60 / 153
黒の帳 『一つ目の帳』
ちゃんと言ってください
しおりを挟む
抗う気力を完全に削がれたその時、突然、氷川さんが後ろへ飛び退いた。
その理由はすぐ分かった。
飛び退いてすぐ誰かがそこへ降り立ったからだ。先程氷川さんが開けた窓から、人が飛び込んできたんだ。しかも着地点は氷川さんが居た場所。…ここ二階じゃなかったっけ。
足から勢いよく侵入したその人は、綺麗な天然の赤髪を靡かせ、その美しい顔を歪めた恐ろしい形相で氷川さんを睨みつけている。
紅陵さんだ。
何が何だか分からない。
「……ぇ…っ…、は、…?」
「ふふ、来ると思ったよ。君、こうでもしなきゃ来ないもんね」
「今のはどういうつもりだ氷川。理由に拠っちゃァ渡来の弟の隣に並べてやる」
「簡単簡単、逆にこの僕が認める秀才の君に分からないのかな?彼に髪の毛程も興味のない僕が、何故こんなことを試みたのかくらい、考えたら分かることだろう?」
「………だとしても、謝れ」
「はァ?」
「見ろ!クロちゃんの顔!!ンなに怯えて…」
いや、待ってください、状況がよく分かりません。
氷川さんが私の服を脱がそうとして?
助けようと二階の窓から紅陵さんが突っ込んできた?
喉が凍ったかのように言葉が出てこない。先程のは尋常ではない恐怖だった。渡来君のようにそれらしい表情でこれからすることを彷彿とさせるのも、氷川さんのように淡々と進められる方も恐ろしい。
…まあそんなことは知りたくなかったが。
「ごめんごめん、今のは冗談だよ」
「じょう………だん…?」
「うんっ、ほら、紅陵が来ただろう?彼はたまに校舎の外壁を伝って移動するんだ。今のはそれを狙ったわけ。無理やり犯されそうな君を見れば飛び込んでくると思ったんだよ、当たりだったね!あ、因みに今の行動には紅陵を引き寄せる以外に何の意味も無いから安心して?」
この僕が君の為に態々やってあげたよ!
とでも言いたげな笑顔だ。ここまでして紅陵さんを呼び寄せる必要はあっただろうか。かなり怖かったのだけど、氷川さんにそれは分からないだろうな。分かっていたらこんな事しないだろう。
…ん?
「………え?紅陵さん、校舎の外壁って…まさか…」
「ああ、屋上の扉で出待ちしてる奴がウザくてさ、じゃあ扉から出なきゃいいじゃんって思って。何回もやってる。今日も居たんだよな~アイツら」
「おっ、落ちるかもとか考えないんですか!?」
「まあ…落ちても死にはしねぇだろ、大丈夫大丈夫。氷川は俺がここ通ること知ってるからな。だから態々こんな教室に連れ込んだんだろ。…ごめんなぁクロちゃん、怖かったよな」
ヘラヘラ笑ったり、申し訳なさそうな顔をしたり。紅陵さんの表情はコロコロと変わる。最初に感じた無気力そうな印象とは違うな。カフェの時もそうだが、見た目に反してこの人は感情が豊かだ。
会えた、という実感が湧いてきた。
また会えたのが嬉しくて、つい口が緩みそうになる。
「…紅陵さんが謝ることじゃないですよ」
「そうか…そうだよな、謝るのは氷川…あれ?氷川?」
紅陵さんが不思議そうな顔をして目を向けたので、私もそちらに振り向くと、氷川さんは既にいなかった。
「アイツ…やるだけやって逃げやがったな」
「……あの、紅陵さん」
「ん?」
「…唐揚げ、いかがですか?」
勇気のいる一言だった。別に?とか言われたらそうですかと言って退散しなければならない。そもそも、唐揚げのことを覚えているだろうか。
でも、紅陵さんは笑顔で答えてくれた。
「勿論!」
教室に、二人きり。私が窓際の椅子に座ると、紅陵さんは一つ前の席に、私の方を向いて座った。紅陵さんは購買のパンを買ってきていたらしく、それらを机の上に置いた。
アンパン、メロンパン、揚げパン、クロワッサン…
「…見事に甘い物だらけですね。お砂糖摂りすぎじゃないですか?」
「いーのいーの、その分運動するし。クロちゃんも何か食べな」
「いや、大丈夫ですよ」
「……遠慮すんな。怖かっただろ。…マジでごめん。こんなんじゃ足りねぇけど」
「…じゃあ一つ頂きます」
