紫陽花

二色燕𠀋

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プール

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 教室からぼんやりと、窓の外を眺めていた。

 確か今は、社会科の授業で。学期末、授業内容が早めに終わってしまい、最近は自習の時間が増えた。今日も、自習だ。過去のテスト問題をたくさん配られ、ひたすら解いている。

 午後の自習の時間は眠い。微睡みの中、過去のテスト問題なんてやる気になれなくて私は寝そうになっていた。

 校庭のプールが窓の外にある。緑の、濁ったプールの真ん中に、何かが浮いていた。

 なんだろう?
 なんだか、縦長で人の形みたいだなぁ。大の字になった、人。

 よくマリちゃんが酔っぱらったときにみっちゃんのベットにあれで寝転んで怒られていたことがあったなぁ。シーツがシワになるって。そんな形だ。

 ん?
 待った、あれって、人?

 思わずその場で立ち上がる。静かな教室の視線を一気に浴びてしまった。先生も眠かったらしい。びくっとなって教卓から睨まれた。

小日向こひなた、どうしたいきなり」
「いえ、あの…
 ちょっと、ぐ、具合が悪いです、保健室、行ってきます!」
「お、おう」

 先生は名簿を手にした。まぁ授業早退くらい、いいや。

 走ってプールまで向かった。あれが人だったら大変だ。浮いてるってことは多分…。

 小さい頃を思い出す。金魚が浮いていた。それは死んでいたんだ。

 あれから私は生きて学んできたし、授業をやったりしている。浮いているのがすべて死んでる訳じゃないかもしれないけど、そうだ、あれは、うつ伏せだったかな、仰向けだったかな。

 でもなんであんなところにいるんだろう。落ちちゃったのかな?どこから落ちたら、あそこに辿り着くんだろう。

 走ってプールについた。シャッターが開いてない。どうしよう、どうやって入ろう。

 試しにシャッターを上に上げてみた。開いた。
 プールサイドにつく。はっきりと、人間だとわかった。この学校の生徒で、男。

 一応仰向けだ。ただこれは、どうやって救おう。

「あのー、生きてますか?」

 返事がない。困った。
 仕方ない。

 勇気を出してそのまま水の中に入った。もの凄く濁っているしスカートのせいでうまく進まない。

 と言うか、私あんまり泳ぐの得意じゃないや。

 だけどその人が顔だけ私の方へ向け、一度目が合えば、どんどん近づいてきた。

 あれ?生きてる?

 気が付いたらお腹辺りをがばっと掴まれ、プールサイドに引き上げられていた。

 ちょっと苦しかった。思わず噎せた。けれど寝転んで横目で見たその人も、両手をついて呼吸を整えていた。

 額に張り付いた茶色い前髪の隙間から見える、綺麗な切れ長の黒い目。

「…あんた、…なに?」

 切れ切れに言われた言葉。そして疲れたようで、その人も仰向けで寝転んだ。
 並んでみて身長差を感じた。

「死んでるのかと思って」
「えぇ?」

 怪訝そうな顔をして見つめてくる。

 なんか冷たい。視線が冷たい。

「教室でぼーっと外眺めてたら、目に入ったから、走ってここまで来たんですけど…」
「なんで?」
「なんでって…。
 いや、こっちこそなんでって聞きたいんですけど…授業中ですよ?」
「うん、なんでだろ」
「はい?」
「てかあんたさ、泳げないのになんで来ちゃったの」
「だって…」

 そう言うとその人は、堪えきれなくなったかのように笑った。

「面白いね。あんた何年?」
「1年です…」
「何組?名前は?」
「…4組の小日向です…」

 なんか、いやだなぁ。

「俺2年3組の浦賀うらがあゆむ

 どうやら先輩らしい。

 先輩は寝転んだ状態で、「気持ちいいね、コンクリートって」と、空をぼんやり見上げながら呟く。

 そのうち起き上がり、私に手を伸ばしてきた。その手を借りて私も起き上がると、立ち上がって出口へ向かう。私も後ろについていった。
 下駄箱の前で先輩はタオルを投げてきた。

「汚かったでしょ、プール。制服も最悪だろうからシャワー浴びてきたら?」
「え?」
「あ、大丈夫。嫌なら俺どっか行ってるから」
「いえ…あの…タオルは…」
「ん?あ、あぁ、気にしないで」

 そう言って先輩はふらっと外に出ていってしまった。
 確かに制服はどうにかしないといけない…。

 取り敢えず、シャワー室に入って体を流し、制服を水洗いした。
 仕方なく制服をもう一度着てシャワー室を出て外を覗くと、先輩が丁度帰ってきたところで、ジャージとハンガーを持っていた。

「はい。俺ので悪いけど。寒いでしょ」
「はぁ…」

 そう言って渡される。躊躇いがちに受けとると、男子用のシャワー室に入っていった。
 取り敢えず借りたジャージに着替えて制服は乾くようにハンガーに掛けた。

 どうしようかな…。

 まず…は、先輩を待とう。そう思ってプールサイドでぼーっとしていた。
 少ししてから先輩が来た。先輩もジャージに着替えていた。

「待ってたんだ」
「そりゃぁ…」
「あのさ」
「はい」
「タバコ吸っていいかな?」
「はい、え?」

 返事をする前にポケットからタバコを取り出して火を点けていた。まわりを見回してみたが、一応誰もいない。

「大丈夫だよ。この位置は誰からも見えないから」

 確かに先輩は、プールサイドと下駄箱の段差にしゃがんで吸っている。

「保健室にでも行こうか。したら洗濯機あるから」
「先輩」
「ん?」
「なんで、その…」

 あんなことしてたんですか?
聞いていいのかわからない。

「なんでだろうな。俺には理解できないや。でも意外と気持ちいもんだったな」
「…何か、あったんですか?」
「どうなんだろうね」

 まるで誰か、他人の事を話すような口調に、違和感を覚える。

「名前なんだっけ」
「小日向…小夜です」
「いい名前だね」

 ぼんやりと曇り空を眺めながら先輩は言った。タバコの煙で輪を作ったりして遊んでいる。

 吸い終わると、携帯灰皿を出し、吸い殻をしまう。

「お待たせしました小夜さん。行きましょうか」

 そう言って先輩は立ち上がり、振り返って歩き出した。私が掛けた制服を、下駄箱の中に入っていたビーチバックの中に入れる。あれは先輩のなんだろうか。最早ここまで来ると流されるしかない。先輩についていくことにした。

 シャッターを閉めると、丁度、チャイムが響いた。
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