僕の月、君の太陽

月ヶ瀬 杏

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「朔。おじさんも時々会いにくるから、いい子にしているんだよ」

 玄関で靴を履いた親父が、くっついて離れようとしない、ウサギみたいなチビの頭を優しく撫でる。
 しばらく俯いていたチビは、気付かれるかどうかわからないくらいに小さく、首を縦に振っていた。

 親父がチビに対して、自分のことを何度も「おじさん」というのが少し気になったけれど、厄介なものを押し付けられた俺は不機嫌な顔で黙ったまま、帰っていく親父を見送った。

 親父が出て行くと、俺は深いため息をついてベッドに腰掛けた。

「何なんだよ、ったく」

 苛立った声で呟きながら、ケースから煙草を一本引き出す。
 咥えた煙草にライターで火をつけかけて、そういえばチビが玄関から戻ってこないことに気がついた。

 面倒だが一応様子を見に行くと、チビは親父が出て行った玄関のドアを見つめていた。じっと見つめて立ち尽くしたまま、微動だにしない。
 俺は首筋を掻くと、チビの背中に声をかけた。

「おい。お前、いつまでそこにいる気だよ」

 チビは俺の言葉に返事をしないどころか、ぴくりとも反応を示さない。

 無視かよ。
 子ども相手に、割と本気で腹が立つ。

「そんなに親父が恋しいなら追いかければ? 今ならまだその辺歩いてるだろうし。そうしてくれれば、俺も面倒が減って助かんだけど」

 苛立って、チビの背中に強い口調で言葉を投げつける。そのとき、ようやくチビの肩がぴくりと小さく反応した。
 俺に背を向けたまま頭を少し俯かせたチビの身体が、僅かに震えている。

 げっ、泣いたかも。

 小さく震えるチビの後姿に、俺は眉をしかめた。

 今年6歳になる弟の和央も、何かにつけてすぐに泣く。泣けば親や周りの大人が自分の思い通りになると思ってる。
 だから、ガキは面倒くさくて嫌いだ。

 俺は小さくため息をつくと、チビにゆっくりと歩み寄った。
 チビの前に立つと、腕組みしたまま高圧的に見下ろす。生憎だけど、ガキの機嫌をとるために屈んで目線を合わせてやるような優しさは持ち合わせてない。

「どうする? 追っかけるなら、そこまでついてってやるけど」

 決して優しくはない声でそう言うと、チビは顔を上げて小さく首を横に振った。
 絶対に泣いていると思ったのに、意外にもチビは泣いてなんかいなかった。小さな唇を噛むようにして、何度も何度も首を横に振る。

「あぁ、わかったよ」

 俺はため息をつくと、チビの傍を離れて廊下を引き返した。ドアのところで振り返って、一応チビに声をかける。

「お前がいつまでもそこにつっ立ってると思うとウザいんだけど。こっちに来て座っとけよ」

 けれど、チビはまた何の反応も示さない。

 また無視か。面倒くさいガキ。

 チビの背中を見ながら、小さく舌打ちする。すると、チビがそれに反応するかのように振り向いた。
 チビのウサギみたいな黒目がちの大きな瞳が、不安そうに俺を見つめる。

「部屋に入って来い」

 俺が強い口調で言うと、チビは困ったように視線をうろうろさせてから、遠慮がちに廊下を歩いてきた。
 だけどドアの手前までしか部屋に入ってこず、いつまでも警戒心を丸出しにして立っている。
 そんなチビの様子をしばらく見ていたけれど、途中でどうでもよくなって、気にするのをやめにした。
 だってここは俺の部屋で、勝手にやってきたのはあいつだ。

 チビのことを無視してベッドに寝転がると、少し離れたところから「きゅーっ」と小さく腹の虫が鳴く音がした。
 顔を上げると、気まずそうな顔をしたチビと目が合う。

「腹減ってんの?」

 訊ねると、チビが無言で首を横に振る。
 けれどその直後に、またチビのほうから「くぅーっ」と小動物が鳴くみたいな小さな音がした。

 じっと見ると、チビが俯く。そうすると、肩まで伸ばした真っ直ぐな黒い髪がさらさらと前に落ちて、チビの表情は見えなくなった。

 俺は立ち上がると、ベッドに投げ置いてあったジーパンとTシャツに着替えた。そのうえから薄手の上着を羽織ると、ポケットの中に財布とスマホ、それから煙草とライターを適当に突っ込む。
 相変わらずドアの傍で俯いたまま立っているチビの横をチラ見しながらすり抜けると、俺は玄関にドカッと腰をおろした。
 出してあるスニーカーに足を通して紐を結ぶと、振り向いてチビに呼びかける。

「おい、行くぞ」

 弾かれたように顔をあげて振り返ったチビが、戸惑いの表情を浮かべる。

「早くしろ。俺も腹減ったんだよ。ラーメン食いにいく」

 俺の乱暴な誘いに、チビが無言で大きな目を真ん丸に見開いた。

「来ないなら、置いてく」

 それ以上声をかけるのが面倒くさくなった俺は、立ち上がって玄関のドアを開いた。
 それを見て慌てたのか、俺の後ろから廊下を走るパタパタという小さな足音が近付いてくる。

 振り返るとチビはいつのまにか俺の真後ろに来ていて、真剣な顔をして自分の小さなスニーカーを履いていた。
 チビが靴を履くのを待ってから、ゆっくりと玄関を出る。

 マンションを出ると、バイト帰りに歩いてきた河原沿いの道を駅側に戻るように歩いた。
 間隔を少し空けて、俺の後ろからチビが相変わらず真剣な顔のままでついてくる。

 俺がよく行くラーメン屋は、河原沿いの道を抜けてすぐのところにあった。
 ときどきチビが後ろをついてきているか確認し、それに合わせて歩く速度を緩めたり速めたりする。