紅陵さんは贖罪も兼ねているらしい。紅陵さんは何も悪くないと思うけれど、紅陵さんがそのつもりなら受け取らないのは失礼に当たる。
そう思って、一番近くにあったメロンパンを何となく手に取ろうとした。
何故取らなかったかというと、紅陵さんが反応したからだ。じっと見ていないと分からない程の小さな動作だった。手がピクっと動いていた。因みに、私が手を引っ込めた後も少し震えている。
「…うーん」
「どれでもいいからな」
今度はクロワッサンに手を伸ばす。すると、またしても紅陵さんの手がピクリと震えた。
まずい、笑いそうだ。私は極めて平静を装って紅陵さんに問いかけた。
「……紅陵さん、食べてもいいパンはどれですか?」
「メロンパンとクロワッサンと揚げパンとクリームパン以外でお願いします…」
申し訳なさそうに、それでいて正直に話すその様子には、氷川さんに怒った時の裏番らしき気迫は一切見られない。浮かべる苦笑いを見て、よくも悪くも正直な人だと思った。
「じゃあアンパンもらいますね」
「マジでごめん…………」
「誰だって好きな食べ物は食べられたくないですよ」
「俺が食べたいのはクロちゃん…」
「え?」
「聞こえないように言ったから気にしないで~」
その後も何気ない世間話をしながらお昼を食べた。
唐揚げは物凄く喜んでもらえたし、連絡先も交換出来た。氷川さんの行動は恐ろしかったけれど、結果的に紅陵さんとこんな和やかな一時が過ごせたのだから、後でお礼を言わなきゃな。
紅陵さんの見た目は浮世離れしている。
髪色も瞳も体格もそうだが、何より無気力そうで秀麗なこの顔貌は一体何人の人間が虜になっただろうか。
二人きりで静かな教室に居ると、この空間だけ異質なのではないか、そんな気持ちになる。本人には全くその気は無いのだろうが、どこか物憂げな瞳は翡翠に煌めいて…そういえば、左目は未だに隠されている。どうしてだろうか。この前こそ前髪を退けていいと言われたのに、私ときたらその髪の手触りに夢中になってしまったんだ。
今こそ見せてもらおう。
その理由はすぐ分かった。
飛び退いてすぐ誰かがそこへ降り立ったからだ。先程氷川さんが開けた窓から、人が飛び込んできたんだ。しかも着地点は氷川さんが居た場所。…ここ二階じゃなかったっけ。
足から勢いよく侵入したその人は、綺麗な天然の赤髪を靡かせ、その美しい顔を歪めた恐ろしい形相で氷川さんを睨みつけている。
紅陵さんだ。
何が何だか分からない。
「……ぇ…っ…、は、…?」
「ふふ、来ると思ったよ。君、こうでもしなきゃ来ないもんね」
「今のはどういうつもりだ氷川。理由に拠っちゃァ渡来の弟の隣に並べてやる」
「簡単簡単、逆にこの僕が認める秀才の君に分からないのかな?彼に髪の毛程も興味のない僕が、何故こんなことを試みたのかくらい、考えたら分かることだろう?」
「………だとしても、謝れ」
「はァ?」
「見ろ!クロちゃんの顔!!ンなに怯えて…」
いや、待ってください、状況がよく分かりません。
氷川さんが私の服を脱がそうとして?
助けようと二階の窓から紅陵さんが突っ込んできた?
喉が凍ったかのように言葉が出てこない。先程のは尋常ではない恐怖だった。渡来君のようにそれらしい表情でこれからすることを彷彿とさせるのも、氷川さんのように淡々と進められる方も恐ろしい。
…まあそんなことは知りたくなかったが。
「ごめんごめん、今のは冗談だよ」
「じょう………だん…?」
「うんっ、ほら、紅陵が来ただろう?彼はたまに校舎の外壁を伝って移動するんだ。今のはそれを狙ったわけ。無理やり犯されそうな君を見れば飛び込んでくると思ったんだよ、当たりだったね!あ、因みに今の行動には紅陵を引き寄せる以外に何の意味も無いから安心して?」
この僕が君の為に態々やってあげたよ!
とでも言いたげな笑顔だ。ここまでして紅陵さんを呼び寄せる必要はあっただろうか。かなり怖かったのだけど、氷川さんにそれは分からないだろうな。分かっていたらこんな事しないだろう。
…ん?
