その日の空は蒼かった

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閑話 26

閑話 覚醒の王妃

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 王城コンクエストム 離宮と呼ばれる、隔離された塔楼。 最上階に存在する、『黒瑪瑙ブラアゲットの間』。 王族が表舞台を去り、心から精霊様への祈りを捧げる場所として、用意されたそんな部屋。

 勿論、本来ならば、そんな場所に、”有力”な王族は送り込まれることは無い。 有体に云えば、幽閉場所。 建前上、王族を幽閉するなどとは言えぬ場合、この離宮が用意されていた。 そして、その場所は、王太子ウーノルによって、自身の母親を収監する為に整備された。 そう、その場所に送り込まれていたのは……


 ―――― ファンダリア王国 王妃フローラル=ファル=ファンダリアーナ殿下


 誰の目にも、『無能の王妃』と見られていた彼女は、その待遇を受け入れるほかなく、彼の部屋で逼迫の定めを受け入れられず狂い、人事不肖と成っていた。 深く眠るフローラル王妃。 傍に付き、王妃のこの部屋での全てを取り仕切っている老王宮女官が、その日も眠る彼女の様子を伺いに寝室に入室した。

 老王宮女官が寝室に入室した時、既にフローラル王妃は、目を覚ましていた。 それは、実に彼女が人事不肖となり、おかしな言動と共に気を失ってから、一週間の時を経ていた。 慌てた老王宮女官がすぐさま、フローラル王妃の元に向かう。


「妃殿下、ご、ご機嫌麗しゅう」

「あぁ、貴女でしたか。 着替えを。 いえ、その前に沐浴をしたく思います。 朝食の前に朝の祈りを捧げに、祈りの間に向かいます。 良いですね」

「は、はい。 では、準備を」


 そっとベッドを降りるフローラル王妃。 一週間もの昏睡の後とは思えないしっかりとした足取りで浴室に向かう。 冷たい冷水での沐浴。 それは、以前のフローラル王妃が何よりも忌避した事。 優美な体躯を流れ落ちる冷たい水は、彼女の心を清く浄化していくとも云える。

 傍に立ち、精進潔斎を為すフローラル王妃を間近に見た老王宮女官は、強い違和感に苛まれる。 手に感謝の印呪を結び、一心に潔斎をするフローラル王妃の姿に、本来の王妃たる者の矜持を見てしまったからであった。

 沐浴を済まし、粗末……とも云える、質素な礼拝用の式服を纏ったフローラル王妃は、纏う式服に一切の苦情を云う事も無く、歩みを祈りの間に進める。 一週間前とは、何もかも正反対の言動に、老王宮女官の困惑は更に深まる。

 祈りの聖壇の前に跪き、感謝の祈りの呪印を胸の前に結んだフローラル王妃。 頭を垂れ、精霊聖句を口に乗せ、一心に祈りを捧げる様は、心あるこの国の王妃の誠の姿であると、老王宮女官は心の中で呟く。

 ”一体何が起こったの云うのか。 この様な王妃は見たことが無い。 フローラル王妃はこれ程の方では無かった筈。 なにか…… 何か違う……”

 思い起こされるのが、老神官クレリックが言葉。


『フローラル王妃は、意識を失われて居られます。 寝台に。 我等にも治癒師の仲間が居りましょう。 ウーノル王太子殿下の御命令もありますが故、我等のみで王妃殿下を見守る事となりましょう。 …………もう ……フローラル殿下の魂は……   失われ、別の方の魂が、その中にお入りに成られた…… 神官として、初めての事に御座います。 我等とて、困惑を感じるしか他に御座いません。 ただ……… 収まるべきところに、収まった。 そう感じて仕方ないのです』


 別の方の魂が、フローラル王妃に入った? そして、それが、収まるべき所に収まった? フローラル王妃の立ち居振る舞いに、何ら破綻も見当たらない。 それは、まるで、そうであるべき姿そのものでもあった。 以前のフローラル王妃は、王族の矜持も誉も持ち合わされておられない、それどころか貴族のそれすらも怪しい、たいへん個性的・・・な方でもあった。

 ―――― それゆえガング―タス国王が誰よりも愛された方でもあった。

 そう、後宮では認識されていた。 誰も、彼女に王妃としての役割を強制する事も無く、あるがままに、そのままの彼女を受け入れるよう、ガング―タス国王からの申し付けもあった。 ゆえに、今のフローラル王妃には心許せる者は誰も居ない。

 フローラル王妃の父君である、ニトルベイン大公閣下でさえも、この頃は王妃と距離を置き、王太子ウーノル殿下の傍に付き従っているほど。 ただ、ただ、王太子殿下の生母であらせられると云う事だけが、彼女をして、『死の玉杯』から遠ざけていたにすぎない。

 それが、今日、覆った。 まるで、最初からそうであったかのように、矜持高く誉深い王妃の姿をした、フローラル王妃と生まれなおした…… いや、彼女の根底にあった振る舞いであった。


「朝餉の後、バルコニーに出る。 長くご挨拶していなかった、我が守護精霊様にご挨拶を申し上げます。 簡易祭壇を設えるように」

「御意に」


 その日…… 朝餉の後、日没までバルコニーに設えられた簡易祭壇の前に跪いて祈りを捧げる、フローラル王妃の姿があった。 一心に、それまでの非礼を詫びる様に、力無き人の子が精霊様の慈悲を乞う様に…… 感謝と懺悔の祈りであった。 老王宮女官はその様子をしっかりと目に焼き付け、日没後、ささやかな晩餐を供した後、自身に課された役目を果たす。