 ラーメン屋につくと、チビは一人前のラーメンを残さず全部ぺろりと食べた。身体は小さいくせに、よほど腹が減っていたらしい。
 食べている間、チビは何にも言わなかった。
 俺もときどきチビのことをちらっと見はしたけれど、何も言わなかった。

 ラーメンで腹いっぱいになると、俺たちは河原沿いの道をマンションに向かって戻った。
 行くときは俺の真後ろを歩いていたチビだったが、腹が満たされて警戒心が緩んだのか、帰りは俺の斜め後ろを歩いていた。

 俺の頬を、優しい夜風が掠め通る。
 歩きながら夜空を見やると、さっき見えていた星達が少しだけ西へと移動していた。

 バイト帰りにはうっすらとかかっていた灰色の雲が今は消えていて、綺麗に晴れている。

 けれどやっぱり、夜空に月はなかった。

 マンションに帰り着くと、チビは部屋のドアの傍に座り込んで、緊張したように俺から背を向けた。

 俺は俺で、チビの存在など無視してベッドに寝転がりながらテレビのチャンネルをくるくる回す。 
 ちょうどスポーツ情報を取り扱っている番組を見つけた俺は、チャンネルを回すのをやめにして、テレビの音量を少しだけあげた。
 一通りスポーツ情報を伝え終えると、番組が天気予報に切り替わる。
 俺は自分が住んでいる地域の天気を確認すると、テレビを消してリモコンを枕元に放り投げた。

 テレビの音が消えて部屋が静かになると、不意にずずっと小さく衣擦れの音がした。
 見ると、ドアの傍で座り込んでいたチビの身体が、横の壁に凭れかかるようにしながらずるずると床に崩れ落ちつつある。
 耳を澄ますと、小さくて細い寝息が聞こえてきた。

 腹が満たされて、眠くなったのか……
 子どもみてーだな。いや、子どもか。

 俺はため息をつきながらベッドから起き上がると、床に崩れ落ちるようにして眠るチビの傍に腰を落とした。

 春から夏に近づきつつある季節だが、それでも夜や明け方はまだ冷える。

「おい、ここで寝るな」

 チビの肩をつかんで揺する。けれど、どれだけ揺すっても声をかけてもチビが起きる気配はない。
 さっきまでの警戒心はどこへやら。ときどき小さな鼻と口をひくつかせながら、気持ち良さそうに眠りこけている。

 俺はチビの寝顔を見下ろしながら小さく舌打ちすると、首筋を掻いた。

 少し迷ってから、チビの身体の下に腕を入れて抱えるように持ち上げる。
 抱き上げたチビの身体は、力が全然入っていないせいか腕に乗せても安定が悪く、その上予想よりも重かった。

 ウサギみたいなチビのくせに……

 うんざりとしながらも、チビをベッドの上に寝かせて布団をかける。
 そうすると、必然的に俺の寝る場所がなくなった。それで仕方なく、数ヶ月前に干して片付けておいた冬用の毛布を引っ張り出してくる。

 ベッドの横のローテーブルを部屋の隅に押しやると、床に毛布を敷く。
 その上に寝転がってしばらくじっとしてみたものの、床が堅すぎて寝付けない。
 
 急にやってきたくせに、人のベッドを独占しやがって……

 眠れずイライラしているうちに、目が冴えて煙草が吸いたくなった。
 起き上がって煙草を咥えたものの、ベッドで眠るチビの姿が見えて、つけかけたライターの火を消す。

 舌打ちすると、俺は煙草の箱とライターを持って立ち上がった。そのときに、ローテーブルに置かれた新聞が目につく。
 親父が持ってきて、忘れていったらしい。
 どうせ眠れないしな、と。俺は何気なく、それも持ってベランダに出た。

 外の空気とともに吸い込んだ煙草の煙を吐き出すと、ようやく少し苛立ちが消える。
 ベランダの柵にもたれながら折り畳まれていた新聞を開くと、ページの端にある天気予報欄に目が留まった。
 さっきテレビで見た予報と違いないか何となく確かめていると、そこに月の満ち欠けに関する情報も小さく載っていた。
 それに因ると、今夜はどうも新月らしい。

 ぼんやりと空を振り仰ぐと、流れる雲の間からは小さな星しか見えない。

 どおりで、今夜は月がないわけだ。
 そう思うと同時に、俺は突然やって来たチビの名前を思い出した。

「そういえば新月って、朔とも言うんだっけ」

 ひとりごとを呟きながら、ベッドで気持ち良さそうに眠るチビを振り返る。

 新月の夜に、その月と同じ名前の女の子がやってくるとは。どんな偶然なんだか。

 ベランダの窓からベッドを覗き込むと、チビはまた小さな鼻と口を少しひくつかせていた。その様子が、やっぱりウサギみたいだ。
 クッと小さく笑って、短くなりつつある煙草を口に運ぶ。

 そういえば、月にはウサギがいるとか言うよな。
 明日起きたら、チビが月に帰ってればいいな。

 煙草を咥えて月のない夜空を見上げながら、バカなことを考える。

 けれど翌朝目覚めても、やっぱりチビは俺の部屋にいて。
 その晩から、俺とチビとの、何ともバランスの悪い共同生活が始まることになる。


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