僕の月、君の太陽

月ヶ瀬 杏

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 河原沿いの道をぶらぶらと歩きながら、住んでいる二階建てのマンションの前まで帰り着く。ふと見上げると、一人暮らしのはずの部屋に灯りが点いていた。

 消し忘れたのか……
 首を傾げてぼんやりと考えながら、俺はマンションの階段を二階まで早足で上がった。

 明日も学校があるし、シャワーを浴びて早めに寝たい。
 鞄から鍵を取り出して、無造作に鍵穴に突っ込む。開錠してすぐにドアノブをひくと、おかしなことにドアが開かなかった。
 もう一度鍵を差して捻り直すと、カチャリと音がして、今度はちゃんとドアが開く。そのことに、俺は僅かに戦慄した。

 部屋の電気は、もしかしたら消し忘れて出かけたかもしれない。
 でも、ドアの鍵は絶対に閉めた。俺には鍵をかけたあとに、ドアノブを回して再確認する癖がある。それなのに、閉めたはずのドアの鍵が開いてたのだ。

 まさか、家の中に空き巣が────!?

 このマンションは防犯体制が緩い。階段を登れば誰でも入って来られる作りになっているから、あり得ない話ではない。

 ふと見ると、ドアの横にある窓の格子に、数日前に使ったビニール傘が乾かしてあった。
 武器になるものは持っておいたほうがいい。
 物音を立てないようにビニール傘を手に取ると、ドクドクと脈打つ心臓を押さえながら、そっと玄関のドアを開けた。

 玄関から続く部屋のドアは閉まっていて、何の物音も聞こえてこない。ドアの隙間から漏れる細い光が、俺の足元まで伸びていた。
 玄関には、男物の大きな黒い革靴が一足と白地にピンクのラインの入った、明らかに子ども用と思われる小さなスニーカーが一足。どちらもつま先をこちらに向けて、綺麗に揃えてある。

 靴を脱ぎ揃えて上がるとは、なんて律儀な空き巣だ。しかも、子連れ────?
 空き巣の境遇を考えながら、静かにそっと靴を脱ぐ。

 空き巣は丁寧に靴を揃えているけれど、危機的状況に面している俺は、そんなことまで構っていられない。
 いつ向こうから襲い掛かられても大丈夫なようにビニール傘を右手で高く掲げると、玄関から延びる短い廊下の壁に背中をくっつけて横歩きしながら、部屋へとそーっと近付いた。何かあれば警察に電話できるように、左手にはスマホの準備も忘れない。

 ゆっくりと部屋の前まで移動すると、閉じられたドアに耳をあてて中の様子を窺う。

 だが……、静かだ。
 絶対に誰かがいるに違いないのに、ドアの向こうからは話し声も物音も聞こえてこない。

 ドアの向こうの様子に注意を傾けながら、ノブに手を伸ばした。そのとき。カチャッと小さな音がして、部屋の内側からドアノブが捻られた。
 少し開いた扉の隙間から、黒い人影が見える。体格は俺よりもやや大きそうだ。

 ビニール傘の柄を握りなおした俺は、ごくりと生唾を飲み込んだ。
 少しずつ開かれていくドアを緊張した面持ちで見つめながら、いつでも振り下ろせるように、ビニール傘を握る手に力を込める。

 扉が完全に開いて黒い人影の姿がはっきりと見えたとき、そいつが言った。

陽央はるひさ。お前、何してるんだ?」
「……」

 気が抜けた俺の手から、ビニール傘が落ちる。
 ぽかんとした顔でこちらを見つめるその黒い人影は、空き巣でもなんでもない。俺の父親だった。

「は? そっちこそ、こんな時間に勝手に人の家に上がりこんで何してんだよ」
「人の家とは何だ。下宿代は俺が援助してるんだぞ」

 親父がそう言いながら、俺の格好を上から下までざっと見る。

「陽央、お前のその格好は何だ? 夜遅くに帰ってきて。ホストのバイトでもしてるのか?」
「は? ホスト?」

 親父に思い切り眉をしかめられて、自分の服装を確かめる。
 黒地に細い白のストライプが入った細身のスーツ。白のシャツに、若干の光沢があるシルバーのネクタイ。
 これ、ホストっぽいか……? 周りからの評判は悪くなかったんだけどな。
 俺は顔を上げると、親父に負けないくらいに眉をしかめた。

