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黒の帳 『一つ目の帳』

天野編 何でここに

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「よぉ」
「お前が青狼だな」
「よーっす天野クゥン、横のお兄さんは…誰だ?」
「…お前ら誰だ」

進み出た集団の何人かが俺たちに向けて言葉をかけた。その内容から、標的が俺だけだと分かる。

「俺らね、零王くんの親衛隊」
「特に指示は出てないが、紫川鈴の周りをうろちょろされんのは目障りだからな」
「潰させてもらうってワケ。オレたちならラクショーっ!」

そう言って、何人かがケラケラと笑った。ざっと見たところ、集団には十人くらいの男がいる。裏番を親しげに呼ぶところを見ると、恐らくは二年生。集団には栗田のようにガタイのいい男もいる。

かなり、分が悪い。

「東雲先輩、どうしま………えっ」

この事態、どうするべきか。それを尋ねようと横を見たのだが、隣にいたはずの先輩の姿は既になかった。
周りを見渡すと、この場から全力疾走で逃げ出していく東雲先輩の背が見えた。

クソ雑魚だろうから、役には立たねぇけど、どうせ戦わねぇだろうとは思っていたけれど、それでも、

「ムカつく…ッ……」
「だははははははははは!!!」
「先輩に逃げられてやんの!」
「お前、人望無さすぎ、はははっ!」

やばい、どうしようか。この集団に勝てる気がしないわけではないが、間違いなく無事では済まない。

逃げるのは、マジでダサい。

喧嘩から逃げるなんて論外だ。そんなところ、誰にも…特に好きなやつには見られたくない。

なら、俺が考えるべきは戦いの算段。
集団とはいえ、向こうは仲間を気にして動きが鈍るはずだ。タイマンで強い奴だって、集団じゃあそうも輝かない。
逆に、俺はとりあえず周りにいる奴全員に殴り掛かるだけでいいんだ。他の奴を盾に使ってもいいし、投げつけてもいい。

最近、喧嘩をしていないんだ。
ここらで大暴れするのも、悪くない。

元々運動が好きだ。体を動かすことが、好きなんだ。
軽い運動だ、やってやろうじゃねぇか。裏番を取り巻く武闘派の二年生十数人。相手に不足はない、というやつだ。

「青狼クン何分もつと思う~?」
「俺五分」
「三分で沈めるわァ」

「……はっ、テメェらこそ何分持つだろうな」

大通りで喧嘩をするのは目立つ。暗黙の了解で路地裏に入ろうとしたその時、この場で聞こえるはずのない声が聞こえた。

「こ、こんにちはっ、ワタルさん」

「……あ?」

「えっ?」

その声の主は、俺と集団の間に割って入り、二年生に向かってぺこりと頭を下げた。

私服も可愛いな、なんて、場違いなことを考えた。だってこいつがここに来るなんて思わないだろう。


目の前に立っていたのは、鈴だった。


紫川、鈴。

俺の、片思い相手。


そう認識した途端、体中の温度がぶわっと上がった。ああ、リンさんに会った時もこんな感じだったな。

「用事なら私にあるんじゃないですか? 天野君は関係無いですよね」
「残念だったな、俺らが用事あんのは天野なんだわ」

集団は鈴を無視して、俺に近づこうとした。だが鈴がその間に入り、立ち塞がる。まあ、立ち塞がると言えるほど体格は大きくないけれど。

「ダメですっ!天野君は関係ないじゃないですか!」
「ナマ言ってんじゃねぇぞコラ、顔だけのオナホ野郎のクセに…」
「そーそー、性処理係が口出すなって話」

俺の手がぴくっと痙攣した。

今、コイツら、何つった?

