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閑話 26
その日、天空に在りし物を見詰めた者達。
しおりを挟む蒼穹に掛かる雲はあくまで白く、清冽ともいえる空気は、その情景を瞳に映す者に、”ついに時が来たのだ ”と、そう強く印象を与えた。 その情景は、王都ファンダルの北西の蒼穹に生み出された。
遠く…… 遠くに、響く精霊召喚の召喚鐘の音。
黄金に光り輝く【法円魔法陣】が、その姿を早急に描き出されていた。 ついに…… ついに、時が来たのだ。 聖職者が打ち上げる『開戦の詔』を天空に掛けるために紡ぐ、第一級の聖職者の魔法陣。 それが、蒼穹に紡ぎ出されたのだ。
王都ファンダル。 王城コンクエストム。 王太子府のバルコニーで、宰相府のバルコニーで、聖堂教会の主聖堂の高みにある『星見の祭壇』で…… 王太子ウーノルが、執政府に詰めていた者達が、神官を引き連れた神官長パウレーロが……
皆が皆…… 食い入るように、その情景を、固唾を飲んで見詰めていた。
―――
王城コンクエストム、王太子宮のバルコニーに於いて、ウーノルの王太子が非常に厳しい表情を浮かべ、遥か北西の蒼穹に掛かる、その情景を双眸に収めていた。 来るものが来たと、そう云う表情を浮かべ、未来を切り開く『覚悟』を心に誓っていた。 無謀な戦争を起こす『開戦の詔』が宣下されたのだ。
厳しい声が、王太子宮に投げつけられる。
「カービン=ビッテンフェルト宮廷伯。 緊急だ。 王国の重鎮たちを『王太子府』に召喚せよ」
「御意に。 ルーク、内務、外務、軍務、財務の各大臣職を戴いている方々を、『王太子府』に」
「御意に」
王太子付き侍従長であるビッテンフェルト宮廷伯は、配下の侍従であるルークに指示を飛ばし、自身は『王家の見えざる手』の者共に秘匿通話回線を開く。 王城コンクエストム内に、非常線を張り巡らし、王太子ウーノルの行動を遮る者達の排除を命じていた。
―――
宰相府のバルコニーにて、現宰相閣下ケーニス=アレス=ノリステン公爵が北西の蒼穹を望み、深い溜息をひとつ落としていた。 もう事ここに至っては、計画された『王権の簒奪』は、止める事が出来ないと云う事実に、深く心を痛めていた。
王太子ウーノルには、正当な手順を以て王位に付かせてやりたかった。
そうする事で、この国の王の威光は正しく継承されると、そう思っても居た。 しかし、現王ガング―タス国王陛下の意思で、ゲルン=マンティカ連合王国との戦端を開く詔勅を発したと成れば、それを止めねばならない。 その為には、北方荒野に居る現王ガング―タス国王陛下の保持する国権を奪い取らねばならなかった。
それは…… 国を運営する立場にあるノリステン公爵であっても、苦渋の決断とも云える。 彼もまた、一人の廷臣。 ガング―タス国王陛下に対し、藩屏たるを誓った漢でもある。 自身の矜持、貴族としての誉を鑑みるに、これは酷い裏切りとも云える。
国権をガング―タス国王陛下から奪い取り、それを受け渡すのは、陛下の御継嗣に当たるウールの王太子であったとしても……
隣に歩を進める者が居た。
ジンラーデン=クラークス伯爵。 宰相府情報局 筆頭分析官の年老いた漢だった。
「事ここに至っては、どうする事も出来ませんな」
「クラークス卿。 そうであるな。 ニトルベイン大公閣下も、御心を定められたでしょう。 アレを見れば、そうなりましょうな。 愚かな…… 本当に、愚かな決断を下された。 ドワイアル大公閣下も、これから苦難の時を迎えられましょう。 ファンダリア王国も、平穏とは…… いきますまい」
