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嗚呼……みだら……

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「勇者……今まで、あなたに辛く当たってごめんなさい……。私が間違ってたわ」

 マレフィアは、気の強そうな眉を下げ、長い睫毛に隠すように目を伏せる。

「そんなこと……いいんだ、マレフィア……いや、フィア……。僕はもう、気にしてない」

 意志の強そうな切れ長の目元を和らげ、青年は微笑むと、マレフィアのエルフ族特有の少し尖った長い耳に垂れ落ちた銀髪を掛けてやる。
 その手に、マレフィアは弾かれたように顔を上げた。

「だから……そんな顔しないで。いつもの、気の強いフィアで居て」
「勇者……うぅん、フォルト。……ありがとう、あなたって本当にいつも優しい。……ね、わかる? 私、いま……とってもドキドキしてるの」

 マレフィアの白い頬が淡く色付いていた。
 碧の瞳がきらきらときらめいて、勇者の生真面目で端正な顔を映している。

「触って、みて……」
「えっ……」

 マレフィアは、勇者の剣だこだらけの硬い手を取ると、それを自らの柔らかな谷間へと引き寄せていく。

 むにゅ、ん――。

 白い、ふわふわの、焼きたてのパンのように柔らかいその胸に、勇者の無骨な指が埋まっていく。

「ぁん――」
「ふ、フィア……!?」
「ね、ほら……ドキドキって、言ってる……わかる? わからない? なら、もっと……触って、確かめて……フォルト……」

 マレフィアの珊瑚色の唇が弧を描き、蠱惑的に微笑んだ。
 ぱさ、とローブが肩からずり落ちていく。

「もっと……たくさん……いままでの、お詫びに……」

***

「だはぁ――ふしだらッ!」

 私は思わず教育的指導を――

「……ハッ。な、なんだ、ゆ、夢!?」

 小さなランプの灯りが揺れる暗い部屋。
 私はふかふかの柔らかいベッドで、どうやらとんでもない夢を見ていたらしい。

「ふ、不埒な……ま、マレフィアめ……! 純朴な勇者を、魔女の毒牙にかけんと……おのれ、淫婦め!」

 ぎゅっと強く拳を握る。
 ドラゴン退治のあと、野営の場で勇者とマレフィアはとんでもなく距離が近かった。
 いったいなにがあったのか。
 マレフィアはこれまで、勇者に幾度となくきつく当たっていた。
 私にはその百倍くらいきついが。
 つい先日まで名前どころか勇者とすら呼ばず認めていなかった女が、随分な変わりようだった。

 勇者も。
 ずっと、マレフィアとベルラと仲良くしたい認められたいと言っていた。
 ようやくマレフィアに認められたことは、勇者の本懐であるから、私もそこは祝福したい。

 だが、しかし!

 マレフィアめ! 生真面目で純朴で無垢な青年に、あのようなふわふわの白パンめいた凶悪なブツをぐいぐいと押し付けて!
 甲斐甲斐しく世話などやいて!
 フィアって呼んではぁと、などと!
 勇者が勘違いしたらどうする!!

「嗚呼……! そんなっ……いやだ、神よ……どうかあの邪悪な淫婦から、勇者の清らかな魂をお守りください……。私の勇者……理想の若者……!」

 私に向けられる勇者の尊敬の眼差し。
 勇者が困ったときに頼れる相談相手は私。
 人々の希望たる青年の、心の拠り所とは私のはずなのだ!

「それを、マレフィア……色仕掛けなどで……」

 なまじ美人だからといって。
 ちょっと胸が大きいからといって。
 料理や裁縫ができるからと……
 魔法の腕も随一……

「うっ……い、意外にもあまり欠点が、ない……」

 馬鹿な。
 もっとなにかあるはずだ。
 そう、高慢なところや嫌味なところや私を馬鹿にしくさっているところや私をまったく名前で呼ばないどころか時々存在そのものを無視するところだとか……クソッ!