二年生の一人は鈴の顔を掴み、強引に上を向けた。鉄壁とも言える前髪でその表情は分からない。だが、歪めているのではないだろうか。あの、美しい顔を、恐怖か痛みに、歪めているんじゃないか。

…いや、素顔がどうだろうと許さん。リンさんだと知る前でも、これには怒りを覚えただろう。

「もしかして俺らにマワして欲しい感じ~?あっはっは!悪いね、一口目は零王くんって決まってるんだわ」
「まあ、どうしてもって言うんなら…ね♡」
「あ…天野君、この人たちは私に用事があるから、帰っていいよ。ごめんね、巻き込んで…」

鈴は顔を掴まれたまま、俺に背を向けてそう言った。上を向かされているからか、その声は苦しそうだ。

こんなことを言われて、帰る馬鹿がいるだろうか。

どうして、帰っていいなんて言うんだろうか。もしかして、俺がコイツらに負けるとでも思ってんのか。自分を犠牲にして、俺を助けたつもりになってんのか。

「はは、何勝手に帰らす話になってんの?」
「天野もテメェも帰さねぇに決まってるだろうが」

二年生がヘラヘラと笑い、俺に手を伸ばしてくる。
コイツらぶっ殺してやりたい。

だが、俺は考えた。今ここで喧嘩になったらどうなる。絶対鈴が巻き込まれるだろう。誰かを守りながら喧嘩なんて、俺はしたことはない。鈴が人質に取られる展開にでもなったらどうするんだ。
冷や汗と怒りでどうにかなりそうな俺の耳に、鈴の声が届いた。

「天野君っ、逃げて!!」

…ああ、逃げてしまえばいいか。

逃げるのはダサい。そう思っていたが、もう変更だ。好きな奴がとんでもない目に遭いそうだってのに、そんなこと気にしてられるか。

俺は、伸びてくる二年生の手を叩き落とし、鈴を掴む二年生を蹴飛ばして、鈴の手を引いた。

「ちょっ、待てお前ら!!」
「な、なんで、なんでっ、天野君」
「お前も逃げんだよ!」

困惑した鈴の声が聞こえる。不安そうな声だが、それに取り合っている時間は無い。

「私ただでさえ足遅いし、昨日足捻っちゃったんだよ!?置いていってよ!天野君まで捕まっちゃう!! 」
「黙って走れ!」

無理に手を引いているが、転けてしまわないだろうか。運動が苦手なこの子を走らせて大丈夫か。
色々な不安が頭を巡るが、今の最優先事項は後ろの二年生から逃げることだ。


俺は鈴の手を引いて必死に街を走った。俺もアイツらも、ここらについては知り尽くしている。だが努力の甲斐あってか、俺はどうにか二年生を撒く寸前まで持ち込むことが出来た。

「はあっ、はっ、はぁっ」
「けほっ、げほ、ぅ、ん、はっ…」

路地裏に二人で滑り込み、ぜいぜいと息をつく。汗だくだ、ベタつく肌が不快で仕方ない。
上を向き、路地裏に停められていた車に背を預け、何度も呼吸を繰り返す。隣の鈴はどうしているのかと見やると、鈴がひょこっと車の陰から顔を出すところだった。

「ま、まけた…、かな?」
「馬鹿っ!!」

その首根っこを思いっきり引っ張り、引き寄せる。見つかったらどうすんだ。
突然のことで焦ったからか、力が入りすぎてしまった。鈴は勢いよく俺の方に引き寄せられ、俺の腹の辺りにぽすんと収まった。

…き、気のせいであって欲しい。

なんか、めっちゃ、いい匂いする気がする。
ふわっふわの花の香りか果物の香りか分かんねぇけど、めっちゃ、めっちゃ女子みたいないい匂いする。

「どこいったアイツら!」
「分かんねぇっ…あっちか!?」
「テメェが先頭走ってただろうが、何で見失うんだ!!」
「知らねぇよ!!お前が足遅いのが悪いんだろ!?」

二年生の声だ。ぎゃあぎゃあと言い争う声は、段々と小さくなっていった。

「……ふ、う…、何顔出してんだ。油断すんの、はえぇんだよ…」
「ごめん…」

ああやっぱり気のせいじゃない。とんでもなく良い匂いがする。鈴は俺より背が低いから、頭を俺の胸に預けている姿勢だ。ふわふわ、ふわふわ、甘い香りがする。
全力疾走した後だから絶対汗臭いのに、なんだよこの香り。

