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黒の帳 『一つ目の帳』

裏番の本性

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紅陵さんが、私を宥めている。いや、慰めてくれている。

「よしよし、クロちゃん。ちょっと話そうな」
「………」
「片桐はなぁ…、今メンタルやべぇんだ。色々あったっぽいし」
「あのカナリアちゃん、キレんの早くなァい?」
「カナリアって、片桐のことか?」
「そうだよ~」

後から冷静に考えてみれば、私が不可解な顔をした、それだけのことで龍牙の気を損ねてしまった、ということになる。その程度で龍牙をあれ程揺さぶってしまうのであれば、あの時私が追いかけるのは悪手だったのだろう。クリミツの判断は、懸命なものだった。

「…龍牙に、何かあったんですか。紅陵さんは、それを、知ってるんですか」
「……まあな。クロちゃんがトイレ行った時に、色々教えてもらった」

私には、言えないことか。
幼なじみの私には言えないのに、会ったばかりの紅陵さんには、言えるのか。
龍牙は私に頼れと言うけれど、龍牙は私に頼ってくれないんだろうか。私が龍牙に嘘をついたから、龍牙の居ないところで危ない目に遭うから、駄目なんだろうか。
龍牙の悩み事は、もしかして、私に関するものなのか。だから私に言ってくれないのか。

屋上で、龍牙に抱きしめられながら安心して眠りについた時を思い出す。
私は、迷惑をかけているのだろうか。
それとも、私には分からない私自身の何かが、彼を困らせているのだろうか。
龍牙には笑っていて欲しいのに。

「…クロちゃん、考えちゃダメぁ。あのな、片桐は、いつか鈴に伝えるつもりだって言ってたんだ。だから、大丈夫。待ってたらいい。片桐は今、自分の心を制御出来てねぇんだ。…絶対クロちゃんのせいじゃない、それだけは言える」
「……はい…」

俯く私の頭を撫でながら、紅陵さんが低い声でゆっくり話してくれる。

いつか私に言ってくれるなら、ゆっくり、待てばいいのだろうか。龍牙に問い詰めたいけど、私はまだ知る時ではないのだろう。

紅陵さんとは昨日会ったばかりなのに、どうしてこんなに落ち着くんだろう。昨日会ったばかりの人に、保育園からの付き合いである幼なじみとの関係について助言をされたのに、どうして私はすんなり聞き入れているんだろう。
…頭が痛くなってきた。たったの三日で色々ありすぎたから、疲れているんだろう。

ふと顔を上げると、紅陵さんと目が合った。ずっと私を見ていたのだろうか。

「落ち着いた?」
「………はい、ありがとうございました。今日はもう帰ります」
「紫川さん、家までお送りしましょうか?」
「…氷川さん、敬語やめてください」
「……んん、これは失礼!紫川さん…、いや、黒猫ちゃんの言う通りにするよ」

氷川さんは年上なのに私に敬語を使う。ずっと気になっていたので申し出ると、あっさり敬語を取り払ってくれた。この気軽な感じ、きっとこれから振り回されるだろうけど、好きだなあ。呼び名には違和感を感じるけど、言ったところで変えてくれるような人には思えない。クリミツはマロン、龍牙はカナリア、と変わったあだ名を付けていたし、元々そういう人なんだろう。

送ってもらう、か。
先程の氷川さんを思うと遠慮したい。

「送ってもらわなくて大丈夫です」
「まあ僕、同じマンションに住んでるんだけどね」
「え、そうだったんですか!?」
「俺も、行っていいか。クロちゃん…何か心配だから。いや、違うな、一緒に帰りたいんだ。いいだろ?」
「…はい、じゃあ三人で帰りましょう」

紅陵さんが立ち上がり、私を見下ろして笑う。身長差は50cmといったところか。大人と子供みたいだ。
三人でその場から歩き出した。周りの人が遠巻きに私達を見ている。そうだよね、ここ二人の顔面偏差値凄いよね。私も街中でこんなコンビを見たらチラチラ見てしまうだろう。

…はっ、そういえば!

