紫陽花

二色燕𠀋

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アダージョ

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 早めに閉店して雪子さんをいつも通り送って行くことになった。これはおっさんなりの、所謂“粋な計らい”と言うやつなんだろう。

「光也ー、雪子さん送ってって」

 とかいつものトーンで言いながらカウンターの下で親指立ててゴーサイン。俺もそれを返し、「へーい」と普通に返事をする。

「いつもごめんね」
「いえいえ」

 いつもと違うのは、お会計をしながらその時に、連絡先を交換した。メアドも電話番号もゲット。これは順調だ。

「そうだ雪子さん、」

 ふと、おっさんがレジにふらっと現れる。「ありゃ」とかわざとらしくにやにやしながら言うおっさんと、ちょっと照れ臭そうに俯く雪子さん。
 おっさんと目が合うと、にやにやしながらバックヤードを目で促された。一度引っ込んでコートを羽織り、もう一着、その場に掛かっていたジャケットを取る。

 このジャケットは臨時で外に出る時用に用意してある物だ。なんせベストは寒い。滅多に使わないからちょっと埃臭いかも。

 思い直して俺はコートを脱ぎジャケットを着てバックヤードから出る。やっぱり埃臭い。俺の姿を見るとおっさんはちょっと溜め息を吐いた。

「センスがないなぁ、着替えてきたらよかったのに。そしたらそのまま二人で飲み行けたじゃん。ねぇ?」

 雪子さんは緩く笑い、「お仕事残ってますから」と受け流した。

「じゃ、光也よろしくなー」

 雪子さんと二人で店を出た。コートを渡すと疑問顔だ。

「その格好じゃ寒いでしょ」

 そう言うと雪子さんは、「…ありがとう」と言って俺のコートを羽織る。
 昼間の雨の気配は微塵もなく、星が綺麗に出ていた。

「雨がやんでよかったね」
「ん?」
「雨の後って…星が綺麗に見えません?」
「そうかも」

 ふと雪子さんを見ると、なんだか疲れた顔をしていた。

「日帰りだったんですか?」
「うん、そうね…」
「だいぶお疲れのようで」
「やっぱり、旦那の親に会うって、疲れるのね」

 でも疲れて笑うその顔もまた美人で。

「久しぶりに会ったら、もう大丈夫よなんて言われちゃってね…」

 そう俯く雪子さんは切なそうだ。

「ちょっと、星でも見たいなぁ。公園行きません?」

 寒いけどね。この格好、寒いけどね。
 けど多分こんなときは、ちょっと話でもしたいのかなと思ったから。

「うん」

 いつもの公園まで歩き、ベンチに座ったところで思い付く。
 寒い。自販機確か近くにあった。

「ちょっと待っててくださいね」

 ベンチは座れそうだ。雨がやんで結構経つらしい。

 ホットココアを2つ買ってベンチに戻った。雪子さんは「ありがとう…」と言ってひとつ受け取った。
 いつもの癖で、ココアを手で転がしていると、「寒い?」と心配そうに言われてしまった。
 まぁ確かに寒いんだけど…。

「いや、まぁ寒いには寒いんだけど…。これ、癖です…」
「え?」
「なんかね、缶ジュースとか転がしてしばらくしてから飲むんですよ、昔から。多分腹弱いから、冷たい飲み物とか、手で暖めてから飲んでたからじゃないかなぁ」
「あぁ、なるほど…」

 「ちょっと失礼」と断って立ち上がり、タバコを吸う。白い煙が登っていく。あまりタバコを気にしない人ではあるけど。案の定雪子さんは「どうぞどうぞ」と許してくれた。

 空を見上げると木星が見える。そっか、そんな時期か。

「春ですね」
「え?」
「ん?」
「いや…星空を見上げてってなかなかないなぁって」
「変、ですかね?」
「いえ。ロマンチックだと思う」

 そう言って微笑むのがやっぱり美人だなぁ。疲れていても。

 手招きすると雪子さんも立ち上がって星を見上げる。タバコの火を消して携帯灰皿に吸い殻を捨て、蟹座のあたりを指す。

「あれがね、木星。あれ、この時期にしか見えないんですよ」
「へぇ…意外と光が弱いのね」
「そうなんですよー。望遠鏡で見ると綺麗なんだけど…」
「なんか…いいわね、こーゆーのも」
「え?」
「私はさ、お花屋さんだから季節の変わり目ってすぐにわかると言うか…。でも花っていつでも咲いてるから、本当に微妙な差なのよね。星も一緒なんだね」
「…そうですね。そう言われてみれば」
「人の一日と似てる。微妙に違う一日一日があって。ただ、星は目に見えて個体。花はよくよく考えれば個体」
「うん」
「でも星座は他の星がないと成り立たないし、桜は他の蕾がないと咲いてくれない」

 そこまで行くと宇宙の摂理みたいな話にまでなりそうな気がするけど。人間の心理なんてそんなもんかも。

 珍しくこれだけ話してくれている雪子さんの次の話を待つことにした。

「今日もさ、長野に帰ったって言ったじゃない?なんで私、行ってるんだろうって、思った。もう、正直義理の親でもなんでもないわけでしょ?
 あっちも迷惑なんじゃないかなって、そう、思った。
 だけど、毎回思うの。なんか切りたくないの。わがままかもしれないけどなんか切りたくないの。なんか、もう終わっちゃうかもしれないって、思いたくなくて」
「雪子さん」

 気付いたらやんわりと雪子さんを抱き締めていた。

 いつまでそうしてただろう。多分雪子さんは泣いていて、肩が震えていた。

「別に切らなくてもいいじゃないですか」
「でも、」
「過ぎたことに変わりはない。良い意味でも悪い意味でも。だから、これからを見ないと。
 消したい過去も消したくない過去も過去は過去だ。引き摺って擦り減った頃に漸く一人立ちするんだから」
「光也くん、」

 てか雪子さん、熱くないか?熱でもあるんじゃないかな。
 一度離して顔を見てみる。結構ビックリしてるみたいだ。

「ごめんなさい」

 一度謝って額に手を当てる。案の定目をきつく閉じられたけど今はそれより体調が心配だ。

 いい。これが嫌で店に来なくなってしまっても。あんたが凄く心配なんだ。

 すぐに目を開けてくれた。その目はやっぱりちょっと潤んでいて。

「無理したんでしょ。熱いですよ、かなり」
「そう言えば…、ダルいかも…」
「帰りましょ」

 どうやら雪子さんはぼんやりしてるようだ。
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