「そんなわけねーだろ。俺がやってんのは塾講師のバイト。保護者に会うこともあるから、服装はスーツ必須だし、中学生みてるから授業は夜なんだよ」

「文句あるか?」と。そんなふうに見上げると、親父は黙って頷いた。

「それより、こんな時間に何の用?」

 俺は片手でネクタイを緩めると、腕時計に視線をやった。
 時刻はもうすぐ23時を回る。
 若いときはやたらと忙しそうで、日付をまたいでも会社から帰ってこなかった親父だが、ここ数年は遅くても9時には必ず帰宅している。
 実家では母親が夕飯を用意して待っているはずだ。
 それがこんな時間に、俺に一体何の用があると言うのだろう。きっと、ろくな用じゃないに決まってる。
 そう思いながら、鞄の中に入れたはずの煙草とライターを探る。

 親父はしばらくのあいだ俺を神妙な顔付きで見つめたあと、今までで聞いたことのないくらい真剣な声で話し始めた。

「実はな、陽央。今日はお前に頼みごとがあってきたんだ」
「頼みごと?」

 ようやく探り当てた煙草とライターを引っ張り出しながら怪訝に声を返す。
 すると親父が振り返って、背中に隠していた小さな女の子を俺の前に押し出してきた。

 もちろん、見たことのない、知らない子だ。

 背は、俺の腰くらい。そこから考えると年齢は……、和央かずひさと同じくらいだろうか。
 今年6歳になる弟の顔を思い浮かべながら、そう思った。

 突然前に押し出された女の子は、黒目がちの大きな瞳を怯えたように揺らしながら、親父の腰にしがみついていた。
 大きな目とは対照的な小さな鼻と口が、引き攣るように時折動く。
 何だかウサギみたいだ。
 女の子の動きを見ながら、そう思う。

 ウサギみたいな小さな女の子を見下ろしていると、親父が言った。

「陽央。申し訳ないんだが、わけあって、今日からこの子を預かってほしい」
「は?」

 煙草の箱とライターが、手の平を滑ってぽとりと床に落ちる。

「今、何て?」

 俺の耳がおかしくなったんだろうか。
 ゆっくりとした口調で聞き返した俺に、親父はやっぱりこう言った。

「だから、わけあって今日からこの子を預かってほしい」

 親父の顔はいたって真剣で、冗談を言っているようには見えない。

「ちょ、ちょっと待て! 順序だてて、わかるようにちゃんと説明しろよ。そいつは一体、どこの子なんだよ」

 戸惑った俺が声を荒げたものだから、女の子が怯えたように親父の後ろに隠れて、顔半分だけをそっと覗かせた。
 その仕草は、巣穴から敵の様子を窺っている野ウサギみたいに見える。

 親父は背後に隠れてしまった女の子にちらっと目をやると、俺に廊下へ出るようにと視線で促してきた。
 小さく舌打ちしてから渋々廊下に出ると、親父が女の子を部屋に残して俺の後からついてくる。

「で? どこの子なんだよ」

 廊下の壁に背を凭せかけ、腕組みしながら親父を睨む。
 何か考え込むように俯いていた親父は、しばらくしてから観念したように顔を上げた。

「俺の子だ」
「…………!?」

 キッパリと信じられないことを口にした親父に、一瞬言葉を失う。

「俺の子だよ」

 もう一度そう言った親父の顔からは、俺に対する後ろめたさは一切感じられなかった。

「俺の子って……?」

 堂々と言い切った親父を呆れ顔で見つめる。

「じゃぁ、母親は? 俺に預けに来たってことは、当然、じゃないんだろ?」

 実家にいるお母さんの顔を思い浮かべながら、俺は彼女のことを不憫に思った。

「あぁ、お母さんじゃない。だけど、この子の母親が誰であるかはお前には言えない」
「言えないって……どういう状況でできた子か知らねーけど、今まで放っておいたのに、どうして今さら連れてきたんだよ」
 
