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黒の帳 『一つ目の帳』

助け……?

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髪を切るためにハサミを向けられ、私は諦めて目を閉じていた。

どれくらい、切られちゃうのかな。
そう思っていたら、最初の一回でマナトさんが離れていった。目を開けると、マナトさんの手には私の髪が握られていた。

小指の爪より、うんと小さくて短い、髪が。

…え???

「き、切ったよ、ほらこれで満足?」
「………マナト、テメェ…」

背後から地響きのようなに低い声が聞こえる。

「だ、だって!無理、無理だって、こんなにカッコイイ人は無理!じ、地味男なんかじゃない、正反対。寧ろ…零王くんよりカッコイイかも…♡」

マナトさんはうっとりとした表情で私を見ている。

…どうしてだろうか。
C組の不良さんたちも、中学の時の人たちもそう。
どうして、顔だけでここまで態度を変えられるんだろう。
私の価値は、顔しかない。
まるで、そう言われているようで…傷つくなあ。


私を羽交い締めにしていた腕が急に動き、首を締め上げた。息苦しくなり、腕を掴んで引き剥がそうとしたが、全く動く様子は無い。

「…ひっ、……ぅ…」
「ちょっとワタル!?止めてよ!」

マナトさんは焦ったように私の元へ駆け寄ろうとするが、他の二年生に止められた。もう訳が分からない。
顔を見て態度を変え、助けようとする人、そんなことは関係ないと言わんばかりに私を締め上げる人。紅陵さんと氷川さんの親衛隊、個性的過ぎませんかね。

「イケメンだか可愛いだかなんだか知らねぇけどよ、俺は零王の強ぇところに惚れ込んだんだ。顔なんか、関係無い。強くて、男らしくて、カリスマ溢れるあの姿、俺はそんな零王が好きなんだ。なよっちい面食いの言うことなんざ知らねぇな」
「おう、顔だけで簡単に乗り換えるような奴なんか知らねぇよ。コイツの制裁は俺たちがやる」
「……ぁ……ふっ…」

息苦しくなる程度だった腕の締め具合がぐっと強まり、いよいよ本格的に息が出来なくなってくる。
必死にもがいても、離して、くれない。


中学の時、面白半分でクリミツに首を絞められたことがある。あの時だって、本当に、死ぬかと思った。首にはしばらく手の痣が残って、体育はずっと休んだし、家でも絶対バレないように過ごした。あの時、気を失うまで首を絞められて、ああ、死んでしまうのかな、と、遠のく意識の中でそんなことを考えさせられた。

水を溜めた洗面台に、顔を押し込まれたこともあった。鼻からも口からも水が入ってきて、くるしくて、くるしくて。足も手も動かして、暴れても、止めてもらえなかった。結局その時も、気を失うまで水に入れられていた。


いやだ。
だいきらいだ、あの感覚、この、感覚。
自分がどこか遠くへ行くような、逝ってしまうような。
また、それを味わうのか。

引き剥がそうとする腕に、力が入らなくなってくる。
滑稽だろうけれど、空気を求めて開く口が、ぱくぱくと動く。

…あ、やだ、しにたくない。

「……っ、ヒュッ、げほっ、は、ハァッ、う"えっ、ひっ……」
「やべやべ、トばすとこだった」
「あっはっは!気をつけろよー?」
「止めてっ、ワタル!いい加減にしてよ、前の子だってそれで入院したんだよ!?分かってないの!?」
「そんなの零王もやってるし、問題ないだろ。今更だ」
「そーそー、結局この子もヤリ捨てポイっしょ?だったら俺らが今シメちゃっても変わんないよねって話。これ以上女々しい奴が零王に引っ付くのやなんだよねぇ。性処理係はお前らだけでジューブン!」

突然腕を離され、私は床に倒れ伏せた。周りの音や声は聞こえても、意味が全く頭に入ってこない。急激に取り込まれる酸素に体がついていかず、何度も咳き込んだが、必死に深呼吸した。

