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黒の帳 『一つ目の帳』

体力テストなんてどうでもいい

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早速体力テストに取り掛かろうと、私は天野君の足の上に座った。胡座をかくようにして、天野君の足を挟む。上体起こしは片方が足を押さえる必要がある。私は力が弱いし軽いから、自分の体重をかけて押さえなくちゃね。
タイマーも手に持ったし、これで準備万端。声をかけようと顔を上げると、天野君の様子がおかしいことに気づいた。

「…天野君、どうしたの。顔赤くない?」
「……この部屋暑いんだよ」
「そう?今日寒い方だと思うけど…、もしかして熱ある?」
「どうでもいいから早く始めろ!!」

大声で怒られてしまった。鋭い目が私を睨んでいるが、気迫がいつもより欠けている気がする。変なの。
これ以上怒られては堪らないので、私は大人しく始めることにした。だけど、上体起こしをしている最中も天野君はおかしかった。肩甲骨を床につけ、上体を起こす。それは合っている。だけど、天野君は起き上がる時に、首を変な方向に捻っている。変に体を曲げたら、痛くならないだろうか。

「9、10…、天野君、それ首痛くない?」
「だま、って、かぞ、え、ろッ…」
「そう…、18、19…」

天野君の顔が赤いままだ。上体起こしで疲れているのか、汗まで浮き出ている。本当に暑いのかもなあ。

「28回だよ、お疲れ様」
「おう…」
「さきちゃんっ、俺は32回だよ!」
「俺29回!」
「失せろお前ら!!」

同じクラスの三人組の二人、遠藤君と菊池君が話しかけてきた途端、天野君が勢いよく起き上がって二人を追い払った。今度は私の番だ。天野君に押さえてもらって、私も上体起こしを始める。

皆、良い記録を私に伝えてどうしたいんだろう。

別に体力テストの点なんてどうでもいいんだ。
たかが体力テスト、どうでもいい。

「…嘘だろ」
「………」
「鈴、お前本気でやったか?」
「…やった」
「いや、それにしても15回は少な過」
「次は長座体前屈!!はーい行こう行こう」
「…へいへい」

…どうでもいい、本当に心底どうでもいい!

その後のテストも天野君とやったが、やる度に天野君が私の記録を何か言いたげにじっと見てくる。いいよ、いいよ別に。中学の時、他の女の子は、うちらより多いじゃ~ん!って言って褒めてくれたから。いいよ、いいもん別に。

残すところは握力。握力計はどこにあるだろうと二人で探した時、甲高い歓声と野太い歓声が上がった。

「うわあああ零王やべぇ!!」
「零王くんすっご~い♡」
「いや、去年と変わってねぇから」

大勢の二年生に囲まれているのは、紅陵さんだ。紅陵さん大人気だなあ。ボーッと見ていたら、顔を上げた紅陵さんと目が合った。

「…あっ」
「行くぞ、鈴。アイツらが終わりそうだから、そっちに握力け」
「クロちゃん!ちょっと見て欲しいもんあるんだよね、ちょっとでいいから。こっちおいで~!」

天野君が私の手を引き、紅陵さんは私に呼びかけてくる。紅陵さんには悪いけれど、天野君に着いていこうかな。背を向けようとした途端、恐ろしい視線を感じた…気がした。
振り向いたが、紅陵さんは変わらずにっこり笑っている。だったら今の寒気は何なんだ。

…ああ、成程。紅陵さんの周りの人をよくよく見てみれば、私を睨みつけている人がいる。零王くんのお誘いを断るのかと言わんばかりの目だ。

どうしよう、と迷ったが、天野君が紅陵さんの方へ歩いていくのが見えた。えっ、嫌だと思ったんだけど、いいのかな。

「…天野君?」
「お前は行きたいだろ」

別にどうしてもというわけじゃない。けれど、有無を言わさない天野君の様子に、私は何も言えなかった。
紅陵さんは私たちに、握力計を掲げて見せた。見て欲しい物って、何だろう。

