アルカロイド

二色燕𠀋

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「温泉行きたかったんだよ、丁度さ」
「そうだったの?」
「うん。いやまぁ家の秘湯クイズも良いけどね」
「まぁ行かないもんね」
「つか、旅行って初めてだよなー」

 楓としてはそんな気分でもないが、そうにこやかに言う真麻に少し肩が解れるのも感じる。真麻はどこまで言っても自分に甘い。

「…まぁ、そうだね」
「帰りはどうせならどこか寄りたいよな。水族館あったけど行ったことあるかな?」
「…シーワールド?」
「そうそう」
「多分ないなぁ。うーんでも学校とかで行ったかもしれないけど、“行った”という気はする」
「じゃぁ新鮮だね。やっぱ行こうよ」
「…そうだね」

 燃え尽きて透明になった記憶があやふやに浮かぶのに、それも緩やかに流れていく。流れ星のように、あっさり。
 自分を確実に無くしていくそれだってとても心地の良いことなのに、何故かそのにこやかな真麻が切なく感じる。たまにそんな別の色彩がある。それで染められること、たまに喉が詰まる。

「真麻は、」
「ん?」
「…いや、」
「どした?」
「いや…。真麻はいまどんな…気持ちなのかなって」

 素直な楓の気持ちに喉が鳴りそうだった、わかっている。楓は今日、非常に浮かない雰囲気なのだ。

 当たり前だと真麻は理解する。楓は地元や懐古の糸を切ってしまった、だがその真意は自分には理解出来ない。それは自分だったら悲しいような気がしているからだ。

 どんなに自分には知り合いが少ない、むしろいないに等しい礎の作り方だったとしても。捨てる、どれ程のことがあったのだろうか。

 「わりと楽しみだよ」と恋人に答える事が本当は少し怖い。その気持ちが薙いでいるからなんだか、不穏な気もするのだけど。

「まぁ、勿論緊張もするんだけどさ」
「…そうだよね」
「僕にくださいみたいな気分でもあるし。まぁけど多分楓はそっか、お母さん、僕にくださいと言われるような気分なのか」

 素直に言われてみれば、そうか。まさゆきさんはきっといまの真麻のような気分なのではないか、とぼんやりと思えてきた。

「あぁ、そっか」

 そっか。

 楓がふと俯いたので、君こそどんな気持ちなんだろう、これが少しだけ漏れ出てきては行き場はなく、どうしようかとぎこちなく真麻は楓の額に手を当てる。

 その手はまたふらっと、タバコの包装を開け1本に火がつく、照れたような現象に年下を見るような気がした。
 透明なフィルムが掛けられたその1つに「まさゆきさんはね」と、じわり、ゆっくりと明かりが点る。

「俺はえっと…、2回かな、会ったの。とても背が高い…爽やかな印象の人だったよ。俺と違って難いも良くて頼りになるような…」

 真麻は静かに煙を吐いた。

「…多分、凄く良い人。良い男と言うのもなんか…あれなんだけど…」

 もだもだとキレの悪く楓が話すのをじっくり、待っていようと真麻は「続けて」の意味で視線を寄越した。

「…二回ともね、…あれなんだ、病院で会った事があるって、変な話かもしれないんだけど」
「病院?」

 風向きが変わってきた。
 海に近くなるような臭いが紫煙を湿らせる。

「そう。
 …ろくでもないことに、一回目は母さんで二回目は俺で」
「…うん?」
「あの…。
 母さんには、自傷癖があった、」

 言いにくそうに楓が言った答えに、真麻ははっとなってしまった。
 そうだったのか、と衝撃も混じる。

「自傷癖…」
「…たまに、ね。まぁ、知っていたというか…。病んでるなぁということがあって。薬飲んでたんだけど、一回だけリビングのテーブルにさ、こう…突っ伏しててさ」

 慣れたことのように思っていたのに。
 痺れて思考停止の手前状態が続いた、それは振り返らずとも気配でわかる、自分の真後ろどころか踵の距離に大きな、穴のような闇が空いているのだ。
 そうなれば駆け寄るしかないじゃないか、わかっているのになかなか足が出ない、あの日の自分を思い出す。

 目に浮かぶようだった。
 口調は淡々とする。

「母さんが運ばれたとき、なんだろうな、震えそうだったんだけど、その時にまさゆきさんがやってきた。初めまして、楓くんだねって言われたら全部が引っ込んでいったんだよ」
「…それは、」

 一種、楓の心を殺した構図な気がした。

 その現場に自分は鉢合わせてなどいないが、不思議と目に浮かぶように、楓がベットの横に立ち尽くす姿も“まさゆきさん”を前にして唖然としただろう姿も、ありありと海馬あたりを掠めるようだった。
 その時きっと楓は、どうかな、「初めまして、すみません」だなんて言っていそうだと、真麻は楓の過去に思いを寄せてみる。

「なんて、重い話で」
「別にいいよ」

 発音6文字で遮られたせいか真麻のそれは優しさか、不機嫌か、何事もないのか、掴めない。

 「恩人なのかな」と取り繕ってまた言葉を紡いでみても気はそぞろだった、他のことを考えるのだから。

 楓、多分俺にはそんなこと別にどうだってよくて、ただ君はどうしたのかと近寄りたくなるのに、その背中に足がすくんで眺めているんだよ。
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