死ぬかと、思った。
本当に怖かった。

逃げないと。

呼吸はまだ整っていないが、勢いよく立ち上がって駆け出す。

「…ぅわっ!!」
「はいざんねーん!逃げれるわけねぇっつーの、ホント笑える」
「ワタル、止めさせて!」
「おい、誰かマナト連れてけ。うるせぇったらありゃしねぇ」

誰かに足をかけられ、簡単に転ばされた。倒れてすぐに背中を踏みつけられ、呼吸が整っていなかったのも相俟って、また、苦しくなる。

もうやだ、息苦しいのは、いやだ。

天野君に胸ぐらを掴み上げられた時なんか、比べ物にならない程の苦しさだ。

死が、身近に感じられる、息苦しさ。
怖くて怖くて、仕方がない。
私にとって、息苦しさとは、銃と同じくらい、怖い。

どうにか逃げ出そうと伸ばした手も、勢いよく踏みつけられた。それでも、手の痛みより怖さが勝る。


満足に呼吸が出来ない。
しんじゃうかもしれない。
…こわい。


耐えきれなくて、頬を雫が伝った時。

急に背と手にあった重みが消えた。

「………うおっ!?」
「ちょっ、誰だお前!!!」
「…誰でもいいだろ」

金属で床を擦るような、不快な音が一瞬した。教室にある物からして、今の音は机?
とにかく、重みが消えた。これで立ち上がれる。息も、出来る。でも、恐怖のせいか、足が竦んで立ち上がれなかった。

状況だけは確認しようとすぐさま顔を上げて見えたのは、倒れている二年生と、残りの二年生に向かって机を投げつけるクリミツの姿だった。クリミツはすぐさま別の机を持ち上げている。

…机って投げる物だっけ。
多くの人が動揺していたが、ワタルと呼ばれていた二年生が前に立ち、クリミツを睨みつけている。あの人が、私の首を強く絞めていたんだ。

「…………くりみつ…」
「あっ、コイツ…昨日渡来とやり合ってた奴だ!」
「渡来と?…なら、俺が年功序列ってやつを叩き込んでやる」
「じゃあ俺は実力主義を叩き込んでやりましょーかね」

クリミツはそう言って笑うと、机を投げつけてワタルさんに殴りかかった。ワタルさんはそれを避け、クリミツに応戦する。
私は床にへたり込んだまま、彼らの殴り合いを見ていた。クリミツがかなり優勢だ。勝てそうだな、なんて、どこか遠くにいる自分がそう考えていた。

「てめっ、一年のクセに…」
「実力、主義って、言っただろうがッ!」
「ぐッ……ぁ…」

相手は二年生だが、中学でタケノコのように背が伸びたクリミツの体躯は、ワタルさんの背を上回っている。クリミツはその体躯を利用して、器用にワタルさんを押さえ込むと、その顔に膝蹴りを食らわせた。うわ、痛そう…。

ワタルさんは激痛のあまり、顔を押えることなく床に倒れた。クリミツは二年生相手に無傷で勝ってしまった。ワタルさんはかなり強い人だったらしく、ワタルさんが倒れたのを見た他の二年生は、クリミツにどう出るべきか決めかねている様子だった。

いつもなら、かっこいいな、そう思うだろう。

でも、先程首を腕で絞められて、窒息への恐怖を思い出したばかりだ。
今の私には、クリミツのその力の強さが、恐怖でしかない。私に窒息への恐怖を植え付けたのは、クリミツだから。

床に倒れ込んだワタルさんをぼーっと見ていたら、クリミツが私のすぐ隣に立った。その体から出来る影が、私に差したので、何気なくクリミツを見上げた。

クリミツは、暗い、暗い目で、私を見ていた。
私が憎くて仕方ないと言わんばかりの、あの目だ。

その目は、嫌だ。
背筋を冷たいものが伝っていき、未だに足に力が入らない私は後ずさることで距離をとろうとした。
怖いけれど、目を逸らしたら何をされるか分からない。
中学のいじめの時の口癖はいつも、俺の顔をちゃんと見ろ、だった。怖い目が嫌だったけれど、顔を逸らせば、逸らした回数の分だけ腹を蹴られた。内蔵が潰れてしまったかと思うほどの激痛に耐えきれず吐いてしまい、クリミツにも、クリミツの後輩にも笑われた。酷い時は、その吐瀉物に、顔を、押し込まれて……っ…

いじめのことは謝ってもらった。もういじめられないのに、刻み込まれたいじめの記憶はいとも簡単に私の理性を飲み込んでいく。

「……い、や、いやだ、止めて、お願いっ…」
「…………お前…何なんだよ、マジで」

クリミツは忌々しげに舌打ちすると、私に向かって手を伸ばしてきた。あ、殴られる、いや、髪を引っ張られる?
もう、止めて、
嫌だ、
だれかたすけて






「あっ、クリミツ。お前トイレじゃなかったか?…あれ、これどういう状況?」


龍牙の、声?



