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黒の帳 『一つ目の帳』
おひとり様
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紅陵さんは、私たちの教室の前まで着いてきた。そこまで歩く間も、ずうっと二人は険悪な様子だった。
何でこんなに仲が悪いんだろう。
多分、天野君は『リン』のことで紅陵さんを警戒しているのだと思う。先週の水曜日、保健室での出会いは、良いものとは言えなかった。
紅陵さんは紅陵さんで、どうして天野君を煽るんだろう。やっぱり、『リン』のことが関係しているんだろうか。
…ああ、天野君に、いつ言ったらいいんだろう。
私が天野君に、『リン』が私であるということを打ち明けて、天野君に失望されれば、この二人の仲も幾分か良好になるのではないだろうか。
……私は、嘘つきだから。
大好きで美人な『リン』が、こんなぼうっとした魅力の無い嘘つきだと知れば、あっという間に気持ちが冷めるだろう。
天野君が中身を気にしない面食いならそんなことは起きないかもしれない。でも、こうして話していると、天野君は面食いじゃないと思う。乱暴だけど、人の内面もきちんと見ている人だ。
私は、そんな人を騙している。
そう思うと苦しくなったけれど、なぜか、それより強い感情があった。
なぜ、私は、失望されることに怯えているんだろう。
私は、天野君から逃げて、天野君を遠ざけたかったはずだ。それなのに、失望されることを恐れている。
天野君が、『リン』を、私を、嫌いになることが怖い。
龍牙に次ぐ素晴らしい友人だから?
それとも、一昨日のあの時見た、横顔のせい?
「…鈴」
「な、何?」
ぼうっと考えていたせいで、反応出来なかった。紅陵さんと別れたことで幾分か機嫌の直った天野君は、私の目を見て尋ねた。
「裏番のこと、どう思ってんだ」
「…え」
裏番…紅陵さんのことだ。どうして、そんなことを聞いてくるんだろう。答えるにしても恥ずかしい。素直に言うなら、好き、なのだけど。
「あー、えっと、その、えーっと」
「なになに恋バナー?」
私が言い淀んでいると、菊池君が横から飛び出してくれた。私の肩を抱き、にこにこと笑って楽しそうにしている。
「菊池君、おはよう」
「おはよぉ~。ねえねえ、今日めっちゃイイもの持ってきたんだよね~」
菊池君は上機嫌にそう言いのけた。私が首を傾げると、菊池君は距離を詰めて、私にこそっと耳打ちをした。
「実は、サンミオのシナノンの、スマホケースがありま~す…」
「えっ!!!」
私は、大好きなシナノンちゃんの名前とそのグッズを聞いて、反射で大声を出してしまった。教室中に響く、大声だった。教室の扉が開けっ放しだったから、廊下にも響いているだろう。
なんで菊池君が私にシナノンちゃんのことを話すんだろう、とか、私がシナノンちゃんが好きなことを知っているのかな、とか、そういうことは大声を出してからなだれ込んできた。
「ん、ふふっ、ふっ、可愛いッ……」
「え、何?」
「紫川どうしたの~可愛い~」
「…ぅ……」
周りにはやし立てられ、私はどうしようもなく恥ずかしくなって、俯いた。こんな、高校生にもなってサンミオが大好きなんて知られたら、絶対笑われる。
それにしても、なんで菊池君はスマホケースがあるって言ったんだろう。気になる。でも、今は顔が上げられない。恥ずかしすぎる。朝から恥ずかしいことの連続だ。
「ぅ、わあああっ!? 天野、天野、なになになにッ、ストップストップ!」
「テメェ鈴に何言いやがった」
菊池君の悲鳴が聞こえ、驚いて顔を上げると、天野君が菊池君の胸ぐらを掴み上げていた。
「あっ、天野君!?」
「鈴ちゃんっ、天野止めてぇ~!!」
