碧の透水

二色燕𠀋

文字の大きさ
上 下
16 / 45

2

しおりを挟む
 特に何も話すことはない。浩がビールの缶に灰を落とす。然り気無くその缶の場所は雪の手にも届く位置に移された。

 溜め息は吐きたくなるが一つ聞いておこうと雪は先程消えた質問を思い出した。

「あのさ、浩」
「なんだよ」

 浩はタバコを指で縦にちょんちょんと手わすらをして、煙を眺めている。煙は白く輪になり霧散していくようだ。

「母さんに会った?」
「は?」

 浩の声は少し不穏さを孕むが、浩は至って気にしたものでもない、元来口は悪いのだ。手わすらも止めないまま「会ってねぇけど」と返答を寄越してくる。

「何?なんかあんの」
「いや、別に」

 タバコは吸わないのだろうか、そのまましばらく浩は輪を作り続け沈黙が空気を汚した。だがやはりふいに、「これ、線香みてぇなのな」と雪をチラ見して言う浩を皮肉でしか捉えられない。

「あぁ、でもさ」

 それからにこっと、浩は笑った。

「これ、こんな臭い。なんつーか、タバコっぽくねぇっつーかさ、フルーティー的な?甘いっつーか。
 これ、お前こんな臭いするよなぁ」

 そりゃ、そうだろうけど。

「これ気に入ったわ、良い臭い」

 何を思って兄は言うのか。
 子供のように素直に言う兄。少し困るのだけど、兄にはこういうところがある。少し土足で人に入ってくるような、そんなところが。

「…それあげるよ」
「え、あっそう」
「どうせ吸うでしょ」
「多分」

 実際兄は21の頃に刑務所に入った。自分より、タバコを吸っている期間は多分短い。確か16の、高校デビュータイプだった。実際には浩は、中卒だったけれども。

「あ、あとさぁ」
「何」
「金頂戴」
「…1万でいい?」
「ケチ臭ぇな」
「何に使うの」
「パチンコ」
「…ごめん、お金ないんだよ」
「嘘吐けよ、こんなとこ住んでてよ」

 答えるのも厄介だが、雪がタバコを消した瞬間「まさかよぉ、」と、台風の前のような口調で浩は迫ってくる。

 硬直する。

「お前、青柳んとこいんのか」
「…いない」

 目は合わせなかったが浩はまだ長いタバコを揉み消し「嘘吐いてんじゃねぇよ」と、雪を睨んでは急に押し入るように雪の腕を掴みそのまま押し倒して怒鳴り付けた。

「てめぇがあの野郎と繋がりがないわけねぇんだよ、なぁ!」

 抵抗が出来ない、がんがんと前髪を掴み揺さぶられ床に打ち付けられる後頭部も痛い。

「あんとか言えよてめぇっ!」

 喉が詰まるように呼吸が荒くなる、痛い痛い痛い、苦しい怖い苦しい。
 だが抵抗しない弟に「はっ、」と嘲笑い手を離しては「どーしょもねぇ、」と吐き捨てた。

「ヤクザの倅だなんてなぁ、あ?」

 呼吸がままならない、これはトラウマだ、感情が濁流となる、本気で怖い、生理的な涙に体が熱くなる、けれど冷や汗ばかり出ていく。恐怖だ、何も、
 思考遮断のように激しい耳鳴りが右耳を襲い、途端にそれから半分、兄の怒号が水中へ浸水してしまい現実の痛さに意識が強調され戻ってしまった。

 咄嗟に兄を払い除ける。
  兄は怒りに雪を殴ろうと拳を作るが、弟のあまりに驚いた表情と喘息のような息遣いに、咄嗟にあの時のキャバクラ女を思い出す、走馬灯のように。