「紅陵さんっ、どうして氷川さんを殴ったんですか!?」
「あ、そうだよ紅陵!酷いよ~」
「チッ…覚えてたか。もっと速く殴ればあのことバレなくて済んだのになァ、殴り損だ」
「じゃあ僕は殴られ損か」
「「あっはっはっ!」」

「い、意味分かんないですよ、どういうことですか?」

紅陵さんは、過去を知られたくないからと、氷川さんを口封じで殴ったのか。痛々しい痣がある氷川さんは怒ってもいいはずなのに、紅陵さんとゲラゲラ笑っている。

「ふふ、黒猫ちゃん、いい事を教えてあげよう。紅陵は充分手加減してアレだよ。ほら、僕の歯折れてないでしょ?頬骨も無事だし!」
「色男が傷もんになっちまったなァ」
「責任取る?名字はどっちに揃える?」
「取らねーし揃えねーよ!」
「…そういうノリなんですか?」
「うん」「そうだな」

コントのような掛け合いをしては、二人で楽しそうに笑っている。
私も、龍牙とクリミツとあんな風に話していたことを思い出す。二人に会いたいなあ。
雅弘さんから聞いた、紅陵さんを部下にしようとするうんぬんかんぬんは嘘なのかと思う程、彼らは良い友人関係を築いているように見える。…暴力がコミュニケーションの手段のようになっているのは理解できないけれど。

「…氷川さんは、将来紅陵さんを、部下にするんじゃないんですか?」
「ん?何だそりゃ。氷川、そんなこと考えてんのか?」
「いいや?ああ…そうか、お爺様から聞いたんだね。あれはウチの愚父が言ったことさ、気にしないでくれ。僕にその気は無い。頭の切れる紅陵を置いておく器量は、流石の僕にもないからね。彼とはいい友人同士でいるさ。こちらへ引き込む気は」
「サラサラない、だろ?」
「ああ、その通りだ」

氷川さんは忌々しげに父親のことを零した。あまり親子仲がよろしくないようだ。
雅弘さんの話では、氷川組は頭で勝負するらしいけど、違うのだろうか。氷川組長さんは高校生の息子より頭が悪いのだろうか。

「氷川さん達は頭脳派じゃ…」
「アイツは僕より頭が悪い。アイツは現場を見ないからね。紅陵のことをちょっと賢いチンピラ程度に考えてる」
「ま、どう考えても堅実に生きた方がイイでしょ?俺頭イイし、未来ある若者なわけ。サツも法律も最近厳しいもんね。氷川はそっちで生きるみたいだけど」
「…ああそうだ。紅陵、サツといえば、病院・・から連絡が来た」
「病院?紅陵さん怪我でもしたんですか?」

病院と聞いた瞬間、紅陵さんの顔がサッと青ざめた。氷川さんはそれに気付かずに話を続けている。また、聞かれては不味いことだろうか。

「氷川っ、その話は」
渡来わたらい慎吾しんご明石あかししょう佐野さのたける…、全員、入院一ヶ月は固いって!あっはは、今回は何にキレたのさ、ねえ………ん、紅陵?」
「……クソ」

その三人は、名字だけだが聞いたことがある。今日の昼間、私を空き教室に連れ込んだ人達だ。紅陵さんが倒して私を助けてくれた。
彼らが入院?
氷川さんは紅陵さんの仕業だという様子で話している。

「…紅陵さん?」
「知りたい…か?」

紅陵さんが不安そうな目で私を見ている。知られたくないことだろうか。

あの時のことを思い出してみる。
美人が相手にするわけない、仲良くなれるわけが無いと言った明石君。彼らは間違いを犯しただけだ。

彼らとは、冷静に話をして、謝ってもらって、そこから仲良くなるという道がある!

そんな明石君達が入院したなんて、一体どういうことだろう。


よくよく思い出してみれば、紅陵さんに助けられた後、私は泣きっぱなしで視界が滲んでいた上、倒れている明石君達の方には目線を一切向けなかった。私が見ていない光景、それは酷いものだったのかもしれない。
思い出してみれば不自然な点がある。私はあの時、何か液体・・を踏んだんだ。確認しようとする私の顔を紅陵さんは抑え、液体を踏んだ靴を脱がした。

「……靴…」
「…血がついたら…い、嫌だろ」

血。
それが意味することを瞬時に察し、血の気が引いた。
あの場には、足を踏み出して、ぴちゃりと音が鳴る程、液体があったわけで。

「こっ…紅陵、さん」
「やりすぎたと思ってる。あんな光景見ちゃ…冷静でいられなかった」
「紅陵から連絡があってね。行ってみれば…あらまあ酷い光景。特に佐野健が酷かったらしいね。最近は大人しかったからなあ、ああやっとか~って感じ。紅陵の後始末は僕がやっているんだよ」
「そんなに…やってるんですか」