「あちらにとっては、国王親征と取られても、致し方なし。 こちらがいくら陛下の権能を奪い取って、彼の尊き御方には国権を保持されていないと、そう交渉したとしても…… 王家のモノが、『開戦の詔』を宣下された事には変わりないのですからな。 ……北とは荒れましょうな」
「その荒れた情勢に於いて、即位されるウーノル王太子に於かれては…… 苦難の道と成りましょう。 ならば…… 我等がその傍に於いて、己の職務を全うするしか…… 忘恩の弑逆を償う術は御座いますまい。 ガング―タス国王陛下…… 本当に、貴方と云う方は……」
「まさしくな…… 残念な事ですな」
バルコニーに立ち、北西の空を望む二人の漢。 深い憂慮の表情が、その相貌に浮かぶ。 ガング―タス国王陛下をよく知る漢にとって、天空に紡がれたソレは…… 余りにも罪深い物に違いなかった。
―――
今のファンダリア王国の民の中で、実際に【法円魔法陣】を見た者は非常に少ない。 事実、最も近しく【法円魔法陣】が空に打ちあがったのは、獅子王陛下が『北伐』を宣下した時の事。 それ以来、【法円魔法陣】が、空に掛かる所を見たことがある大人は、居ない。
実際に【法円魔法陣】を目にした事が有る者は、既に高齢といえる歳に差し掛かっている。 ファンダリア王国最大の人口を誇る、王都ファンダルに於いても、僅少と云える。 実際に瞳に【法円魔法陣】を映した者の一人であるのが、神官長パウレーロ。 その彼にしても、当時はまだ成人年齢に達したばかりの頃。
その神官長パウレーロが、小さく言葉を紡ぐ。 その双眸に、彼の知る【法円魔法陣】とは、異なるその情景を映したのが、最大の理由。 法円魔法陣の中央部には唯々、黒々した『虚無』が有ったからだった。
「親愛なる、エクスワイヤー枢機卿。 私は王城コンクエストムに向かう。 アレは完全なる【法円魔法陣】ではない。 なにか、我等や王城の者達が想定していない事が進行している可能性がある。 王太子が成そうとしている事は、此方にも既に通達が届いてはいるが、『開戦の詔』が完成せぬうちに行動する事は彼の本意では無かろう。 アレを見て、既に『開戦の詔』が完成したと、錯誤する事は今後の王太子が行動の正当性を損なうやもしれぬ。 このままでは、事態は早急に運ぶだろう。 望まぬ混乱が起きるやもしれぬ。 それを阻止するのは、私の役目ぞ。 そう、そうだ、まだ…… まだ、【法円魔法陣】は完成しておらぬ」
「御意に。 では…… 先触れを進発させます、神官長様」
「うむ。 頼む」
――――
王姉ミラベル=ヴァン=ファンダリアーナの居室に、その日に呼ばれ伺候していた賢女ミルラス。 彼女達もまた、王姉ミラベルの居室に付随するテラスに於いて、その光景を目の当たりにしていた。 深く、深く、溜息を落とすのは王姉ミラベル。
彼女の美しい顔には、苦悶の表情を浮かんでいた。
「愚弟は…… 取り返しが付かぬ、愚行を成しましたね。 甥が不憫で成りません」
「ミラベルよ…… ガング―タスは愚かではあったが、アレを為すほど『物が見えぬ者』だったか?」
ジロリと王姉ミラベルに視線を流し、そう言葉を紡ぐ賢女ミルラス。 手を顎に当て、少し考えるような仕草をして王姉ミラベルは応える。
「善き王と成ろうと、努力していた…… そう、思っていたのですが…… 先の王妃に礼を失したまま、王妃フローラルを傍に置き続けた、あの子ですからね。 成り下がった…… と、云えるのでは? それにしても、薬師錬金術師のあの子…… 大丈夫でしょうか? あの子もまた、北の荒野に向かっていたのでは?」
「リーナかい? まぁ、そうさね…… アレには、重大な『使命』が、あるんだよ。 精霊様方から課せられた、とんでもなく重大な『使命』がね。 父親の愚行に付き合っているような、余裕は無かろうて…… しかしの、ミラベル。 あの魔法陣…… 何処か…… おかしいぞ?」