「………え?紅陵さん、校舎の外壁って…まさか…」
「ああ、屋上の扉で出待ちしてる奴がウザくてさ、じゃあ扉から出なきゃいいじゃんって思って。何回もやってる。今日も居たんだよな~アイツら」
「おっ、落ちるかもとか考えないんですか!?」
「まあ…落ちても死にはしねぇだろ、大丈夫大丈夫。氷川は俺がここ通ること知ってるからな。だから態々こんな教室に連れ込んだんだろ。…ごめんなぁクロちゃん、怖かったよな」
ヘラヘラ笑ったり、申し訳なさそうな顔をしたり。紅陵さんの表情はコロコロと変わる。最初に感じた無気力そうな印象とは違うな。カフェの時もそうだが、見た目に反してこの人は感情が豊かだ。
会えた、という実感が湧いてきた。
また会えたのが嬉しくて、つい口が緩みそうになる。
「…紅陵さんが謝ることじゃないですよ」
「そうか…そうだよな、謝るのは氷川…あれ?氷川?」
紅陵さんが不思議そうな顔をして目を向けたので、私もそちらに振り向くと、氷川さんは既にいなかった。
「アイツ…やるだけやって逃げやがったな」
「……あの、紅陵さん」
「ん?」
「…唐揚げ、いかがですか?」
勇気のいる一言だった。別に?とか言われたらそうですかと言って退散しなければならない。そもそも、唐揚げのことを覚えているだろうか。
でも、紅陵さんは笑顔で答えてくれた。
「勿論!」
教室に、二人きり。私が窓際の椅子に座ると、紅陵さんは一つ前の席に、私の方を向いて座った。紅陵さんは購買のパンを買ってきていたらしく、それらを机の上に置いた。
アンパン、メロンパン、揚げパン、クロワッサン…
「…見事に甘い物だらけですね。お砂糖摂りすぎじゃないですか?」
「いーのいーの、その分運動するし。クロちゃんも何か食べな」
「いや、大丈夫ですよ」
「……遠慮すんな。怖かっただろ。…マジでごめん。こんなんじゃ足りねぇけど」
「…じゃあ一つ頂きます」
紅陵さんは贖罪も兼ねているらしい。紅陵さんは何も悪くないと思うけれど、紅陵さんがそのつもりなら受け取らないのは失礼に当たる。
そう思って、一番近くにあったメロンパンを何となく手に取ろうとした。
何故取らなかったかというと、紅陵さんが反応したからだ。じっと見ていないと分からない程の小さな動作だった。手がピクっと動いていた。因みに、私が手を引っ込めた後も少し震えている。
「…うーん」
「どれでもいいからな」
今度はクロワッサンに手を伸ばす。すると、またしても紅陵さんの手がピクリと震えた。
まずい、笑いそうだ。私は極めて平静を装って紅陵さんに問いかけた。
「……紅陵さん、食べてもいいパンはどれですか?」
「メロンパンとクロワッサンと揚げパンとクリームパン以外でお願いします…」
申し訳なさそうに、それでいて正直に話すその様子には、氷川さんに怒った時の裏番らしき気迫は一切見られない。浮かべる苦笑いを見て、よくも悪くも正直な人だと思った。
「じゃあアンパンもらいますね」
「マジでごめん…………」
「誰だって好きな食べ物は食べられたくないですよ」
「俺が食べたいのはクロちゃん…」
「え?」
「聞こえないように言ったから気にしないで~」
その後も何気ない世間話をしながらお昼を食べた。
唐揚げは物凄く喜んでもらえたし、連絡先も交換出来た。氷川さんの行動は恐ろしかったけれど、結果的に紅陵さんとこんな和やかな一時が過ごせたのだから、後でお礼を言わなきゃな。
紅陵さんの見た目は浮世離れしている。
髪色も瞳も体格もそうだが、何より無気力そうで秀麗なこの顔貌は一体何人の人間が虜になっただろうか。
二人きりで静かな教室に居ると、この空間だけ異質なのではないか、そんな気持ちになる。本人には全くその気は無いのだろうが、どこか物憂げな瞳は翡翠に煌めいて…そういえば、左目は未だに隠されている。どうしてだろうか。この前こそ前髪を退けていいと言われたのに、私ときたらその髪の手触りに夢中になってしまったんだ。
今こそ見せてもらおう。
0
お気に入りに追加
432
あなたにおすすめの小説
学院のモブ役だったはずの青年溺愛物語
紅林
BL
『桜田門学院高等学校』
日本中の超金持ちの子息子女が通うこの学校は東京都内に位置する野球ドーム五個分の土地が学院としてなる巨大学園だ
しかし生徒数は300人程の少人数の学院だ
そんな学院でモブとして役割を果たすはずだった青年の物語である
風紀“副”委員長はギリギリモブです
柚実
BL
名家の子息ばかりが集まる全寮制の男子校、鳳凰学園。
俺、佐倉伊織はその学園で風紀“副”委員長をしている。
そう、“副”だ。あくまでも“副”。
だから、ここが王道学園だろうがなんだろうが俺はモブでしかない────はずなのに!
BL王道学園に入ってしまった男子高校生がモブであろうとしているのに、主要キャラ達から逃げられない話。
ずっと夢を
菜坂
BL
母に兄との関係を伝えようとした次の日兄が亡くなってしまった。
そんな失意の中兄の部屋を整理しているとある小説を見つける。
その小説を手に取り、少しだけ読んでみたが最後まで読む気にはならずそのまま本を閉じた。
その次の日、学校へ行く途中事故に遭い意識を失った。
という前世をふと思い出した。
あれ?もしかしてここあの小説の中じゃね?
でもそんなことより転校生が気に入らない。俺にだけ当たりが強すぎない?!
確かに俺はヤリ◯ンって言われてるけどそれ、ただの噂だからね⁉︎
真冬の痛悔
白鳩 唯斗
BL
闇を抱えた王道学園の生徒会長、東雲真冬は、完璧王子と呼ばれ、真面目に日々を送っていた。
ある日、王道転校生が訪れ、真冬の生活は狂っていく。
主人公嫌われでも無ければ、生徒会に裏切られる様な話でもありません。
むしろその逆と言いますか·····逆王道?的な感じです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる