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哀願に揺らぐ斜陽
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私は少し引っ掛かった「男は押し付ける、女は擦り付ける」という彼の倫理観をぼんやりと帰路に考える。
男女の違いとは…考えようとしたこともなかった。そこに性があるものだったから。
性とは何か、散々知っているような気もするのに、やはりどこか遠く感じて。
あまり会話がないことも、実はそれほど不自然ではなくなっていた。彼もまた何か、遠くを見て考えているような気がしたからだ。
しかしふと、「空ってのはさ」と、ぼんやりタバコの煙と、私を見ていうのだった。
「…元々そこに何か、合ったものがなくなったから隙間が空いていると思っていたんだけど」
「…はい?」
「そうでもないのな。元々のキャパシティに到達していない方がそれは「余裕」なのかどうなのかと…ただ、どの道隙間は寒いもんだ」
「…どうしたんですか」
「わからん。わからんけども」
彼はやはり何かを考えるが、それは行きとは違う、もう少し目の前の物のような気がした。
「俺には何も出来ることがないかもしれないな、瑠璃」
「…ん?」
もしかして。
「もしかして、千秋さん」
「ん?」
「そんなことをずっと、考えていたんですか?」
「いや、まぁそれだけじゃないけど、多分。けど、そりゃあ近くにいる人間のことは考えるもんだろ?」
「…そんな、」
「そんな顔すんなよ。たまたま頭が動いただけで」
私がどんな顔をしたのか見なくてもわかる。
いま少しだけ…その空っぽに冷たい水のようなものが入ったことに気付いたのだから。
「…たった数日の話だったけど、」
「数日も、そんな、」
「何故かな、どうも暫くいたような気さえするのが不思議で。俺は何を見てるんだと思う?」
「え…?」
「人を見るとき、自分も目に…入る気がするんだ。いつも」
…やはり、遠かった。
「…そうですね、いや…私はもう少し勝手です。…勝手なのかも。いつも、自分にばかり何かを当てているような」
「そんな時期が一番傷を作るよなぁ。例えば、財布の中身が300円になろうとどうでもよくなって動かなくなる、とかさ」
「…それは千秋さんの話ですか?」
「そ。リタイア時期があったんだよね、色々あって」
それはどういうことなんだろう。
「リタイア時期…」
「まぁ、説教とかもだからしないというか…別に学校なんて行けと言わないし向き合えとも言わないし。んな時期はバカだから大抵自分のことって考えてるもんだと思ったわけよ」
「…それは」
「良いことじゃねぇよ?全然。良いことじゃなかった、と言うか。血ぃ吐こうが酒飲んでるしなきゃないで死にかけない程度で息してるもんでさ」
「どうして…」
「…どうしてかな。わからん。乗り越えることは不可能だったからなんも言えない。けど強いと思うよ、俺はね」
…そんな感情論がまさかあっさりと出てくるだなんて、思いもしなかった。
素直ではっきりそう返ってくるだなんて。
でも。
「…なんだか、」
「押し付けだな、これは」
「いえ…、その…。
なんだか、スッキリする…」
「ん?」
「はぁ、」
息を吐く。
あぁ…スッキリと。
「…気が抜けちゃった…」
「気?あそう?」
「なんか、」
「…ふはははは、お前それ前もあったよな、山崎さんの時。不思議なやつだな、人が吐いたもんだぞ」
「…なんでしょうね。けど、なら…大抵の人が抱く悩みでしか」
「それはないと思う、余計に」
「…そうですかね」
「うん。見謝ってる。それには気付かないことが不思議だ」
「…考えたこと、ありませんか?千秋さんは」
「何を?」
「…例えば、」
例えば。
「…私がその他大勢のなかにいる、それは自然で、果たしてそう、スクランブル交差点なんかで倒れたとする。誰が何分後に気付いて忘れるのかなって」
「…随分深い話だな」
「…そう考えると、小さいでしょ」
笑って見せたが彼は一瞬、まるで冷たく私を見たような気がした。
当たり前だ、多分これが見誤りで。
なのにふと笑い、「遠くに行きたいのと同じ感覚なのかな」と彼は言った。
景色は少しの斜陽と、馴染みのないもの。
「遠近法でしかないだろ、それ」
「…痛く正論かもしれないですね」
「いや、違うんだよ、瑠璃」
それから赤信号で停まる。
「ラブホテル行ったことあるか?」
青にならなかったけど。
ぼんやりの中にふと入ってきた単語に、少しの誤差で意味を理解した。
「え、」
「あのさ、」
青信号に変わりふと端に車が停まったのはすぐだった。どこかはわからない。ただ、ふんわりと彼の顔が側に来て、なのにはっきり、まるで食べられそうになる唇は温かった。
それは深く潜りそうで、ただ、頭が…動かなくなりそうに遠くて。
唖然としてしまった私から離れた彼はにやっと、まるでしてやったりと言いたい表情で笑い、「行きたい?」と聞いてきた。
じわりと、浸透する。
…不忍池だ。
「えっ、」
「そうじゃないかと思ったんだけど」
「えっ…と、」
「まぁでも」
…そして何事もないように普通にまたハンドルを握り、進行方向も特に変えずに走り出し。
「なんかあるとしても、明後日までは全然ない」
「……は、」
「それは言っとこうと思った、わざわざ」
…それは一体、
