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アレルギー
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「誰の言葉だったかなぁ、『古い道徳を破壊することは、新しい道徳を建立するときにだけ、許されるのです。』って、言葉があるみたいなんだが」
「…夏目漱石、」
言われた瞬間にぴんと、思い出した。
千秋さんはふと笑い、「そうかそうか、夏目漱石か」と、さも興味はない呪文のような言い方をする。
どうせわかってくれないと、思っていたのだろう、私は。誰も私を見つけ出せない、けどそれが心地良いだなんて思っていたのに。
「まず事務所へ寄ってもいいか?メールをコピーしたい」
彼にはそれすら、なんでもない日常のようだった。
まるで彼には自覚がないだろうけど、私を「高みの舞台」から降ろし地面で見つめてくるような人だと思えた。
「あ、はい」
千秋さんが少しだけ微笑むことに、なんだか自分が浮いてしまったような気分になり、奢ってくれたアップルティーを飲む。
『瑠璃ちゃんは好きな食べ物を教えてくれない質だもの』
先生が言った言葉を思い出した。
「…アップルティー、好きなんです」
「うん、じゃないかと思った」
ぼんやり窓の外を眺めながらどこに話し掛けているかわからない千秋さんに、不思議とどこか落ち着く自分がいる。
アップルティーのせいかもしれないけど…その泣き黒子が見ている現実が知りたい。
「どうしてわかったんですか。最初はレモンかアップルかって言ったのに。さっきはアップルティーで良いかって、自然だった」
「うーんなんだろう。なんだか、かな。最初食い付きがよかった気がする」
「…なるほど」
「職業病かもな」
ふと千秋さんは手元の資料に視線を落とし手を組み、思い出したようにメールを打ち始めた。
きっと、たくろうさんの奥さんだ。
それからすぐに「西浦です」と、電話を掛けた。
「あぁ、はい。今から事務所帰ります」
千秋さんはちらっと私を見てから「大事には至ってませんよ。あとは当人同士で片付けてくれるといいんですけ……あ、はい、大事でなく中事くらいですよくわかりましたね」と、少し気まずそうに話している。
待っててくれているんだとすぐにわかって、私は残り少しのアップルティーを飲みきった。
それを見た千秋さんは「はいはいはいすぐに帰りますでは、」と、面倒そうに話を切り上げた。
「落ち着いたらしいな」
「はい」
「ん、じゃぁ行くか」
そう言って千秋さんは書類を片付け始めたので、私はその間にアップルティーとトレーを下げに行く。
少しまごついていたけれども、テーブルを片付けた千秋さんと一緒に喫茶店を出て、少し歩いた駐車場で車に乗る。
窓を開けてタバコを吸いながら駐車料金を払った千秋さんは「少し寒いけど」と、シートの暖房をつけてくれた。
「えっと、一つお願いがある」
「なんでしょう?」
「メール文章は取り敢えず…奥さんへ売ったという体でお願いしたい」
「わかりました」
「すまないな。今日のことは“なかったこと”として…出来れば処理したいんだ」
「はい」
「…というか…」
いきなり千秋さんは黙ってしまった。
私をちらっと見て「…ホントに心配になるな」と言う。
「…もう少し、疑われないのがなんだかこちらも変な気分で…」
「疑って欲しいんですか」
「いや、疑われないに越したことは…ないんだけど。
この状況下で例えばだけど、これまでの離婚やらの話は全部嘘で、写真で君を脅し続けて金品を取る、だとか、性的な…は君には通用しなそうだな。風俗に売るとかさ、そういうことだって」
「お説教ですか」
「…あぁ確かに俺が言えたことじゃないけど。ただそのわりに君は、自分から扉を開けない」
「…まぁ、」
「だから、読めない」
「…そんなことするのなんて、ヤクザ絡みや、そんなもんだと思ってますよ?」
「…俺がヤクザだったらどうするの」
「それはそれです」
「…わかりきったこと言うけど、そんなんで殺されたら」
「同じですね」
「やっぱりな」
千秋さんは、はぁと溜め息を吐き、「怖いもの知らずか世間知らずか…」と呟いた。
それから千秋さんはしばらく黙ってしまった。
しかし私も特に話をしなければ「本好きなのか」と、不自然に聞いてきのだった。
「…夏目漱石とか、出てきたから」
「はい、好きです」
「どんなのが好き?」
「いま…えっと、谷崎潤一郎の…春…なんだったっけ…」
私が鞄を漁り「春琴抄」と言えば「わからんけど谷崎はわかる」と言う。
「高校生って、谷崎なんてやるのか?」
「今のところ教科書では…出てきてないです」
「そうか…却って何やるんだ?夏目漱石…宮沢賢治…芥川とかかな…」
「そうですね。千秋さんは学生時代、国語は好きでしたか?」
「普通かな。まあやらなくても点が取れる教科、くらいの認識」