「どういう事ですの?」
北西の天空に視線を戻した賢女ミルラスは、視線を蒼穹に掛かる魔法陣に固定して、深く思い出すような表情を年老いた相貌に乗せる。 法円魔法陣の中央部には唯々、黒々した『虚無』が有ったからだった。 可能性を見出したような、そんな表情であった。 考えを纏めるかのように賢女ミルラスは、言葉を紡ぐ。 なにか善き考えはないだろうかと。 このままでは、どのみち戦争は抑えられない。 表情は暗く、気分は全く上がらない。
「必要なモノが無い。 わたしも、アレを直接見たことが有るがな…… どうも、違和感が拭えん。 それに本来ならば、すでに精霊様方の御声が広がってもおかしくは無い筈なのだが…… それも無い…… 更に云えば、「法円魔法陣」が形を変え、光輪と成りつつある…… おかしい…… どうも…… 想定外の事が起こっていると、そう感じられるな。 しかしの…… どのみち、北伐街道の起点にある城塞に張り付いている第一軍から、何らかの詳細な報告が無ければ、どうにも動く事が出来んよ。 アレが打ちあがったのは、ゲルン=マンティカ連合王国も観測してようしな。 ならば、あちらは戦端を開こうな。 願わくば、わたしが感じた違和感を持つ者があちら側にも居て、此方に問い合わせしてくれるのを願うばかり…… 王太子府は憔悴しておるでな。 初動として、ガング―タスが保持している国権を簒奪する事は出来ようが、その後、ウーノルの坊主が国権を継承してからしか、ゲルン=マンティカ連合王国と折衝出来ぬわ。 そうするには時間が掛る…… 荒れるな……」
「その為に、賢女様に於かれては、この王城コンクエストムにいらして下さったのでしょ? 獅子王陛下とのお約束をお守りに成る為に」
「まぁな…… この年になって、こんな重大な事態に成るとはな…… 」
二人の高位の女性達は、視線を北西の天空に向けたまま、深く嘆息するほか…… 無かった。
―――
王妃フローラルは、『黒瑪瑙の間』のバルコニーに於いて、膝を折り祈りを『風の精霊』へ捧げていた。 北西の蒼穹に【法円魔法陣】が紡がれ、やがて大きな光輪となるその場所。 それを視界に居れてからずっと……
老王宮女官は、その姿を彼女の後ろからずっと見詰めていた。 余りに真摯な祈りは、既に精霊の顕現に至る程。 王妃フローラルの周囲に光の粒が沸き立ち、渦を巻いて彼女を包み込んでいた。 幾本もの光の流れが、その渦から飛び出し、遠く北西の空に消えていく。
時折、光の風がその渦に舞い込む。
真摯な祈りは、続けられる。
そして、老王宮女官は、その双眸にはっきりとした像を結ぶ。 王妃フローラルの顔に、喜びにも似た表情が浮かんでいるのを。 まるで…… 深く好意を持った者と、時を経てまた会えたような…… そんな表情が、思わずと云ってよい程、唐突に表れた事を。
一際大きな光の塊が、渦に迎え入れられた。 そして、跪拝の姿勢を解き、立ち上がる王妃フローラル。
その手に何か光溢れる、何かがが、握られていた。
「皆を…… この国を導く者達を皆、『謁見の間』に招聘しなさい。 王妃フローラルが勅命です」
断固とした声が老王宮女官の耳朶を打つ。 誰にも冒されぬ、気品と権能。 まさに、王妃の権威を体現した、王妃フローラル。 表情はあくまで柔らかく、強かであり、何物にも屈せぬ強固な意志を浮かべていた。 老王宮女官は、只々深く頭を垂れ、勅命に従う他…… 無かった。
「御意に。 王妃殿下」
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