小屋の中へと促すと、奥へと戻っていった。

「朔ちゃん。お兄さん」

 プレハブ小屋の中は、外からの見た目以上に広かった。
 玄関と靴箱があって、その向こうに絨毯の敷かれた部屋がある。
 絨毯の部屋には大きな棚がいくつもあって、そこにはボードゲームとかぬいぐるみとか、児童書とかマンガとか。小学生の子どもが喜びそうなものがたくさん並べてあった。
 絨毯の部屋の奥は少しすぼまっていて、小さな簡易の台所まである。

 チビは誰もいない絨毯の部屋で、うつ伏せに寝転がって本を広げていた。
 とてもくつろいでいる様子だったが、プレハブの入り口に立っている俺の姿を見つけると、はっとしたように起き上がって姿勢を正す。
 本谷 江麻は入り口で待っている俺の顔をちらっと振り返ると、チビのほうに歩み寄っていった。

「朔ちゃん、そのお話好きだよね。ここに通ってるとき、いつも読んでた。貸してあげようか?」
「いいの? 江麻先生」

 本谷 江麻がしゃがんで優しい声で話しかけると、彼女を見上げたチビの目がきらっと輝く。
 そのときのチビの顔は、俺が今まで見たなかで一番子どもらしかった。

「いいよ。1週間だけ貸してあげる。1週間たったら、先生が朔ちゃんのところにその本を返してもらいに行くね」

 チビは読んでいた本をぎゅっと腕の中に抱きしめると、嬉しそうな顔で江麻先生を見上げて何度も頷いた。

「すいません。すっかり遅くなってしまいました」

 チビと江麻先生のやり取りを入り口で見つめていると、外から落ち着きのない声がした。
 振り返ると、親父が暑そうにネクタイを緩めながらプレハブ小屋に入ってくるところだった。

「あ。村尾さん、こんばんは」

 親父に気付いた江麻先生が、チビの傍を離れて入り口に戻ってくる。

「この度はご迷惑をお掛けしてすみません」

 親父は申し訳なさそうな声で、江麻先生に深々と頭を下げた。

「いえ。本当に、見つけたのはただの偶然だったんです。朔ちゃん、前の家の近くのバス停で、お母さんの病院に行くバスを待っていたみたいで……」

 江麻先生が声を落としてそう言いながら、そっと朔を振り返る。

「そうですか……」

 江麻先生につられるように、親父も声を落として朔のほうに視線を向けた。

「あ、おじさん!」

 親父に気付いた朔が、嬉しそうにはにかみながら駆け寄ってくる。
 その反応は、俺の顔を見たときとは明らかに違っていて。妙に嫌な気持ちになった。

 だけど、父親のことを「おじさん」って……

 そう思ったけど、親父本人は朔のその呼び方をさほど気にしてはいないらしい。
 口元を綻ばせながら、駆け寄ってきた朔のことを両腕で受け止める。そのあと、やけに神妙な顔付きで江麻先生を見上げた。

「先生。あの……少しだけ、お話いいですか?」
「はい」

 親父の申し出に、江麻先生が頷く。

「陽央。俺は少し先生と話があるから、朔と一緒に先に帰っておいてくれ」

 親父は朔を離すと、その背中を俺のほうに押しやった。
 無遠慮に俺を見上げてくるチビを、俺も無遠慮に見下ろし返す。空中で目が合った俺達は、お互いに気まずそうに眉を寄せた。

「陽央」

 面倒くさい。
 それが本音だったけど、親父に促されて仕方なく頷く。

「わかったよ。帰るぞ」

 俺が声をかけると、チビも諦めたように無言で頷いた。

「じゃぁ、またね。朔ちゃん」
「バイバイ、江麻先生」

 学童保育を去るとき、江麻先生を振り返ったチビが、きちんとさよならの挨拶をする。

 俺の言葉はいつだって無視するくせに、一応ちゃんと挨拶とかできるんじゃねぇか。

 江麻先生にはしっかりと手を振って笑顔で挨拶するチビを、少し憎たらしく思った。
「お兄さんも、気をつけて」

 チビに手を振ったあと、江麻先生が俺に軽く会釈した。
 緩いパーマのかかった髪が、プレハブの室内から漏れる黄色い光に照らされてふわりと揺れる。
 俺は江麻先生に軽く会釈を返すと、チビの手を無理やりに引っ張った。

 なんとなく、江麻先生の前ではちゃんとしてるところを見せたほうがいいような気がしたからだ。

 急に手を引っ張られたチビが、大きな目を真ん丸くして驚いたように俺を見上げる。
 だけど、俺の手を振り払ったりはしてこなかった。

 しばらくチビの手を引いて歩いていた俺は、学童保育のある小学校の敷地内を抜けたところでその手をパッと離した。
 急に手を引っ張っておいて、今度はスパッと離すから、俺を見上げるチビの顔が完全に戸惑っている。

「さっさと帰るぞ」

 俺はしばらくチビを見下ろしたあと、素っ気無い声でそう言った。
 俺から視線を外したチビが、手に持っていた本を抱えなおしながら小さく頷く。
 そのときに、チビの腕の隙間からその本のタイトルと表紙の挿絵がちらっと見えた。

「それ……」

 チビが持っていたのは、俺もよく知っている児童書だった。

 主人公はひとりの少年。猛獣達が住む島に囚われている竜の子どもの話を聞いた彼が、たった一人でその島に乗り込んで、竜の子どもを助けに行く冒険物語。

 知っていたというか、俺はその本の内容を細部までしっかりと覚えていた。

 その本はシリーズで3巻あって、3冊とも実家の俺の部屋の本棚の奥の方に大切にしまってある。

 本なんてほとんど読まない子どもだった俺が唯一好きだった話で、8歳のときに出て行った実の母親が幼い頃に何度も読み聞かせてくれたし、字が読めるようになってからは自分でも何度も読んだ。