「さて、二人にクイズだ。俺の握力、何キロだと思う?」
「は?」
「え?」

そんな小学生みたいなクイズをされるとは思わなかった。でも、紅陵さんは楽しそうに私たちに聞いてくる。何キロなのかな。50キロ…とか?いや、信じられない握力かもしれない。

「90キロ」
「えっ、天野君?それは言い過ぎじゃないかな…」
「うるせぇ、俺は心当たりがあんだよ」
「うーん、70キロ…とか?」
「りょーかい。さてさて何キロでしょうか~」

紅陵さんは私たちの予想を聞くと、握力計のスイッチを入れた。紅陵さんが涼しい顔をして握力計を握り出す。

「ばーか、70なわけあるか」
「90は言い過ぎだってば」

小声で喋り、くすくすと笑いあっていたら、一人の二年生が悲鳴のような声を上げた。

「わあっ、零王くん!?握りすぎだよっ、そんなに握っちゃ…あっ!!」
「テメェ俺に文句あんのか……あ!?やっべ、やべやべやっちまった、俺早退したって言っといて、そんじゃ!!」

紅陵さんは口早にそう言うと、握っていた握力計を放り出して走り去った。急にどうしたんだろう。まるで窓ガラスを割ってしまった学生のようだ。

床に放られた握力計、握力の強さが表示されるそのパネルには、84.3キロとの表記がある。うわ…紅陵さん凄いなあ。

「天野君、90はやっぱり言い過ぎだったんだよ」
「…馬鹿野郎、よく見ろ。握る部分だ」

天野君は顔を真っ青にして床を指さした。そのハンドル部分にはヒビが入っている。固そうなところだけど、どうしてヒビが…?紅陵さんが投げた時に割れちゃったのかな。これじゃあ危なくて触れない。

「…?」
「零王くん、またやっちゃったなあ…」
「握力計の一つや二つ、別にいいだろ。零王に破壊されたとなっちゃ、握力計も本望だ!」
「えっ、破壊…これってまさか」
「そうよ一年坊主!零王くんの本気は誰も知らないんだ。何せ測るもんが先にぶっ壊れるからな!」

私の肩を勢いよく抱いた二年生が豪快に笑いながらそう話した。

「でも、それならあの数値は…」
「零王くんは100キロ超えてるから、エラーって出るんだよ。でもほら、手を離すと、握力計が適当な数字出しちゃうわけ。ネットとかで見たら分かるよ。あの数字は、本当の記録じゃない」
「…何で紅陵さんは逃げちゃったんですか?」
「ああ、それはな?」

今しれっととんでもないことを言われた。えっ、紅陵さん、100キロ?体重の間違いじゃないかと思うくらい信じられない。

二年生が話そうとした途端、天野君が肩の手を振り払い、私を引き寄せた。私が絡まれていると思って引き離してくれたんだろうな。

紅陵さん、どこに行ったんだろう。

そんなことを考えていたら、武内先生が様子を見に来た。

「お前ら何騒いでるんだ。ん?この握力計……」

武内先生は紅陵さんの放った握力計を拾っている。何度か握ったり、スイッチを押したりして、動作を確認しだす。何度か押しても反応しなかったらしく、先生はふるふると握力計を振った。先生、握力計は振っても直らないと思います。

「……こりゃやりやがったな。おいお前ら、紅陵はどこだ」
「零王くんは早退したよ!」
「逃げたな!?クソ、これで二つ目だぞ…、だから握力測る時は俺に言えって……」

先生はため息をつくと、握力計を持って頭の後ろをかきながら去っていった。あれ、怒ってないのかな?紅陵さんが走って逃げるくらいだから、相当怒るんだろうと思っていたんだけど…。先生がどこか嬉しそうなのは、気のせいかな?

因みに、その後測った握力は、天野君が43キロ、私は…、ま、まあ、体力テストなんてどうでもいい。
…本当にどうでもいい!
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