「天野君、菊池君は悪いこと言ってないから、菊池君のこと下ろしてあげて?」
「じゃあ何で顔赤いんだ」
「それは……」
サンミオが大好きで、バレると恥ずかしいから。
そんなことを言えば、どうなるだろう。天野君は私がサンミオ好きということを知らない。天野君に馬鹿にされたらどうしよう。
私は答えられず、黙り込んでしまった。
「あ"あ"しまってるッ…くるしっ…」
「あ、だめ、だめだめだめっ、天野君止めてよ!」
天野君はそれが気に入らなかったのか、菊池君を掴む力を強くしたらしい。菊池君が苦しそうな声を上げ、私は慌てて天野君を止めた。
必死な私の様子に、天野君は納得がいっていない様子だったが、渋々菊池君を下ろしてくれた。
「けほっ、うえぇ…天野乱暴だぁ……」
「大丈夫? ごめんね…」
「鈴ちゃんのせいじゃないよ~」
菊池君はそう言ってぽんぽんと私の頭を撫でた。私のせいじゃないと言っているけれど、私が言い淀んだから天野君が怒ったんだ。私が床に倒れ込む菊池君に肩を貸した瞬間、後ろで物凄い轟音がした。
驚いて振り向くと、そこに見えたのは閉まった扉と、消えていく青色の髪だった。今の音は、天野君が扉を閉めた音だったんだ。
天野君、何であんなに怒ってるんだろう。
私が怒らせてしまったのは分かるのだけど、彼はここまで短気だっただろうか。今朝紅陵さんと話したことが、ストレスだったんだろうか。
「天野君……」
「あんな不良ほっとこ! ほら、スマホケース見せたげるっ、おいでおいで」
菊池君も不良でしょ、という言葉は飲み込み、私は菊池君の後を着いていった。今の天野君を追いかけても、私では機嫌を直すどころか、まず追いつけないだろう。
「今日は遠藤君と新村君いないの?」
「あー、今日はサボるって。バイクが気になるらしい。遠藤の兄ちゃんも連れてったらしいよ」
「あのカッコイイお兄さんか…バイク詳しそうだもんね」
「ねー。んで、これがスマホケース」
はい、と手渡され、私はそれを受け取ってまじまじと見た。見た目はグレー一色に見えるけれど、よくよく見てみると、隅の方にシナノンちゃんのシルエットが描かれている。よく観察しないと分からない目立たなさだ。なるほど、これなら男の子のスマホケースでも違和感が無い。
「…わあ、すごく良いデザインだね。結構大人っぽい。見せてくれてありがとう。どこで売ってたの?」
「………ん?」
こんなデザインのスマホケースもあったんだ。新しいスマホケース、シナノンちゃんのこういうデザインがいいな。応急処置として、安いスマホケースを付けているから、早く好きなデザインのものを買いたい。
菊池君に見せてもらえて良かった。
そう思って返したのだけど、菊池君は受け取らずに首を傾げた。
「それ鈴ちゃんにあげるけど?」
「え!?」
冗談だろう。
スマホケースって、とっても高いんだ。数千円は学生にとって大きな出費だ。しかも、こんな新品の素敵なデザインのものが安いわけがない。
でも、菊池君はスマホケースを私の手に強く押し付けて、にっこり笑った。
「あーげーる。俺からのプレゼント。これで好感度アップっていう下心あるから遠慮なく受け取ってよ。後で見返りせびるとかないから、ね?」
「好感度って…ふふ」
好感度とか、そういうことは分かっていても言わないものだ。あけすけに言ってしまう菊池君が面白くて笑うと、教室の中でざわめきが聞こえた。
「嘘だろ、下心丸出しでも鈴ちゃんは嫌がらないのか」
「えっ、じゃあ俺もなんか買ってこよ」
「あのチャラ男がイけるなら僕だって…」
「やっぱ高いモンだろ」
聞こえてくる会話は、引っかかる内容ばかりだ。私がこのまま菊池君のスマホケースを受け取ったら、他の人にも物を渡されるんだろうか。菊池君は良い人だけど、他の人は?
