🍞 ブレッド 🍞 ~ニューヨークとフィレンツェを舞台にした語学留学生と女性薬剤師の物語~

光り輝く未来

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フィレンツェ

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 フローラの朝はパンで始まる。
 それも、焼きたてのパンだ。それは従姉いとこのウェスタが焼いたパンであり、世界で一番美味しいと断言できるパンだった。
 ウェスタ・デ・メディチはフローラの3歳年上で、二人は幼い頃から大の仲良しだった。
 彼女の両親はベーカリーを営んでいたが、それを継ぐ気はまったくなく、製薬会社の研究職を目指して国立大学の薬学部に進学した。しかし、跡を継ぐことを期待されてローマで修行していた1歳年下の弟が交通事故で他界するという悲運に見舞われ、彼女の人生設計は変更を余儀なくされた。悩みに悩んだ末にベーカリーを継ぐことにしたのだ。
 相当辛い決断だったはずだが、持ち前の明るい性格でスパッと気持ちを切り替えて、今はパン職人の道を突き進んでいる。

 フローラはウェスタが働いているのを見るのが大好きで、特に、真っ白いコックコートにエンジのエプロンを締めて、同色のベレー帽を被っている姿には憧れさえ抱いている。
 今朝もそうだった。「今日も美味しく焼けたわよ」と言って、いつもと変わらぬ姿と笑顔でパンを渡してくれた。チャバッタにフォカッチャにグリッシーニ。どれもフローラの大好物だ。特にフォカッチャには目がない。なんといってもウェスタが作るフォカッチャは特別なのだ。彼女の指の形が付いた窪みにオリーブが入っていて、その酸味とパン生地のほのかな甘みが合わさると、たまらなく美味しいのだ。
 し・あ・わ・せ・
 思わず独り言ちたフローラは皿にパンを並べながら、パンとメディチ家の繋がりに思いを馳せた。

 それは、中世の時代に遡るものだった。パンの文化が一気に花開いたルネサンスの時代。フィレンツェには腕のいい職人が数多くいた。その職人をフランスに連れて行ったのがメディチ家の女性だった。政略結婚によってフランスの王家に嫁いだカテリーナがたくさんのパン職人を連れて行ったのだ。
 その結果、フランスでも美味しいパンが作られるようになって一気に広がり、今のフランスパンのような形が出来上がると、それは食卓になくてはならないものになった。
 フィレンツェのパン職人はフランスの食文化に多大な貢献をしたことになる。その意味では、フランス人はメディチ家やフィレンツェにもっと敬意を表してくれてもいいのではないかと時々考えることがある。
 もちろん、メディチ家がそのような役割を果たす前からイタリアではパンがよく食べられていた。
 話はかまどが登場した古代ローマ時代に遡る。
 竈によってパンの製造技術が飛躍的に向上し、それまでの平べったいパンから、よりふっくらとした美味しいパンを焼けるようになった。ただし、それはとても貴重なもので、貴族など一部の人の口にしか入らなかった。
 それが一般庶民の口に入るようになるには、ルネサンスの時代まで待たねばならなかった。パン造りを修道院が独占していたからだ。その特権を守るために農民から石臼いしうすを取り上げることまでしたそうだ。
 しかし、ルネサンス期になって経済や文化が発展して人々の暮らしが豊かになると、美味しいパンが食べたいという欲求が高まり、その需要に応えるためにパンを製造販売する店の数が増えていった。
 それに連れて優秀なパン職人の数が増えると共に製造技術が向上していき、どんどん美味しくなっていったパンは主食の座を射止めることになった。イタリアといえばパスタが主食のように思われているようだが、実際は違う。あくまでも主食はパンなのだ。

 すべては竈から始まった。
 ローマ神話に登場する女神にも『竈の神』がいる。『Vesta(ウェスタ)』だ。竈から転じて家庭や結婚の守護神とも言われ、処女神とされている。
「私はパン職人になるために生まれてきたのよ」
 それがウェスタの口癖だ。製薬会社の研究職を諦めた頃と違って、最近はパン職人を天職と思っているようだ。
 確かにその通りだとフローラは思った。彼女が処女である可能性は万が一にもなかったが、竈の神であることに疑いを持つことはなかった。
 さあ、食べよう、
 頭の中からウェスタの姿を追い出して、パンを置いた皿に手を伸ばした。そして、スライスしたチャバッタを、塩を混ぜたオリーブオイルに付けて口に入れた。
 ん~最高!
 色々な具材を挟んでパニーノにして食べるのを好んではいるが、朝はシンプルな食べ方が一番気に入っている。
 次は……、
 フォカッチャとグリッシーニのどちらにしようか迷いが生じたが、皿の上の生ハムがグリッシーニを指名した。
 そうなのよ。生ハムを巻いたグリッシーニは最高なの。
 独り言ちたフローラは、スティック状のグリッシーニを半分に折って、生ハムを巻いて、口に入れた。
 これよ、これ!
 頬を緩めて皿のオリーブを一つ摘まんで口に入れると、たまらなくワインが欲しくなった。
 しかし、テーブルの上にはミルクしかないので我慢するしかなかったが、それは明日のディナーで解消されることになっている。ウェスタと食事をする約束をしているのだ。
 最後はこれね、
 気を取り直して、穴にオリーブが入ったフォカッチャにかぶりついた。そして、スライスしたモッツァレラチーズとトマトを口に運ぶと、余りのおいしさにため息が出た。
 う~ん、たまらない。
 最高のコラボレーション!
 口福至福で朝食を終えた。