 執政府と聖堂教会に連絡を取り、今日の出来事を報告した。 おとなしく過ごしさえしていれば、執政府は何も言ってこないであろう。 きっと、明日は、聖堂教会から様子見に、老神官クレリック達がやって来るだろう。

 大きく何か・・が、変化した事を肌で感じた老王宮女官は、必要な部署に情報を流した。 

 ただ、現在の王宮に於ける激動の中に埋没され『その情報』は、無視されて行くであろう事は、容易に想像が出来た。 少々、懸念が有るが、それは仕方のない事と、諦めるしかなかった。



 ―――― § ―――― § ――――



 フローラル王妃の日常は変化した。 老王宮女官はそう確信した。 それまでの怠惰で享楽的な行動は失せ果て、逼迫された環境に於いても、彼女は王妃としての気品を保ち続け、真摯にガング―タス国王陛下の無事を祈る毎日を過ごしている。

 更に、『黒瑪瑙ブラアゲットの間』に付随する書庫から、大半の娯楽図書が撤去され、代わりにファンダリア王国 公告文書の数々が運び込まれた。 時を遡り、ガング―タス国王陛下が即位されてからの公告文書であった。

   ――― つぶさに精読されたそれらの文書。

 ファンダリア王国が歩んだ道の詳細が、事実の羅列として綴られたそんな公文書の束であった。 古い文書は古文書館より運び込まれ、さらに法典、王国典範、王室典範等の法規書も運び込まれた。 早朝に起きるフローラル王妃は、朝餉の前に祈りを欠かさず捧げ、朝餉後は昼過ぎまで、過去の文書や法典に目を通し、午餐の後バルコニーに於いて、王妃の云う”守護精霊様”への祈りを日が沈むまで捧げる。

 質素な晩餐の後は、併設される『祈りの間』に於いて、遠く北の荒野へ赴かれたガング―タス国王陛下の安寧を祈願する祈りを精霊様方に捧げ、そして、眠りに付く。

 老王宮女官は、そんな毎日を送るフローラル王妃を間近に見つめていた。 要求されるモノは、かつての彼女からは想像も出来ないモノばかり。 宰相府と相談し、『それならば』と特別の配慮として、それらのモノが『黒瑪瑙ブラアゲットの間』に、運び込まれていた。

 そんな日常が続いたある日の夜。 質素な晩餐を文句一つ云う事も無く終えたフローラル王妃が、傍らに控える老王宮女官に言葉を掛ける。



「一つ、願いが有るのです。 人物を一人、この部屋に招待したい。 宰相府と相談の上、この部屋に寄越して。 王妃が勅命・・にて召喚・・していると、そう伝えなさい」

「妃殿下…… それは、難しいかと? 誰であろうと、男性・・はこの部屋に運ぶ事は出来ません」

「男性? 違うわ。 初老の女性を召喚するのよ。 名はジークリンデ。 ニトルベイン大公家が連枝、ジンラーデン=クラークス伯爵が妻。 わたくしの乳母に当たる方よ。 久しく顔を見ていないの。 しばらくぶりに旧交を温めたく、そう思ってね。 宰相府も認めると思われるわ。 だって、貴女が認めさせるのだもの」

「妃殿下……」

「特別の懇願を以て後宮上級女官職に復帰された、後宮上級女官長ならば、そのくらいの手練手管はお持ちの筈よ? ちがう?」

「……買い被りに御座いましょう。 もう、既に…… その御役目は退きました」

「まぁ、そうかしら? 愚鈍な王妃が、愚行を犯さず生きる為に宰相府が、『特に・・』と願い、この部屋に付いた筈だったのでは? 現後宮上級女官長も貴女には頭が上がらい筈だしね。 でなくては、わたくしが望んだ文書など、到底この部屋に運び込まれる筈はないもの」

「そ、その…… 妃殿下に於かれましては…… 妃殿下は…… 余りにも、その…… 一体、どなたなのですか?」


 自分の素性など、知らぬと思っていた。 現につい前日までは、役立たずの老人だと思われていた節が、妃殿下の言動のあちこちに見られてもいた。 老王宮女官は、思わずと云った風に尋ねたしまった。 どうにも、違和感が拭えず、目の前に居る人物が見知っているフローラル王妃だとは信じられなかったからだった。

 稚拙な幼さと、庇護欲をそそる媚びた表情しか浮かべてこなかったフローラル王妃が、妖艶とも優美とも云える大人・・の淑女の笑みをその美しいかんばせの乗せる。



「ファンダリア王国がガング―タス国王陛下の妻。 王妃フローラル=ファル=ファンダリアーナよ。 それ以外の誰だと? あぁ、フローラル=フォス=ニトルベイン大公令嬢でもあったわね。 王宮の古狸の末娘・・よ。」



 紡がれる言葉に、老王宮女官は背筋が震える。 紛れも無く其処に居たのは、正当なるファンダリア王国が王妃…… ” フローラル=ファル=ファンダリアーナ ” であった。 老王宮女官は、唯々頭を下げ、口にする言葉は一つだけとなった。




「……御意に、王妃殿下」






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