雨はやむ、またしばし

二色燕𠀋

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 疲れが取れたかどうかは、わからない。
 引き締める、というわけではないけれど、そんなことはシャワーを浴びれば意図せずとも頭の隅の角に追いやられる。
 いつからか、そういう頭の構造になっていた。

 桜木から一本「どれくらいで来れる?」とメールが返ってきていた。
 時刻も目に付く、自分は遅れ気味なようだ。仕事の内容を見た時点で少し力が抜けたせいもあるだろう。

 部屋を出るタイミングがお姉さんと重なった。彼女とは家の前で別れる。
 軽バンは少しわかりにくい、隅の方に停まっていた。

「ごめん、ちょっと遅くなった」
「うっす、はよ。まあ“足舐め社長”だろ?」
「うん」

 足舐め社長こと笹塚ささづか耕三こうぞうさんは、アカリの太客だ。

 指名の曜日は特に決まっていない。昼間が大半。しかし、土曜日だなんて珍しい。
 こちらとしては昨日、出しすぎてしまったので有り難いには、有り難いけれど。

「土曜日は珍しいよな」
「俺も思ってたところ。家族サービスとか大切にするタイプだと思ってた」
「土曜に稼働してる会社も珍しくねーけど、まぁ関係ねぇよな」

 桜木は運転をしながらちらっとこちらを見、赤信号で太股に触れてきた。
 多分、からかっているのだ。

「何」
「別に」

 一撫でしてくる桜木に何かを言ってはやりたいが、一度黙る。感情が纏まらない。

「…そういえば前沢さんに電話したって、」
「は?」

 確かに。
 取り繕って当たり前なことを言ってしまった。桜木は多分、意味不明に受け取っただろう。

 少し身体が沸騰しそうだ。これは間違いなく、メンタル的な問題で。

 あまりに意味不明だったのかもしれない、急に桜木は眉を顰め「なんかあったか」と、怪訝そうに聞いてきた。

「…いや、朝嬉しそうに言われたってだけ。別に電話しなくても、気付かなそうだったよ、あの人」
「…どーゆーこと?」
「デリヘルだかなんだかとお楽しみだったから」
「…は?何それ………笑えるな」

 取って付けたような桜木の語尾は、言葉とはまるっきり反対の感情に聞こえた。
 多分、察したのだ。自分の使った金は泡になったのだと。

「そんな暇あるならもう少し働いて欲しいよな。電話番なんて社長じゃなくても出来るし。なんで経営者ってそうなんだろうな」

 意外だった。

「…珍しいね、オーナーの悪口なんて」
「別に。お前がいらんこと言うからだよ。まぁ良いけどね、諭吉がどこに派遣されようが」
「…はは、」
「なんだよ」
「かの福沢諭吉様をデリヘル扱いするなんて」

 ははは、と灯が笑っていると、彼は居心地が悪そうに「そんなんじゃないわ」と呟く。

 遅れ気味に出たのだけれど、時間通りに到着した。
 灯が持ち物を確認していると、桜木は「120分だよな」と、わかっているだろう内容を確認をしてきた。

「うん、そう」
「じゃーえっと……足舐め社長は会社、午後スタートなのかな。微妙な時間だな」
「合わせたのかもね。まぁ関係ないでしょ」
「昼飯くらい買っとくか?」
「そのあと入らなければ」

 最終確認を終え、「いってらっしゃい」と見送られた。桜木はいつも、そういうところはきちんとしているのだ。

 高級ホテルの七階だった。
 いつもより人通りがある空気感。
 それでもやはり、社長が泊まるような場所なのだ、どこか厳然で非日常の空気。

 こんこん、と扉を叩けばすぐに「いらっしゃい」と、初老で清潔な、柔らかい空気のおじさんが現れる。

 考慮し、玄関に入ってから「アカリです」と名乗った。
 彼はニコニコしながら「土曜日にご苦労様」と上品に労ってくれる。

 微かに薫る、柑橘系の湿った匂い。
 パリッとした白いシャツ。

 「どうぞ」と促してくれる笹塚のどこか丁寧な所作に、毎回少し気後れしそうになる、それだけ高貴な雰囲気の人。

「お邪魔します、よろしくお願いします」

 拝むように手を合わせ、挨拶をした。

 彼がまさか“足舐め社長”と呼ばれているだなんて、知り合いはもちろん、すれ違った誰しもが想像をしないだろう。

 その性癖の中で一ヶ所、高貴というよりも神経質な面がある。それは、通されたそのテーブルにトンと置いてある筒状の「除菌シート」だ。

 まぁまぁと、彼はまず、いつも最初に聞く、「何か飲むかい?」と。そして受話器の前に行くのだ。
 「じゃあ…ホットの紅茶を」とアカリが答えるとその場でオーダーし、そして自分は自前のミールをくるくるまわしコーヒーを作る。

 ぶわっと、コーヒーの薫りがまわりを包んだ。

 本当は自分に振る舞いたいのだろう、笹塚はそういう人だ。
 しかし、初めて出会った頃にルールは説明した。飲食物はホテル等のオーダー品のみ。自身で持ち込んだ物をボーイに与えてはいけない、ということを。

 アカリは紅茶が来るまでの間、それを眺め「いつか飲んでみたいです」と笹塚に言っておいた。
 それは、本心だ。

「…そうだねぇ、是非飲ませてあげたいよ」
「本当にすみません」
「いやまぁ、当然だよね。それが良いんだよ。君は特にね。自衛は備えあって憂いなしだから」

 例えば。

 彼が一日、自分を貸し切ってくれたとしよう。どんな一日を過ごしてくれるのだろうか。
 正直この人のそれは気になっていたりする。これはお金の問題ではなく。

「コーヒーの匂いって、落ち着きますよね」
「そうだね、いまはそれを楽しんでくれたら幸いだよ」
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