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黒の帳 『一つ目の帳』

憂鬱

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落ち着くまで暫く時間を置き、漸く私は教室を出た。他の二年生にじろりと睨まれたので、学年章を隠しつつコソコソと階段を降りていく。

あの後、起こった出来事を反芻して、大反省した。龍牙からクロッケスを受け取ってないのかとか、渡来君達のこととか、何も聞けていない。久しぶり…といっても一週間も経っていないが、紅陵さんに会えて気分が高揚してしまい、その他のことがすっぽり抜け落ちてしまったんだ。でも、紅陵さんも覚えていたはずだろうに、話題に出さなかった。言わない方が、いいのかな。


私の感覚は、麻痺している気がする。
人が死ぬ光景を見たせいで、暴力に対しての感覚がおかしくなっている。この暴力は嫌、この暴力は平気、…意味が分からない。自分の中でも、よく分からない。自分が何に不快感を覚えるのか、何故嫌なのか。
その感覚を正したいのだとしたら、この高校程相応しくない場所は無いだろう。暴行強姦と隣り合わせの不良校。
まあでも、自分で選んだ場所だ。それに、学費のこともあるが、もう一つ理由もある。それが達成出来たらいいのだけど、今は学校に慣れることを最優先しよう。自分の立場を確立しなければ。

教室の前まで来たところで、誰かに後ろから突撃された。文字通り、突撃だ。細身かつ貧弱な私が、そのミサイルのような衝撃に耐えられるはずもなく、ドサっと勢いよく廊下へ投げ出される。

「テメェ!!!」
「うわぁっ!?」

すぐさま立ち上がり、突撃してきた人を確認した。

「あ、天野君?」
「天野君?じゃねぇよ!!テメェのせいでとんでもねぇ目に遭ったわ!!!!」

胸元を掴まれガクガクと揺さぶられる。天野君、何があったんだろうか。まさか横山君に何かされたわけではあるまいし。相当怒っている。
とにかく訳を聞いてみよう。

「ぅああああとんでもない目って何いいい」
「あー、テメェには内緒なんだった。今の話忘れろ」

何て気分屋だ…!パッと離され、苦しかった呼吸が楽になる。けほけほと胸をさすりながら、天野君に話しかけた。忘れろとか、どういうこと?

「でも、突進してきて、その上揺さぶって」
「わ、す、れ、ろ。いいな?」
「分かったよ…」

腕を組んで圧をかけてくる天野君には、もう何も言わない方が良さそうだ。

「…はー、何か安心する」
「え?」
「お前、結構マトモだよな」
「そう…かな」
「いや、マトモだ。俺が今逃げて来たところに比べたらな…」

そうぼやく天野君の顔は、心做しかやつれているように見える。相当酷い目に遭ったみたいだ、可哀想に。

「…明日は、一緒にお昼食べない?」
「昼?…あ、テメェどこ行ってたんだよ」
「裏番さんと二人でお昼」
「…………んじゃあ、明日は俺も連れてけ。それでいい」
「分かったよ」

後で紅陵さんに、こ、交換した連絡先で、連絡しよう!最初に送るメッセージというのはどうしたらいいか分からないが、天野君のおかげでそれらしい理由が出来た。

それに、正直二人きりのお昼はドキドキするし、身の危険を感じる。好きと性欲はまた違う。あっさりぱっくりいかれないように、適度に距離を置いておかなければ…若干手遅れな気もするが。


教室に入ると、皆の視線が一気にこちらに集中した。でも天野君が舌打ちした途端、皆一斉に逸らしてしまった。昼前と同じ席に座り、隣の天野君に睨まれながら授業を受けた。

龍牙は、居ない。
もう立派な不良だなあ。私に合わせて授業を受けていたのだろう。元々そこまで真面目な性格ではない。律儀ではあるが、退屈なことには耐えられない。私と受ける、という理由が無くなった以上、教室に居る必要は無くなったわけだ。…いや、学生だから居るべきだと思う。まあこの不良校でそんな正論を振りかざしても、仕方ないか。