「あ、あの、天野君、離してくれないかな」
「…あ?なんでだ」

鈴がまた顔を覗かせたら困る。だからパーカーのフードを掴んだままにしていたのだが、鈴から抗議の声が上がった。

「は、はっ、恥ずかしい、から…」
「………えっ」

俺に触れている、この姿勢が恥ずかしいのだろうか。そりゃ俺だって恥ずかしい。でもそれは、俺が鈴に惚れてるからだ。つまり、鈴が、恥ずかしがってるってことは、

「今日の私、女の子みたいな香りするでしょ? 今日ここに来るまでに友達の女の子に会って、この香水合うって振りかけられちゃってさ」

だから恥ずかしいんだ。そう言って鈴は俯いた。

…全然予想と違った。浮かれた自分が恥ずかしい。

あー、と声を出し、額に手を当てる。ゴツンと車に後頭部を預け、俺は鈴から手を離した。

「…ねえ、天野君」
「あ?」

声をかけられ、目線だけを鈴に向けた。小ぶりな唇、ああ、そうだ、リンさんに似てる…なんていつしか思ったんだっけな。やっぱり鈴は可愛いな、うん。

「……ありがとう。その、こっ、怖かったから、すごく…ほっとした。ホントにありがとう。…天野君だけで逃げられたのに、足引っ張っちゃってごめんね」
「………………うっせ」

きっと、鈴がリンさんだって知らなきゃ、もっと気の利いたことが言えただろう。気にすんな、とか、逃げただけだろ、とか、そんな言葉。俺の口から出たのは、好きな子をいじめる男子小学生のような、情けない意地っ張りな言葉だった。

それでも、鈴は笑ってくれた。可愛らしい桜色の唇に、ゆったりと笑みが浮かぶ。きっと、前髪の下の綺麗な瞳は、美しく細められている。

素顔を見せて欲しい。
衝動に負けてそう言ってしまうのは、無粋な気がした。

鈴が隠しているんだ。隠したがって、いるんだ。あと少しくらい、知らないフリをしておこう。

「…ふん」
「わっ」
「いてもいなくても一緒だ、馬鹿」

だから俺は、鈴の頭にぽすんと手を置くだけにしておいた。子供にするように、落ち着け、と言わんばかりに。

リンさんのことを、めちゃめちゃ知りたかった。正体を知って、せめて、友人になりたかった。あわよくば友人以上を…なんて、そんなことを考えていた。

だが実際はどうだ。

探し求めていた人は、こんな近くにいたわけだ。

本来ならもっと大騒ぎするべきなのに、東雲先輩から事実を聞いてからの俺は、ずっと落ち着いていた。多分これ、どこかで反動くるな。家に帰ったら叫びそうだ。

「…どうしたの?」
「いや、近いなって思っただけだ」
「あ、ごめんごめん」

リンさんが思ったより近くにいた。そう思っていたことが口をついて出てしまった。鈴は今の自分と俺の距離が近いのだと勘違いし、離れようとしている。

俺は鈴の頭に肘を乗せることでそれを阻止して、ぼそりと呟いた。

「馬鹿、それは遠いんだよ」
「大して変わってないけど…」
「うっせ、黙っとけばーか」
「今日馬鹿馬鹿言い過ぎじゃない?」
「気のせい気のせい」

適当にあしらうように喋ると、鈴は少し困ったようにくすりと笑いを零したのだった。



『天野君っ、逃げて!!』
『置いていってよ!天野君まで捕まっちゃう!!』

どこまでも自己犠牲を掲げるコイツは、

『優しいどころか、正反対。私は…自分が幸せになりたいだけ』
『私、友達が欲しくて、色々な人と仲良くしようとするんだ』

寂しがり屋のくせに、後ろ向きなコイツは、

俺の心を、じくじくと蝕んでいく。


優雅な含み笑いが、薄く色付いた唇が、透き通るような白肌が、その何もかもが、俺にたくさんのものを植え付けていく。


恋は不治の病。

ふと頭に浮かんだのは、いつだったか、馬鹿らしいと一蹴した、どこかの映画の言葉。

陳腐な台詞だが、今の俺の心にはすとんと落ちてくるのだった。
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