また会話は終わってしまった。
そこからは事務所まで、すぐというよりは長い時間、会話がなかった。
千秋さんの事務所は、古いビルの3階にあった。
「…夏目漱石、」
言われた瞬間にぴんと、思い出した。
千秋さんはふと笑い、「そうかそうか、夏目漱石か」と、さも興味はない呪文のような言い方をする。
どうせわかってくれないと、思っていたのだろう、私は。誰も私を見つけ出せない、けどそれが心地良いだなんて思っていたのに。
「まず事務所へ寄ってもいいか?メールをコピーしたい」
彼にはそれすら、なんでもない日常のようだった。
まるで彼には自覚がないだろうけど、私を「高みの舞台」から降ろし地面で見つめてくるような人だと思えた。
「あ、はい」
千秋さんが少しだけ微笑むことに、なんだか自分が浮いてしまったような気分になり、奢ってくれたアップルティーを飲む。
『瑠璃ちゃんは好きな食べ物を教えてくれない質だもの』
先生が言った言葉を思い出した。
「…アップルティー、好きなんです」
「うん、じゃないかと思った」
ぼんやり窓の外を眺めながらどこに話し掛けているかわからない千秋さんに、不思議とどこか落ち着く自分がいる。
アップルティーのせいかもしれないけど…その泣き黒子が見ている現実が知りたい。
「どうしてわかったんですか。最初はレモンかアップルかって言ったのに。さっきはアップルティーで良いかって、自然だった」
「うーんなんだろう。なんだか、かな。最初食い付きがよかった気がする」
「…なるほど」
「職業病かもな」
ふと千秋さんは手元の資料に視線を落とし手を組み、思い出したようにメールを打ち始めた。
きっと、たくろうさんの奥さんだ。
それからすぐに「西浦です」と、電話を掛けた。
「あぁ、はい。今から事務所帰ります」
千秋さんはちらっと私を見てから「大事には至ってませんよ。あとは当人同士で片付けてくれるといいんですけ……あ、はい、大事でなく中事くらいですよくわかりましたね」と、少し気まずそうに話している。
待っててくれているんだとすぐにわかって、私は残り少しのアップルティーを飲みきった。
それを見た千秋さんは「はいはいはいすぐに帰りますでは、」と、面倒そうに話を切り上げた。
「落ち着いたらしいな」
「はい」
「ん、じゃぁ行くか」
そう言って千秋さんは書類を片付け始めたので、私はその間にアップルティーとトレーを下げに行く。
少しまごついていたけれども、テーブルを片付けた千秋さんと一緒に喫茶店を出て、少し歩いた駐車場で車に乗る。
窓を開けてタバコを吸いながら駐車料金を払った千秋さんは「少し寒いけど」と、シートの暖房をつけてくれた。
「えっと、一つお願いがある」
「なんでしょう?」
「メール文章は取り敢えず…奥さんへ売ったという体でお願いしたい」
「わかりました」
「すまないな。今日のことは“なかったこと”として…出来れば処理したいんだ」
「はい」
「…というか…」
いきなり千秋さんは黙ってしまった。
私をちらっと見て「…ホントに心配になるな」と言う。
「…もう少し、疑われないのがなんだかこちらも変な気分で…」
「疑って欲しいんですか」
「いや、疑われないに越したことは…ないんだけど。
この状況下で例えばだけど、これまでの離婚やらの話は全部嘘で、写真で君を脅し続けて金品を取る、だとか、性的な…は君には通用しなそうだな。風俗に売るとかさ、そういうことだって」
「お説教ですか」
「…あぁ確かに俺が言えたことじゃないけど。ただそのわりに君は、自分から扉を開けない」
「…まぁ、」
「だから、読めない」
「…そんなことするのなんて、ヤクザ絡みや、そんなもんだと思ってますよ?」
「…俺がヤクザだったらどうするの」
「それはそれです」
「…わかりきったこと言うけど、そんなんで殺されたら」
「同じですね」
「やっぱりな」
千秋さんは、はぁと溜め息を吐き、「怖いもの知らずか世間知らずか…」と呟いた。
それから千秋さんはしばらく黙ってしまった。
しかし私も特に話をしなければ「本好きなのか」と、不自然に聞いてきのだった。
「…夏目漱石とか、出てきたから」
「はい、好きです」
「どんなのが好き?」
「いま…えっと、谷崎潤一郎の…春…なんだったっけ…」
私が鞄を漁り「春琴抄」と言えば「わからんけど谷崎はわかる」と言う。
「高校生って、谷崎なんてやるのか?」
「今のところ教科書では…出てきてないです」
「そうか…却って何やるんだ?夏目漱石…宮沢賢治…芥川とかかな…」
「そうですね。千秋さんは学生時代、国語は好きでしたか?」
「普通かな。まあやらなくても点が取れる教科、くらいの認識」
また会話は終わってしまった。
そこからは事務所まで、すぐというよりは長い時間、会話がなかった。
千秋さんの事務所は、古いビルの3階にあった。
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