 俺がチビの手に抱えられている本をぼんやりと見つめていると、彼女がちょっと首を傾げながら黙ってそれを俺に差し出してきた。
 チビが無言で差し出してきた本を受け取って、表紙のタイトルを指先でゆっくりとなぞる。
 学童保育でたくさんの子ども達に読まれてきたらしいその本は、手垢で汚れて変色していた。

「その話、知ってるの?」 

 俺の行動を見ていたチビが、細い小さな声で訊ねてくる。

「あぁ。俺も小さい頃、この本好きだった」

 ぼそりと答えると、チビの頬が突然ぱっと上気した。

「ほんと? 朔もこの本好きなの!」

 俺を見上げるチビの目がきらっと輝く。チビが俺に生き生きとした表情を見せるのはそれが初めてで、思わずドキッとした。

「へぇ」

 引き攣った笑みを浮かべながら本を返すと、チビが今まで見たこともないほど嬉しそうに笑いながらそれを受け取る。

「朔が小さい頃、ママがよくこの本を図書館で借りて読んでくれたんだよ」
「へぇ」

 ママ、か。
 ふと、8歳のときにうちを出て行った実の母親のことを思い浮かべる。

 物語を読む優しい声と、俺の頭を撫でる柔らかな手の感触。俺に物語を読みながら、落ちてくる長い髪を時折耳にかけなおす指先の仕草。
 背はあまり高くない、痩せ身の女だった。
 部分部分に母親の記憶は残っているのに、最近ではその顔がぼんやりとしてきていて、あまりよく思い出せない。

 チビが今手にしている本は、もともとは俺の母親が好きな物語だった。

『さぁ。それで、彼はどうすると思う?』

 物語の主人公が困難に直面しそうになるところで、母は必ず一旦本を閉じる。
 何度も読んで、ストーリーがどう進むかなんてわかっているのに、それでも声を弾ませて訊ねてくる彼女に俺はいろんな答えを考えて返した。
 今は病気で入院しているチビの母親も、同じようにあの物語が好きだったのだろうか。

「ねぇ、どこが一番好き? 朔はね……」

 朔が楽しそうな声で話しながら、俺の前で本を開く。
 そのとき、本のページの間から何かがはらりと滑って落ちた。
「あ……」

 楽しそうな表情を浮かべていたチビが、地面に落ちたものを見て悲しそうな顔をする。
 暗い夜道で何が落ちたのかよくわからなかった俺は、黙ってしゃがむと、地面に落ちた何かに目を凝らした。
 
 そこに落ちていたものは、シロツメクサの花と三つ葉のクローバー。押し花にでもしようと思ったのか、中途半端な感じで潰されている。

「お前の?」

 シロツメクサの花とクローバーを拾い上げて、チビに差し出す。
 けれど、押しつぶされて茎が弱くなっていたのか、花もクローバーもチビの目の前でコクンと項垂れるように頭を下げた。

「ママにあげようと思ったの。ママ、この白いお花が好きだから」

 チビは俺が差し出した花とクローバーを受け取る代わりに、俯いてぼそりと呟いた。

 そういえばこいつは、以前住んでいた家のバス停の近くで彷徨いていたところを江麻先生に発見されたんだっけ……

 もしかしてこれを母親の入院している病院に届けようとでも思ったのか。

「これ、母親に?」

 しおれてしまったシロツメクサとクローバーを見つめて訊ねると、チビがコクンと小さく頷いた。

「病院の場所、知ってんの?」

 チビが弱々しく首を横に振る。

「じゃぁ、行けるわけねぇだろ」
「でも、行き方はずっと前におじさんに聞いたの。バス停から5番のバスに乗るって。朔、ずっと待ってたんだけど、運転手さんが5番のバスは来ないよって……朔、聞き間違えたのかな?」

 チビが縋るような目で俺を見上げる。

「わかんねぇよ」

 素っ気ない声で答えて視線を逸らすと、チビが失望したように視線を下げた。
 伏し目がちに俺の手からしおれたシロツメクサの花とクローバーを受け取ったチビが、それを本の間に挟み直す。
 
 本を抱えて黙って歩き出したチビが向かっているのは、ちゃんと駅の方角だった。
 しばらく遠ざかるチビの小さな背中を見つめていた俺も、急ぎ足であとを追う。

 本の話をしたときは嬉しそうに目を輝かせていたチビは、もう一言も言葉を発しなかった。
 駅についても、電車に乗っても、俺の部屋についても。
 家に着くと、チビはすぐに自分で布団を広げ、俺に背中を向けて潜り込んでしまった。

 部屋のローテーブルの上、学童保育から借りてきた本がそのまま置きっぱなしになっている。
 俺は古びたその本を手に取ると、パラパラとページを捲った。
 真ん中を過ぎたページから、乱雑に挟まれたシロツメクサの花とクローバーが出てくる。
 それはさっき見たときよりもしおれ、変色してしまっていた。

 そういえば、俺の実の母親も素朴なこの花が好きだった。
 俺はシロツメクサの花とクローバーを挟んだまま本を閉じた。
 
 こちらに背を向けているチビは、眠っているのか、眠っているフリをしているだけなのか。
 すっぽりとかぶった掛け布団の端から、小さな頭のてっぺんだけを覗かせている。

「そりゃ、淋しいよな……」

 チビの小さな頭のてっぺんを見つめながら、俺はほとんど無意識にそう呟いていた。

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