やっぱり、スマホケースって高いし、受け取らないでおこう。こういうのはトラブルに発展してしまうんだ。危ないところだった。
いわゆる、貢ぐという行為に発展してしまうかもしれない。自意識過剰かもしれないが、予防線を貼っておくに越したことはない。
菊池君の好意を無下にしてしまうのは心苦しいけれど、私は改めて菊池君にスマホケースを差し出した。
「ご、ごめん、やっぱりいらない」
「………」
菊池君はやっぱり受け取ってくれなかった。彼はむすっとした顔をして頬を膨らまし、教室を見渡した。
「ちょっとー!?お前らのせいで俺のプレゼント受け取ってもらえないじゃん!!」
「ざまーみろ!!」
「鈴の好きな物教えない罰だァ!」
「ぁンだと…」
菊池君と不良さんたちが言い争っている。皆、自由気ままだ。口喧嘩でとどまってくれるなら、もう何も言わないでおこう。
この場の誰もが私の意見を聞かない。
でももう構わない。
聞いてくれる人が、いるから。一人は先生に追いかけられて走り去ってしまったし、一人は、さっき扉を閉めて出ていってしまったし、そもそもあと一人は学年が違う。
早く戻ってきてくれないかなあ。
スマホケースをこっそり机に置き去り、私は教室の一番前の席についた。
一人って、寂しい。
何でこんなに仲が悪いんだろう。
多分、天野君は『リン』のことで紅陵さんを警戒しているのだと思う。先週の水曜日、保健室での出会いは、良いものとは言えなかった。
紅陵さんは紅陵さんで、どうして天野君を煽るんだろう。やっぱり、『リン』のことが関係しているんだろうか。
…ああ、天野君に、いつ言ったらいいんだろう。
私が天野君に、『リン』が私であるということを打ち明けて、天野君に失望されれば、この二人の仲も幾分か良好になるのではないだろうか。
……私は、嘘つきだから。
大好きで美人な『リン』が、こんなぼうっとした魅力の無い嘘つきだと知れば、あっという間に気持ちが冷めるだろう。
天野君が中身を気にしない面食いならそんなことは起きないかもしれない。でも、こうして話していると、天野君は面食いじゃないと思う。乱暴だけど、人の内面もきちんと見ている人だ。
私は、そんな人を騙している。
そう思うと苦しくなったけれど、なぜか、それより強い感情があった。
なぜ、私は、失望されることに怯えているんだろう。
私は、天野君から逃げて、天野君を遠ざけたかったはずだ。それなのに、失望されることを恐れている。
天野君が、『リン』を、私を、嫌いになることが怖い。
龍牙に次ぐ素晴らしい友人だから?
それとも、一昨日のあの時見た、横顔のせい?
「…鈴」
「な、何?」
ぼうっと考えていたせいで、反応出来なかった。紅陵さんと別れたことで幾分か機嫌の直った天野君は、私の目を見て尋ねた。
「裏番のこと、どう思ってんだ」
「…え」
裏番…紅陵さんのことだ。どうして、そんなことを聞いてくるんだろう。答えるにしても恥ずかしい。素直に言うなら、好き、なのだけど。
「あー、えっと、その、えーっと」
「なになに恋バナー?」
私が言い淀んでいると、菊池君が横から飛び出してくれた。私の肩を抱き、にこにこと笑って楽しそうにしている。
「菊池君、おはよう」
「おはよぉ~。ねえねえ、今日めっちゃイイもの持ってきたんだよね~」
菊池君は上機嫌にそう言いのけた。私が首を傾げると、菊池君は距離を詰めて、私にこそっと耳打ちをした。
「実は、サンミオのシナノンの、スマホケースがありま~す…」
「えっ!!!」
私は、大好きなシナノンちゃんの名前とそのグッズを聞いて、反射で大声を出してしまった。教室中に響く、大声だった。教室の扉が開けっ放しだったから、廊下にも響いているだろう。
なんで菊池君が私にシナノンちゃんのことを話すんだろう、とか、私がシナノンちゃんが好きなことを知っているのかな、とか、そういうことは大声を出してからなだれ込んできた。
「ん、ふふっ、ふっ、可愛いッ……」
「え、何?」
「紫川どうしたの~可愛い~」
「…ぅ……」
周りにはやし立てられ、私はどうしようもなく恥ずかしくなって、俯いた。こんな、高校生にもなってサンミオが大好きなんて知られたら、絶対笑われる。
それにしても、なんで菊池君はスマホケースがあるって言ったんだろう。気になる。でも、今は顔が上げられない。恥ずかしすぎる。朝から恥ずかしいことの連続だ。
「ぅ、わあああっ!? 天野、天野、なになになにッ、ストップストップ!」
「テメェ鈴に何言いやがった」
菊池君の悲鳴が聞こえ、驚いて顔を上げると、天野君が菊池君の胸ぐらを掴み上げていた。
「あっ、天野君!?」
「鈴ちゃんっ、天野止めてぇ~!!」
「天野君、菊池君は悪いこと言ってないから、菊池君のこと下ろしてあげて?」
「じゃあ何で顔赤いんだ」
「それは……」
サンミオが大好きで、バレると恥ずかしいから。