後始末、慣れたように口にするその様子を見る限り、かなりの事件を起こしてきたのだと分かる。

急に、隣にいる二人が恐ろしく見えた。

紅陵さんは、裏社会には足を踏み入れないと言っているけど、やっていることは、雅弘さんの御屋敷の人達と何も変わらない。寧ろそれで踏み入れないのだから、タチが悪い。
氷川さんは、ゲームを心から楽しむ高校生らしい人だけど、笑いながら、慣れたように暴力沙汰に対処している。

そうだ、そうだよ、私、不良校に入ったんだから…、いや。
不良校でもここまで酷いことって、あるんだろうか。私はどこかで甘く見ていたんだろうか、心のどこかで、たかが子供の遊びだ、と。

あの日。
蜂蜜色の、あの人と会った日。
あの人が居なくなった日。
あの人も、目の前の二人のように、見た目は優しく、中身が恐ろしい人だったんだろうか。

「クロちゃん…?」
「黒猫ちゃん?」

この人達の髪色は、蜂蜜色じゃない。
だからなんなんだ、私。居なくならないだとか思いたいのか。この人達を、あの人と重ねるのか。あの、優しい人。声も顔も思い出せない、名前も分からない、あの人。
違う、この人たちは、あの人とは違う。
はっ、はっ、と、呼吸が苦しくなってくる。

怖いんだ、私。

命が綿毛のように吹き飛ぶ裏社会が、現実染みてきた。氷川さんは?紅陵さんは?
殺されるだけじゃない、人を殺すかもしれない。

立ち止まる私を見て、氷川さんは笑い、紅陵さんは寂しそうにしている。

「…へえ。お爺様は随分優しく育てていたらしい。たかが三人だ、その上生きているというのにこの顔か。先が思いやられるねぇ…」
「クロちゃん、クロちゃん、なあ、ごめん、こんな…ごめん。俺、俺は…」

前を向くと、自分の住むマンションが見えた。

もう、限界だ。
二人をこれ以上、視界に入れたくない。

「…送ってくれてありがとうございました」
「クロちゃんっ!!俺、ごめんっ、ごめん!」
「………さよなら、黒猫ちゃん」

謝る紅陵さんの声と、氷川さんの視線を背に、私は逃げるように走り出した。




玄関に飛び込み、扉に背を向け深呼吸する。どくどくと心臓が早鐘を打っている。

「…ふふ、はぁ、走りすぎちゃったな」

呟いた声は、か細く、震えていた。
玄関に座り込み、ぼーっと写真立ての方を見つめる。
可愛い可愛い、シナノンちゃんのハンカチ。
ああ、シナノンちゃんといえば…。

ゴソゴソと鞄を漁り、小さな丸い物を取り出す。
今日のカフェでもらった、シナノンちゃんのコースター。

あの時の紅陵さんは、本当に、普通の人に見えた。
女性向けのパフェの名前を言わされて、照れていた。可愛らしい笑顔を浮かべて、大好きな甘い物にウキウキしていた。

「……何で?」

何でだろう。
何で、紅陵さんは、あんなことしたんだろう。あんなことと言っても、自分では見ていないから分からない。

あの時踏んだ液体、あれは全て、倒れていた彼らの血だったんだ。そう思うと、あの水音を思い出すだけで寒気がする。
どうして、そこまで彼らを傷つけたんだろう。

『あんな光景見ちゃ…冷静でいられなかった』

私が襲われていたことだろうか。

『特に佐野健が酷かったらしいね。最近は大人しかったからなあ、ああやっとか~って感じ』

彼は、佐野君に口を塞がれる私を見て、激情に駆られたのだろうか。

ふしだらな過去を知られたくない、可愛らしいパフェの名前を言いたくない。それは、果たして何だろうか、どういう感情からの行動だろうか。

聞かなくては。話をしなくては。
私の中の予想が、間違っていなければ、自惚れでなければ、
私も、同じ気持ちだって、言いたい。
私も、貴方と、仲良くなりたいです、と。

……
…ここで大変なことを思い出した。

そうだよ、前触れもなくキスされたじゃん!
それなのに両思いを確信したヒロインのような、よく分からない方向に行こうとしたぞ、私。
新しい環境で開放的になっているのかな…?

「…よーしっ、晩ご飯晩……」


途中で帰ってしまった龍牙のこともある。
明日も頑張らなきゃ!

私は勢いよく立ち上がった、いや、立ち上がろうとした。



「…?」




あれ?何故だろうか。

写真が歪んで見える。


次の瞬間、意識がぷつりと切れた。
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