        2

「遅れてごめんなさい」
 待ち合わせをしたオステリア(庶民的な食堂)に駆け込むなり、フローラは頭を下げた。
「大丈夫、私も今来たところだから」
 本当は20分ほど待っていたはずだが、ウェスタはそんなことをおくびにも出さずにニッコリと笑った。
 席に着くと、店のスタッフがフランチャコルタを運んできた。フローラはロンバルディア州で造られるこのスパークリングワインが大好きなので、自分でもわかるほど頬が緩んだが、それが合図になったかのようにオーナーが近づいてきた。
「いらっしゃいませ」
 日本語だった。笑みを浮かべているのは日本人男性だった。
「お久しぶりです」
 フローラが日本語で返すと、「お待ちしておりました」とボトルを開けて二人のグラスに優雅な手つきで注ぎ、「ごゆっくりお楽しみください」と笑みを残して、厨房に戻っていった。
「Salute(サルーテ)!」
 二人はグラスを合わせて、互いの健康と幸福に感謝した。
「待ち遠しくてたまらなかったの」
 朝からワインを飲みたくて仕方なかったと言うと、「明日はお互い休みだから、しっかり楽しみましょ」とウェスタがもう一度グラスを掲げた。
 ベーカリーは日曜日が休みだったが、薬局は年中無休な上に土日に来店客が多いので、フローラの休みは月曜日と火曜日に限られていた。しかし、それではウェスタとゆっくり食事もできないので、月に一度は日曜日に休みを取ることにしていた。
「もう頼んだ?」
 もちろん、というふうにウェスタが頷いた。
「何が出て来るか楽しみだわ」
 フランチャコルタを一口飲んで厨房の方に視線を向けると、呼ばれたように料理が運ばれてきた。前菜の盛り合わせだ。
「ウヮ~、今日は一段と豪華ね」
 大きな皿の上には5種類のハムと3種類のソテーした野菜と6種類のブルスケッタと2種類のチーズが盛り付けられていた。
「どれにしようかな~」
 迷った末にソテーしたズッキーニとトマトを乗せたブルスケッタを小皿に取ると、ウェスタはソテーした人参と豚レバーペーストのパテが乗ったブルスケッタに手を伸ばした。そして、一口食べてグラスに手を伸ばし、「合うのよね~」と頬を緩ませた。

「これは何かしら?」
 フローラが見慣れないブルスケッタを手に取ると、すぐにオーナーの説明が始まった。マヨネーズベースのソースに魚が入っていて、『しめさば』だという。口に入れると和の風味が広がった。
「う~ん、美味しい」
 一味違うブルスケッタに舌鼓を打つと、「私はこれを食べてみるわ」とウェスタが次のブルスケッタに手を伸ばした。チャンジャ(タラの内臓の塩辛)の上にクリームチーズが乗って、更にその上に黄色のツブツブが振りかけられていた。『からすみ』をすりおろしたものだという。
「最高!」
 満面に笑みを浮かべたウェスタがオーナーに向けて指を立てた。
 フローラも見慣れぬブルスケッタに手を伸ばした。それはパン生地ではなくリンゴで、その上にマヨネーズで和えたサラダが乗っていた。「可愛すぎる」と言いながら口に入れると、酸味と甘みのコラボレーションが味蕾を刺激して、口の中が至福で満たされた。
 ウェスタが最後のブルスケッタに手を伸ばした。クリームチーズの上にイチゴが乗って、その上にメープルシロップがかかっていた。もうこれはスイーツと言っても過言ではないだろうと思いながら見つめていると、ウェスタの頬が緩んで、「パーフェクト!」と声が出た。すると、オーナーがボウ&スクレイプ(貴族風のお辞儀)で応えた。それが余りにも決まっていたので、ウェスタに続いてフローラも音を立てずに拍手をする振りをした。
「前菜なのにフルコースを食べたような感じだわ」
「本当ね。それに、イタリア人シェフだったら絶対に発想しないレシピよね」
「確かに。でも、だからここが好きなのよ」
 二人の賛辞合戦がしばらく続いたが、チーズを食べ終わった頃、フランチャコルタのボトルが空いた。
 すると、それを見計らったように赤ワインのボトルが運ばれてきた。トスカーナ地方を代表するワイン、フレスコバルディだった。700年間、30世代に渡って受け継がれてきたワイナリーが生み出す特別なワイン。それも、当たり年と言われている2007年のものだった。鮮やかな手つきでオーナーがコルクを抜いてグラスに注いだ。
「奮発したわね」
「たまにはね」
 ちょっとくらい贅沢してもいいんじゃない、というような表情を浮かべてスワリングしたあと口に運ぶと、「おいしい……」とだけ言ってウェスタが笑みを浮かべた。
 そうなのだ、美味しいものに注釈はいらないのだ。
 同じくスワリングをして口に含んだフローラは黙ってワインを味わったが、それでも「フランチャコルタとフレスコバルディはトスカーナの宝だわ」という賛辞を忘れることはなかった。