 考えれば考えるほどに心が乱れる。
 私は聖印を握りしめ、静かに祈った。

「……そうだ、あの勇者が、簡単に色仕掛けなどに落ちるはずはない。十八歳……そういう年ごろではある、が……だが勇者はそんな弁えのない青年とは違う……」

 深呼吸を繰り返す。
 そう、所詮あれはただの夢だ。私の不安が見せた幻のできごと。
 村長は我々に気前よくひとり一部屋をあてがってくれた。
 だから今ごろは、みんなゆっくりとふかふかのベッドで眠っているはずである。
 ベルラ、上掛けを蹴り飛ばしていないといいが。
 勇者も今くらいは穏やかに、なんの悪夢も見ることなく眠れているといい。
 マレフィア……そうだ、さてはあの魔導師、いつも寝る時に自分に目眩しの魔法を掛けていたのだな!? ふん、案外死ぬほど寝相が悪いかもしれないな。

 なんとなく落ち着いてきた。
 よし、私ももう一眠りしよう。

 そう思い改めてベッドに潜り込もうとした時だった。
 微かに、廊下の方で物音がした。

 まさか、泥棒……? 

 それとも、まさか……よもや……そんな……ありえないことだとは、思うが……。

 そろ、とベッドから降り、音を立てないようにそっと扉を細く開けた。
 廊下の壁に揺らめく影。ランプの灯り。
 ボソボソと話し声。

「……それじゃ……また、なにかあったら……今日はゆっくり休んで」
「ありがとう……フィア……」
「いいのよ……フォルト……ふふ」

 嗚呼……
 
 膝から力が抜けていく。
 私はその場に崩れ落ちた。

 なんということだ。こんな真夜中に。若い男と女が共に部屋で過ごすなどと。
 マレフィア……まさか、勇者に夜這いを……。
 勇者も、みすみすそれを受け入れて?

 そんな……。

 私の頭の中で、夢にみた光景が何度も何度も浮かんでは消えていった。
 重なり合う男女の陰。
 裸のお付き合い。
 嗚呼……みだら……。

***

「おはようございます、皆様。昨夜はよく眠れましたか?」
「はい、村長さん。おかげさまで。ありがとうございます」

 朝、村長邸の食堂に集まった我々は、旅の再開の前の腹ごしらえをしていた。
 目の前には、この村に来た日の夕食の質素さが嘘のように豪勢な朝食が並ぶ。
 瑞々しい果物、新鮮な卵のオムレット、濃厚なチーズ、カリカリに焼き上げられたベーコンに野菜たっぷりのスープ。そして焼きたてのふわふわの、パン。

「うっわ、ちょっとなによその顔。アンデッドにでも鞍替えしたの?」

 階段を降りてきたマレフィアが、私の顔を見るなりギョッとしたように言った。

「フィア。レリジオさんはどうもあんまり眠れなかったらしくて……」
「へぇ……。どうせ自分本位な旅日誌の捏造に熱中してただけでしょ」
「自分本位の捏造日誌だと……! 失敬なことを。良いかマレフィア、この勇者の旅は後世に語り継ぐべき大切なできごと。それを間違いなく世に遺すための日誌であって、決して捏造などなく」
「うまい! おかわり!」

 不名誉な疑いを払拭すべく熱弁を振るう私の声は、あろうことか健康優良児ベルラの三度目のおかわり要求の声に遮られた。

「はいはい。どうでもいいけどね。ほら、フォルト、あなたも座って。朝ごはんは大事なんだから。いっぱい食べて精をつけるのよ」
「ごふッ……」
「し、神官様!? いま布巾をお持ちします!」
「レリジオさんっ」
「きゃあっ!? ちょっと、なんなのよ、大丈夫!?」

 ぽたり、ぽたり。垂れ落ちる。
 ふわふわの白いパンが、真っ赤に染まる。
 
「食い物、そまつするのよくない」

 ベルラの意見は尤もであった。
 可哀想なふわふわのパン。

 慌ててやってきた村長邸の女中が、私の高い鼻にぎゅうっと布を押し当てる。
 嗚呼、苦しい……。息が……。
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