その声を聞き、私は正気を取り戻した。
そうだ、今は中学生じゃない。クリミツはもう私をいじめない。きっとこの手も、私を立ち上がらせようと伸ばしてくれたに違いない。

クリミツは龍牙に驚き、手を引っ込めた。

…?

クリミツは何故、気まずそうに手を引っ込めたのだろう。ただ手助けをするなら、動揺する理由なんて無いはずだ。引っ込めたということは、龍牙に見られると不味いこと、後ろめたいことがあるということ。

例えば、いじめとか。

急に、体温がぐっと下がったような気がした。
昨日の謝罪は?ここ数日の態度は?全部嘘だった?
クリミツは、龍牙に隠れて私をいじめるつもりなのかもしれない。

その考えが浮かんだ瞬間、私はこの場から走り去りたい衝動に駆られた。しかし、足がまだ竦んでおり、立ち上がることが出来ない。

二年生は、これ以上目撃者が増えるのは不味いと考えたらしく、ぞろぞろと教室を出て行った。倒れたワタルさんは、何人かの二年生が引きずっていった。

危機は、去った。

そのはずなのに、怖くて仕方がない。

中学の時、私を苦しめ続けたその張本人が、すぐ隣に居るからだ。



怖くて辛くて殺されかけて、誰も助けてくれなかった。そのことをまざまざと思い出してしまった私は、胸の当たりを強く掴んで伏せた。

胃の中身が無いにも関わらず込み上げる吐き気、
隣の彼から一目散に逃げ出したい恐怖、
そういった激情をやりすごす、私のやり方。

大丈夫、私は大丈夫。
大丈夫、大丈夫、大丈夫大丈夫大丈夫。
中学だって、苦しくても、痛くても、何だかんだ大丈夫だった。
今だってこうして生きている。
大丈夫、大丈夫に決まっている。
体さえ無事であれば、心が串刺しになろうとも平気だ。

頭の中で何度も唱え、それで頭をいっぱいにしていく。
悩みなんて、心配事なんて、全部、ころせ。
邪魔なものは全部ころしてしまえ。

「どうした鈴、吐きそうなのか?なあクリミツ、鈴どうしたんだよ」
「…知らね。俺教室行ってるから」
「……鈴、話せないなら話さなくていい。そんなに握ったら痛いだろ?とりあえず起き上がろうぜ」

龍牙が私の隣に座り込み、優しく手を摩ってくれる。床に突っ伏しているにも関わらず、私の状態を把握し、擦るために脇の隙間から態々手を差し込んでくる優しさといったら…。

でも、今の私には毒にしかならない。
余所事を全て頭から除け、自分は大丈夫と暗示をかけなければいけないからだ。

龍牙の手を振り払い、止めて、放っておいてと叫びたい気持ちを必死で堪えた。だって、龍牙は善意で私に話しかけているんだ。それを蔑ろにしては、可哀想だ。それに、どうしてそんな反応をするかと聞かれたら答えられない。クリミツにいじめられていたから、怖くて震えている、なんて、言えない。

そんなことをしたら、家族みたいに仲の良い、私たち三人の関係が終わってしまう。


だから、全部私の中に閉じ込める。

クリミツへの恐怖も、隣の龍牙への煩わしさも。

私はただ体調不良のふりをしていればいい。
それで、全部解決だ!

私一人が耐えれば上手くいくなんて、素敵なことだ。人一人が耐えきってもどうにもならないことは沢山あるから、とても幸運だ。私一人が耐えれば全部解決!

段々、自分が自分でなくなるような気がしたが、そんなことはどうでもいい。
捨て子が自分を持ったところで意味など無い。


胸を掴むのを止め、突っ伏していた上半身を上げ、龍牙に笑いかけた。

「ふふっ、もう大丈夫だよ!」
「……………」

何でかな。

私、平気だよ?
私、何ともないよ?
ほら、笑ってるよ?



どうして龍牙は、笑ってくれないの?
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