「相変わらず忙しい?」
 ウェスタが訊いた。
「あなたほどではないけどね」
 肩をすくめたフローラが言葉を継いだ。
「それより、この前の続きを聞かせてよ」
「続きって……、あっ、わかった。パンの歴史ね。この前はどこまで話したかしら?」
「メソポタミアからエジプトに伝わって、パン生地を一晩寝かせたら美味しくなることを発見した女の人がパン屋さんを開業して、秘伝を守り続けたら代々繁盛したというところまでよ」
「そうだったわね、思い出した」
 ウェスタはフレスコバルディを一口味わって幸せそうな表情を浮かべたあと、グラスを置いて続きを話し始めた。
「死後のパンって知ってる?」
 フローラは首を横に振った。
「古代のエジプトでは死後の世界があると信じられていてね、亡くなった王様が食べられるように棺の中にパンを入れたらしいの。だから、死後のパンと呼ばれているのよ」
 すると、ツタンカーメンの棺にパンが入れられている光景が思い浮かんだ。
「それって、あの時に見つかったの?」
 3000年以上の時を経て棺が発見された時に死後のパンが見つかったかどうか知りたくなった。しかし、ウェスタは〈知らない〉というふうに肩をすくめて、「何もかも明らかになることがいいとは限らないからね」と悪戯っぽく笑った。
 確かにその通りかもしれないとフローラは思った。想像を膨らませる楽しみは格別だからだ。なので、死後のパンをツタンカーメンが頬張っている姿を思い描いて古の時代にタイムトリップしたが、「ところで」というウェスタの声で今に戻された。
「肥沃なナイル川の流域では小麦がよく育ったから、パン造りが盛んになって、それを見た他国の人たちがエジプト人を『パンを食べる人』と呼ぶようになったのよ」
 それを聞いてツタンカーメンの姿が消え、代わって上半身裸で腰布だけを身に着けたエジプト人がパンをこねて焼いている姿が脳裏に浮かんだ。
「次にパン造りが盛んになったのはギリシアと言われているわ。今から2800年ほど前らしいんだけど、釜の改良など色々な工夫をしたらしくて、パンの製造技術が格段に向上したようなの。だから何十種類ものパンを焼いていたようよ」
 その中にはブドウやイチジクなどを入れた菓子パンや魚の形をしたパンなどがあったという。
「ギリシアでは水車による製粉も始まったのよ。確か、紀元前450年頃だったと思うわ。人の手では限界があった小麦粉の大量生産が始まったのよ。それから色々な工夫がされてきたんだけど、大きな変化が現れたのは12世紀になってからなの。風車が使われるようになったのよ。でも、それからしばらくは技術革新は起こらなかったのだけど、18世紀に入るととんでもないものが発明されたの。蒸気機関の登場ね。これによって更に大量の小麦粉が作られるようになったの」
 産業革命か~、とフローラが呟いた時、オーナーがメイン料理を運んできた。
「メディチ家ゆかりの料理をご用意しました」
 ソテーしてスライスされた鴨肉の上にオレンジピールが乗って、華やかな色合いを添えていた。
「カテリーナ・デ・メディチも召し上がっていた『鴨のオレンジソース』です」
 フランス国王アンリ2世に嫁いだカテリーナが最高の料理スタッフと共に持ち込んだ料理の一つがこの鴨料理だった。
「500年の時を経て私たちの口に入るなんて……」
 ウェスタが感慨深げに噛みしめたので、フローラは思わずグラスを上げた。
「ご先祖様に感謝!」
 ウェスタがそれにカチンと合わせて敬意を表するような笑みをオーナーに送ると、彼はまたボウ&スクレイプで応えて、厨房へ戻っていった。

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