 ジッと恨めしげに見上げると、親父が悲しそうに目を伏せた。

「実は、あの子の母親は今病気で入院しているんだ。入院は長引きそうで、いつ家に戻れるか定かじゃない。あの子は母親の他には身寄りがなくて、児童施設に入るところだった。だから、俺が預かってきたんだよ」

 母親が入院中で、身寄りがない。
 確かに置かれた身の上はかわいそうだ。

 だけど……

 だからといって、突然の親父からの隠し子カミングアウトを「あぁ、そうですか」とは受け入れられない。

「事情はわかったけど、そんなの全然説明になってねーよ。親父が勝手に引き取ってきたんだろ。だったら、俺のとこなんかに預けに来ずに、潔く親父が家に連れて帰れよ」

 俺に迷惑をかけるな。

 そんな思いを込めて睨むと、親父は困ったように眉根を寄せた。

「もちろんそれはわかっている。ちゃんとお母さんには話すつもりだが、少し時間が必要なんだ」
「本当かよ」
「本当だ。お母さんとはちゃんと話をする。だからそれまでの間、ここで預かってほしい」

 疑いの目で見つめると、親父は大きく頷いた。


「それに、今日突然あの子を家に連れて帰ったら、和央だって戸惑うだろ。いきなり、姉ができることになるんだから」
「姉?」
「あぁ、あの子は今小学校1年生だ。今年で7歳になる。和央よりひとつ年上だよ」
「7歳……」

 俺はくらくらとする頭を支えるように、手の平で額を押さえた。

 親父がいい加減だってことは、子どもの頃からよくわかっているつもりだ。
 それでも、中学2年生で弟の和央が産まれたときはなかなか複雑だった。
 けれどまさか、13歳年の離れた腹違いの妹までいたなんて……
 別段、いい男でもないくせに。大概にしろよ。

 もう数ヶ月以上顔を合わせていないが、実家の母親の気持ちを思うと、なんだかいたたまれなかった。

「陽央、少しの間でいいんだ。俺もときどき様子を見に来るし、小学校の手続きもこっちで────」
「あぁ、わかったよ」

 親父の話を聞いていると何だかすごくイラついてきて。もの凄く面倒くさくなって。それで、最終的にはどうでもよくなった。


「預かる。預かればいいんだろ」
「本当か。そりゃ、助かる」

 投げやりな口調で言うと、親父が年甲斐もなく、歯を見せて笑う。
 そうして、俺の手をつかむと、ものすごく嬉しそうにぶんぶんと振り回した。

 俺との話が纏まると、親父がドアを開けて部屋に戻っていく。
 それから、所在なさ気に立っている小さな女の子に手招きをした。

「おいで、さく

 親父に呼ばれた女の子は、ビクッと一度肩を震わせてから俺達に近付いてきた。
 女の子がそばにくると、親父が彼女と目線が合うように腰を屈める。

「朔。この人は、おじさんの子どもで村尾むらお陽央はるひさって言うんだ。これからしばらく一緒に住むことになるから、挨拶しなさい」

 女の子は戸惑ったように親父を見つめたあと、不安そうな目で俺を見た。

 首をぐっと高くした女の子が、小さな鼻を引き攣らせるように動かす。
 それから小さな口をちょっとだけ震わせて、弱弱しくか細い声を出した。

大原おおはらさく、です」

 大原 朔。
 それが、その晩俺の家に舞い込んできた、ウサギみたいなチビの名前だった。

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