「ど…ゆぅ、ことで」
「少し興味持った。楽しい」
「え、」
「最初に言ったし」
男女の違いとは…考えようとしたこともなかった。そこに性があるものだったから。
性とは何か、散々知っているような気もするのに、やはりどこか遠く感じて。
あまり会話がないことも、実はそれほど不自然ではなくなっていた。彼もまた何か、遠くを見て考えているような気がしたからだ。
しかしふと、「空ってのはさ」と、ぼんやりタバコの煙と、私を見ていうのだった。
「…元々そこに何か、合ったものがなくなったから隙間が空いていると思っていたんだけど」
「…はい?」
「そうでもないのな。元々のキャパシティに到達していない方がそれは「余裕」なのかどうなのかと…ただ、どの道隙間は寒いもんだ」
「…どうしたんですか」
「わからん。わからんけども」
彼はやはり何かを考えるが、それは行きとは違う、もう少し目の前の物のような気がした。
「俺には何も出来ることがないかもしれないな、瑠璃」
「…ん?」
もしかして。
「もしかして、千秋さん」
「ん?」
「そんなことをずっと、考えていたんですか?」
「いや、まぁそれだけじゃないけど、多分。けど、そりゃあ近くにいる人間のことは考えるもんだろ?」
「…そんな、」
「そんな顔すんなよ。たまたま頭が動いただけで」
私がどんな顔をしたのか見なくてもわかる。
いま少しだけ…その空っぽに冷たい水のようなものが入ったことに気付いたのだから。
「…たった数日の話だったけど、」
「数日も、そんな、」
「何故かな、どうも暫くいたような気さえするのが不思議で。俺は何を見てるんだと思う?」
「え…?」
「人を見るとき、自分も目に…入る気がするんだ。いつも」
…やはり、遠かった。
「…そうですね、いや…私はもう少し勝手です。…勝手なのかも。いつも、自分にばかり何かを当てているような」
「そんな時期が一番傷を作るよなぁ。例えば、財布の中身が300円になろうとどうでもよくなって動かなくなる、とかさ」
「…それは千秋さんの話ですか?」
「そ。リタイア時期があったんだよね、色々あって」
それはどういうことなんだろう。
「リタイア時期…」
「まぁ、説教とかもだからしないというか…別に学校なんて行けと言わないし向き合えとも言わないし。んな時期はバカだから大抵自分のことって考えてるもんだと思ったわけよ」
「…それは」
「良いことじゃねぇよ?全然。良いことじゃなかった、と言うか。血ぃ吐こうが酒飲んでるしなきゃないで死にかけない程度で息してるもんでさ」
「どうして…」
「…どうしてかな。わからん。乗り越えることは不可能だったからなんも言えない。けど強いと思うよ、俺はね」
…そんな感情論がまさかあっさりと出てくるだなんて、思いもしなかった。
素直ではっきりそう返ってくるだなんて。
でも。
「…なんだか、」
「押し付けだな、これは」
「いえ…、その…。
なんだか、スッキリする…」
「ん?」
「はぁ、」
息を吐く。
あぁ…スッキリと。
「…気が抜けちゃった…」
「気?あそう?」
「なんか、」
「…ふはははは、お前それ前もあったよな、山崎さんの時。不思議なやつだな、人が吐いたもんだぞ」
「…なんでしょうね。けど、なら…大抵の人が抱く悩みでしか」
「それはないと思う、余計に」
「…そうですかね」
「うん。見謝ってる。それには気付かないことが不思議だ」
「…考えたこと、ありませんか?千秋さんは」
「何を?」
「…例えば、」
例えば。
「…私がその他大勢のなかにいる、それは自然で、果たしてそう、スクランブル交差点なんかで倒れたとする。誰が何分後に気付いて忘れるのかなって」
「…随分深い話だな」
「…そう考えると、小さいでしょ」
笑って見せたが彼は一瞬、まるで冷たく私を見たような気がした。
当たり前だ、多分これが見誤りで。
なのにふと笑い、「遠くに行きたいのと同じ感覚なのかな」と彼は言った。
景色は少しの斜陽と、馴染みのないもの。
「遠近法でしかないだろ、それ」
「…痛く正論かもしれないですね」
「いや、違うんだよ、瑠璃」
それから赤信号で停まる。
「ラブホテル行ったことあるか?」
青にならなかったけど。
ぼんやりの中にふと入ってきた単語に、少しの誤差で意味を理解した。
「え、」
「あのさ、」
青信号に変わりふと端に車が停まったのはすぐだった。どこかはわからない。ただ、ふんわりと彼の顔が側に来て、なのにはっきり、まるで食べられそうになる唇は温かった。
それは深く潜りそうで、ただ、頭が…動かなくなりそうに遠くて。
唖然としてしまった私から離れた彼はにやっと、まるでしてやったりと言いたい表情で笑い、「行きたい?」と聞いてきた。
じわりと、浸透する。
…不忍池だ。
「えっ、」
「そうじゃないかと思ったんだけど」
「えっ…と、」
「まぁでも」
…そして何事もないように普通にまたハンドルを握り、進行方向も特に変えずに走り出し。
「なんかあるとしても、明後日までは全然ない」
「……は、」
「それは言っとこうと思った、わざわざ」
…それは一体、
「ど…ゆぅ、ことで」
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「え、」
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