「………マジか、死ねよ」
「どうしたの急に」

隣の天野君が突然、物騒なことを言い出した。

何にキレたんだ。まさか私がやっている国語の問題を読んだわけではないだろう。今読んでいる小説の主人公は、中々に表現し難いロクデナシだ。

「…外見ろガリ勉。机ばっか見てんだから分かるわけねぇだろ」
「………ああ、雨?そんなに嫌いなの?」
「違ぇよ、今日傘忘れたんだ。…ダリィ」

机に肘をつき、気だるげな目で外を見つめている。彼の視線には何だか、雨以外にも憂鬱なものが見えるような気がする。紅陵さんのように気だるげな細い目元は、少しだけ、かっこいいかもしれない。彼にも高校生らしい、子供っぽいところと大人っぽいところがあるんだな。

「……家に、帰りたくないの?」
「なっ、何で知ってんだっ気持ち悪ぃ」
「ううん、何か、嫌そうだなーって思っただけ」
「…エスパーかよ、それもキモイ」

天野君は投げやりに呟くと、机に突っ伏してしまった。もう話す気はありませんよ、ということだろう。
大抵の不良さんは家庭問題を抱えている。勿論、龍牙のように当てはまらない人も居るので、あくまで多いという話だ。天野君も、お父さんかお母さん…いや、家族?保護者?その人が嫌なのかな。それとも私のように誰も居ないのかな。
…いや、勝手に人の問題を推測するものじゃない。仮定は仮定でしかないし、予想も予想でしかない。妄想なんて以ての外だ。

「…私傘持ってるよ」
「…………」
「一緒に帰らない?」
「テメェが、絡まれねェようにな。俺が送ってってやるよ。お前のためにだぞ。傘なんかじゃねェ」
「………うん、お願いしたいな。私喧嘩弱いから」
「へっ、感謝しろよ」

上から目線の言い方にほんの少しの苛立ちを覚えた。でも、その声色に、少し同情した。弱々しくて、でも、助けは求めない。そんな声だ。突っ伏しているからよく聞こえないけど、明らかに声に覇気がない。

「…天野君」
「…………何」

何だ、とか、あ?とか、そんな返事じゃない。弱々しい。何だろう、お昼でそこまで削られたのかな?
私は卑怯だ。
天野君が怒っていないから、天野君から攻撃がとんでくる可能性が無いから、私はズルいことを言う。

「家来る?私一人暮らしなんだ」
「…誰が行くか、馬鹿」
「そう」
「…」
「…」
「………でも」
「ん?」
「気が向いたら、行ってやる」

それっきり、天野君は何も喋らなくなってしまった。私が呼びかけても返事を寄越さない。

今のは嬉しかった。ちょっと歩み寄れたかな。高校生にもなって急に泣き出した私を、そんな義務はないのに、話を聞いて相談相手になってくれた。ちょっと変わった友達とか、なれたらいいな。
それに、私の情けない姿、というよりも、素を見て欲しい。それで、根暗野郎はだせぇけどまあまあ良い奴、みたいな評価になってくれないかな。多分今の評価は最底辺だろうから。

そうしたら、素顔を見ても、
態度が変わらないかもしれない。

私にドキマギして、私は普通で居たいのに、勝手に顔を赤くする、そんな人じゃない、本当の友達が出来るかも。
私に過剰な反応を示す周りの人はちっとも悪くないし、こんなことを思う私は性格が悪い。人に好意を持たれるのは決して悪いことではないし、持たれたくないのであれば人を遠ざける選択肢を取るべきだ。それをしない以上、文句を言うのはお門違いというもの。結局私はただの寂しがり屋だ。

でも、それでも、普通の友達が欲しい。

龍牙とクリミツが居るのにそんなことを思う私は、やはり、我儘だ。

でも、寂しい。


きっと今の私は、自分の心の拠り所を欲している。
そして、その役割を果たしてくれるのが、
あの人だけだということも分かっている。


…龍牙、仲直りしたいよ。
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