 一瞬でその快楽に似た暴力の衝動が恐怖へ変わり萎えてしまった。

「ったく、」

 それを言い捨て、浩はダルそうに自分から剥がれ、軽くなる。

 それからドアの音が響き、漸く吐き出すように喘ぐ苦しさに感情が氾濫した。悔しさか虚しさか焦りか絶望か、わからないが泣くしか出来ない。これは間違いなく、恐怖。

 兄は台風のような男だ。

 慢性的に呼吸を無理に戻そうとすれば声は出る。だが右耳が痛かった。そして音が、半減してしまっていた。

 低気圧のような、この世界は。
 やり場が、なかった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

十年目の離婚

杉本凪咲
恋愛
結婚十年目。 夫は離婚を切り出しました。 愛人と、その子供と、一緒に暮らしたいからと。

選ばれたのは美人の親友

杉本凪咲
恋愛
侯爵令息ルドガーの妻となったエルは、良き妻になろうと奮闘していた。しかし突然にルドガーはエルに離婚を宣言し、あろうことかエルの親友であるレベッカと関係を持った。悔しさと怒りで泣き叫ぶエルだが、最後には離婚を決意して縁を切る。程なくして、そんな彼女に新しい縁談が舞い込んできたが、縁を切ったはずのレベッカが現れる。

何を間違った?【完結済】

maruko
恋愛
私は長年の婚約者に婚約破棄を言い渡す。 彼女とは1年前から連絡が途絶えてしまっていた。 今真実を聞いて⋯⋯。 愚かな私の後悔の話 ※作者の妄想の産物です 他サイトでも投稿しております

娼館で元夫と再会しました

無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。 しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。 連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。 「シーク様…」 どうして貴方がここに? 元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!

懐妊を告げずに家を出ます。最愛のあなた、どうかお幸せに。

梅雨の人
恋愛
最愛の夫、ブラッド。 あなたと共に、人生が終わるその時まで互いに慈しみ、愛情に溢れる時を過ごしていけると信じていた。 その時までは。 どうか、幸せになってね。 愛しい人。 さようなら。

【完結】亡き冷遇妃がのこしたもの〜王の後悔〜

なか
恋愛
「セレリナ妃が、自死されました」  静寂をかき消す、衛兵の報告。  瞬間、周囲の視線がたった一人に注がれる。  コリウス王国の国王––レオン・コリウス。  彼は正妃セレリナの死を告げる報告に、ただ一言呟く。 「構わん」……と。  周囲から突き刺さるような睨みを受けても、彼は気にしない。  これは……彼が望んだ結末であるからだ。  しかし彼は知らない。  この日を境にセレリナが残したものを知り、後悔に苛まれていくことを。  王妃セレリナ。  彼女に消えて欲しかったのは……  いったい誰か?    ◇◇◇  序盤はシリアスです。  楽しんでいただけるとうれしいです。    

あなただけが私を信じてくれたから

樹里
恋愛
王太子殿下の婚約者であるアリシア・トラヴィス侯爵令嬢は、茶会において王女殺害を企てたとして冤罪で投獄される。それは王太子殿下と恋仲であるアリシアの妹が彼女を排除するために計画した犯行だと思われた。 一方、自分を信じてくれるシメオン・バーナード卿の調査の甲斐もなく、アリシアは結局そのまま断罪されてしまう。 しかし彼女が次に目を覚ますと、茶会の日に戻っていた。その日を境に、冤罪をかけられ、断罪されるたびに茶会前に回帰するようになってしまった。 処刑を免れようとそのたびに違った行動を起こしてきたアリシアが、最後に下した決断は。

婚約者の浮気相手が子を授かったので

澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ファンヌはリヴァス王国王太子クラウスの婚約者である。 ある日、クラウスが想いを寄せている女性――アデラが子を授かったと言う。 アデラと一緒になりたいクラウスは、ファンヌに婚約解消を迫る。 ファンヌはそれを受け入れ、さっさと手続きを済ませてしまった。 自由になった彼女は学校へと戻り、大好きな薬草や茶葉の『研究』に没頭する予定だった。 しかし、師であるエルランドが学校を辞めて自国へ戻ると言い出す。 彼は自然豊かな国ベロテニア王国の出身であった。 ベロテニア王国は、薬草や茶葉の生育に力を入れているし、何よりも獣人の血を引く者も数多くいるという魅力的な国である。 まだまだエルランドと共に茶葉や薬草の『研究』を続けたいファンヌは、エルランドと共にベロテニア王国へと向かうのだが――。 ※表紙イラストはタイトルから「お絵描きばりぐっどくん」に作成してもらいました。 ※完結しました

処理中です...