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ニューヨーク(3)
しおりを挟む6月になった。
最高気温は25度を超え、夏の到来が近いことを告げていた。そんな時、ルチオから突然の誘いを受けた。
「イタリアへ行かないか?」
サマーヴァケーションを利用して里帰りをすることにしたから、一緒に行こうというのだ。
「珍しくアンドレアも行くっていうからユズルも一緒に行こうよ」
「でも……」
弦にそんなお金はなかった。往復の旅費に滞在費を加えると少々のお金で足りるはずがないのだ。しかし、すぐにその不安をアントニオが吹き飛ばしてくれた。
「お金のことなら心配いらないよ。従業員の研修旅行として経費で落ちるから何も心配しなくていいんだよ」
往復の飛行機代や宿泊費、食費などはすべて会社の経費として落とせるのだと言う。
「小遣いだけ持って行けばいいんだよ」
「でも、イタリア語がわからないし……」
現地の親戚の人たちとの会話が弾まないだろうことをルチオに伝えると、「それは心配いらない。ちゃんと通訳してあげるし、それに、ずっと付き合う必要はないからね」とあっさり否定された。アンドレアとフィレンツェにでも遊びに行けばいいというのだ。
「いいんですか、そんなことをして」
「大丈夫。行く先々でベーカリーに寄って試食したり写真を撮ってくればなんの問題もないよ」
イタリアのパンの神髄を味わうことが何より大事だし、それが立派な研修になるとアントニオが太鼓判を押してくれた。
「アンドレアも喜ぶと思うから3人で楽しんでおいで」
「えっ、3人って……」
5人で行くとばかり思っていたのでしげしげとアントニオを見つめると、「実は、私たちはパンの故郷へ行くことを去年から決めていたんだよ」と特別なことではないというように笑みを見せた。発酵パンが誕生した場所、エジプトへ行くのだと言う。
「本当はパンの故郷であるメソポタミアに行きたかったのだけど、あの地域は政情不安だから諦めたんだよ」
ねっ、というふうに奥さんに視線を送ると、「エイシって知ってる?」と会話に加わってきて、「エジプトのパンの名前よ。古代から作られてきたパンで、丸くて大きくて平焼きになったパンなの。中が空洞になっていて、その中に焼いた羊の肉とか豆とかを詰めてサンドウィッチのようにして食べるのよ」と顔を綻ばせた。
「スープに付けて食べても美味しいんだ」
アントニオが補足するように割り込んだが、奥さんは気にもとめていないように話を続けた。
「それから、エチオピアにも行くつもりよ。そこにはインジェラっていうパンがあって、これはイネ科の植物から作った粉を水で溶いて発酵させてから焼き上げたものなの。クレープみたいに薄いパンだから、色々な具材を包んで食べると美味しいのよ」
そして、ワクワクを隠し切れなくなった奥さんは、「人類が誕生したアフリカ、発酵パンが誕生したアフリカ、私たちの命と食の故郷に行けるなんて、これ以上素敵なことはないわ」とうっとりするような声を出した。
すると、たまらないと言った表情になったアントニオが今にもキスをしそうな雰囲気になったが、弦の手前もあってか奥さんを抱きしめるだけにとどめ、「現地の人に教えてもらって作り方を学んでくるつもりだから、ヴァケーションが終わったらアフリカのパン・パーティーをしようよ」と話を収めた。
その提案に奥さんが頷くと、「いいね、楽しみだね」とルチオも続いたので、それで高揚したのか、アントニオが更なる計画を口にした。
「来年は日本に行くのもいいかもしれないね。そうだ、そうしよう。その時は5人で一緒に行こうよ」
彼の頭の中では夢が広がっているようだった。それは弦も同じで、日本への旅を思い描いて心が弾みかけたが、ルチオの冷静な声で現実に引き戻された。
「とにかく、弦の分も飛行機の予約をしておくから、そのつもりで」
☀ ☀ ☀
あっという間に8月になった。
ニューヨークはうだるような暑さになり、35度近い日が続いていた。
もちろん日本でも暑い日は経験していたが、それとはまた違って酷く感じたので、「ルチオさんの故郷は過ごしやすいですか?」と救いを求めたが、「そうでもないよ。ここと変わらないかな」と意外な返事が返ってきた。イタリアの北部と聞いていたので涼しい風が吹いている様を想像していたが、日中は35度近くなることも珍しくないらしい。
「でも、夜になるとぐっと気温が下がるから、ここよりは過ごしやすいかもしれないね」
15度前後まで気温が低下するので、夜外出する時はジャケットが必要だという。
「まあユズルやアンドレアは若いから、Tシャツの上に長袖のシャツを羽織っておけば十分かもしれないけどね」
弦は自分が持って行く荷物を既にまとめていたが、ルチオの勧めに従って長袖のワイシャツと、念のために薄手のジャケットを加えることにした。
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