そんなことを言えば、どうなるだろう。天野君は私がサンミオ好きということを知らない。天野君に馬鹿にされたらどうしよう。
私は答えられず、黙り込んでしまった。
「あ"あ"しまってるッ…くるしっ…」
「あ、だめ、だめだめだめっ、天野君止めてよ!」
天野君はそれが気に入らなかったのか、菊池君を掴む力を強くしたらしい。菊池君が苦しそうな声を上げ、私は慌てて天野君を止めた。
必死な私の様子に、天野君は納得がいっていない様子だったが、渋々菊池君を下ろしてくれた。
「けほっ、うえぇ…天野乱暴だぁ……」
「大丈夫? ごめんね…」
「鈴ちゃんのせいじゃないよ~」
菊池君はそう言ってぽんぽんと私の頭を撫でた。私のせいじゃないと言っているけれど、私が言い淀んだから天野君が怒ったんだ。私が床に倒れ込む菊池君に肩を貸した瞬間、後ろで物凄い轟音がした。
驚いて振り向くと、そこに見えたのは閉まった扉と、消えていく青色の髪だった。今の音は、天野君が扉を閉めた音だったんだ。
天野君、何であんなに怒ってるんだろう。
私が怒らせてしまったのは分かるのだけど、彼はここまで短気だっただろうか。今朝紅陵さんと話したことが、ストレスだったんだろうか。
「天野君……」
「あんな不良ほっとこ! ほら、スマホケース見せたげるっ、おいでおいで」
菊池君も不良でしょ、という言葉は飲み込み、私は菊池君の後を着いていった。今の天野君を追いかけても、私では機嫌を直すどころか、まず追いつけないだろう。
「今日は遠藤君と新村君いないの?」
「あー、今日はサボるって。バイクが気になるらしい。遠藤の兄ちゃんも連れてったらしいよ」
「あのカッコイイお兄さんか…バイク詳しそうだもんね」
「ねー。んで、これがスマホケース」
はい、と手渡され、私はそれを受け取ってまじまじと見た。見た目はグレー一色に見えるけれど、よくよく見てみると、隅の方にシナノンちゃんのシルエットが描かれている。よく観察しないと分からない目立たなさだ。なるほど、これなら男の子のスマホケースでも違和感が無い。
「…わあ、すごく良いデザインだね。結構大人っぽい。見せてくれてありがとう。どこで売ってたの?」
「………ん?」
こんなデザインのスマホケースもあったんだ。新しいスマホケース、シナノンちゃんのこういうデザインがいいな。応急処置として、安いスマホケースを付けているから、早く好きなデザインのものを買いたい。
菊池君に見せてもらえて良かった。
そう思って返したのだけど、菊池君は受け取らずに首を傾げた。
「それ鈴ちゃんにあげるけど?」
「え!?」
冗談だろう。
スマホケースって、とっても高いんだ。数千円は学生にとって大きな出費だ。しかも、こんな新品の素敵なデザインのものが安いわけがない。
でも、菊池君はスマホケースを私の手に強く押し付けて、にっこり笑った。
「あーげーる。俺からのプレゼント。これで好感度アップっていう下心あるから遠慮なく受け取ってよ。後で見返りせびるとかないから、ね?」
「好感度って…ふふ」
好感度とか、そういうことは分かっていても言わないものだ。あけすけに言ってしまう菊池君が面白くて笑うと、教室の中でざわめきが聞こえた。
「嘘だろ、下心丸出しでも鈴ちゃんは嫌がらないのか」
「えっ、じゃあ俺もなんか買ってこよ」
「あのチャラ男がイけるなら僕だって…」
「やっぱ高いモンだろ」
聞こえてくる会話は、引っかかる内容ばかりだ。私がこのまま菊池君のスマホケースを受け取ったら、他の人にも物を渡されるんだろうか。菊池君は良い人だけど、他の人は?
やっぱり、スマホケースって高いし、受け取らないでおこう。こういうのはトラブルに発展してしまうんだ。危ないところだった。
いわゆる、貢ぐという行為に発展してしまうかもしれない。自意識過剰かもしれないが、予防線を貼っておくに越したことはない。
菊池君の好意を無下にしてしまうのは心苦しいけれど、私は改めて菊池君にスマホケースを差し出した。
「ご、ごめん、やっぱりいらない」
「………」
菊池君はやっぱり受け取ってくれなかった。彼はむすっとした顔をして頬を膨らまし、教室を見渡した。
「ちょっとー!?お前らのせいで俺のプレゼント受け取ってもらえないじゃん!!」
「ざまーみろ!!」
「鈴の好きな物教えない罰だァ!」
「ぁンだと…」
菊池君と不良さんたちが言い争っている。皆、自由気ままだ。口喧嘩でとどまってくれるなら、もう何も言わないでおこう。
この場の誰もが私の意見を聞かない。
でももう構わない。
聞いてくれる人が、いるから。一人は先生に追いかけられて走り去ってしまったし、一人は、さっき扉を閉めて出ていってしまったし、そもそもあと一人は学年が違う。
早く戻ってきてくれないかなあ。
スマホケースをこっそり机に置き去り、私は教室の一番前の席についた。
一人って、寂しい。
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