碧の透水

二色燕𠀋

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「はい、はい」

 先程から上の空でそれを繰り返している、陽一はこの男の割れた笑顔が嫌いだった。

「まぁ上出来だろう。ちょっと温いがシメて月10か」

 ピンハネの件も、結果あと5万は田野倉から踏んだくれるだろうことも青柳に直接伝えた。
 青柳は偉く機嫌がよかった。
 だが、そんなものは陽一の頭に入ってこなかった。

「…なんだ川上くん。浮かねぇ面だな」
「いえ、」

 まぁ。

「青柳さん」
「なんだ?」

 そりゃぁ、膿が溜まって仕方がないからだよ。

「…雪があそこで働いてたの、ご存じですか?」
「あ?」

 割れた不機嫌そうな表情、眉間は皺を刻んだ。あからさまな変転に、陽一はやはりこの男が嫌いだと思った。

「まぁ、俺があそこに預けたからな」
「…は?」
「口の利き方をわかってねぇのかてめぇ。死んで姉ちゃんに教わってくるかおい」

 …被害者は、
 耐える。化膿は潰してしまうと悪化すると、いつか姉がピアスを開けた日に、そう言いながら、

「てめぇの姉貴だって同じようなもんだろ?アレになんの同情すんだよ」

 いつかそう言いながら姉が耳を弄っていたから、「止めた方がいいんじゃないの?」と、そう言ったことがあった。
 違う。

「…青柳さんの、息子さんじゃないですか。俺だって、」
「だから気持ち悪いんだよ」

 あっと、気付いたら。
 耳の膿は、潰れてしまっていたんだ。
 だから、ダメだって言ったのに。
 何が?誰が?何を?どうして?

 何か奇声を発しているような気がする。近くで、いや遠くで、どこか耳鳴りのように、ねぇ、ねぇ母さんと声をかけ、肩を引っ張っても。

「てめぇ何しやがる」

 青柳の着物の懐をひっ掴み、押し倒して殴りかかろうとしていた自分の拳は奪われた。

 走馬灯のように、冷たい病院の床と、点滴が引き抜かれ血が流れた腕で涙を拭った雪の姿を思い出した。
 
 我に返った瞬間には怒声にまみれ、側にいた舎弟たちに殴られていた。

 堰を切って、痛みが走る。どこか、腹か、胃液を吐き出している気がする、顔面か、頭か?気が遠くなるような気がする。どこが、何かが白くなっていく気がするのに泥のように吐かれた胃液かドス黒い血か……恐怖か。白いあの霊安室で見たあの姉のあの顔のあの青痣が近くに見えてくる気がしたのに。

「もういい止めろ、」

 低いドスの利いた青柳の命令にふわっと、上半身は浮いている気がして。
 舎弟に胸ぐらを掴まれていた。先に見える割れた睨みと、「死んじまうだろうが」と、口元を歪めた青柳に力が、抜けてしまった。

 舎弟がそのまま手を離して体は畳に叩きつけられた。
 一気に襲ってくる麻痺した皮膚感覚は痛みをじわりと伝えてくる。
 無様に、声をあげて泣いた。

 …どこまでいっても関係性なんて一ミリも、変わらない。

 痺れた脳が、青柳がすぐ側まで来て「言い過ぎたわ」と、その頭を、けして優しくはないが撫でたのだと伝達した。
 少ししゃくりが治まるまで、青柳の手はそこにあった。

 呼吸を取り戻し身体の熱が汗として覚めてきた頃に「雪は…」と言う、青柳のゆったりした声が聞こえた。

「知子が隠れて産んだ子供だった。俺が自分の遺伝子を受け入れられないと、第一子をおろさせた次の年だった。
どうしても産みたかったんだと言われ、俺は急に知子を愛せなくなった」

 痛みのなかに。
 母を、思い出すような気がした。

「通帳の金が減っていくのに、俺は妙な感情を抱いた。身を削っていくような気がしてな。俺はそれほど俺を愛せていない。だが、不思議なもんだった。
 …雪を初めて見た日に、こいつは俺に似ちまったんだと思った。
 結果お前がここにきて、今俺は変な気持ちなんだよ、陽一。笑えるほどに」

 …それ、は。
 言葉が出ていかなかった。
 青柳はひとつも笑ってなど、いなかった。
 目が合えば青柳は特に表情も変えずにまた元の、柳の掛け軸の下に胡座をかいたようだった。

 …わからない。
 ただ、確かに雪は自分をいくらでも削っている。

「…起きれるか?」

 無理に、決まっているだろう。

 「起こしてやれよ」だの「まぁいいわ」だの、青柳から掛けられる自分への言葉を見上げるようだった。そうか、嵐のあとに沈殿したとしても、まだ泥は、中間層にだって浮遊しているのか。

 川の終わりを見た気がした。
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