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断章 9
輜重幕僚 イザベル=クレア=グラスコー女子爵の思案
しおりを挟む王城外苑、第四軍、第四師団司令部。
静謐な空気が流れ、カリカリとペンが紙をなぞる音だけが、響いている。 そろそろ魔法灯の明かりが必要となる時間。 輜重幕僚は、第四軍司令部、主席戦務幕僚からの命令により、第四師団の配置、訓練状況、損耗した兵の補充状況などを、纏め上げていた。
事は急を要すると、一週間以内と、厳命されていた。
必要なのは時間。 現状を素直に報告しても良いのか、判断に苦慮したが、首席戦務幕僚からの、” すべてを詳らかに ” と、言う命令がくだり、ホッと胸を撫で下ろす。 韜晦し、表面上何ら問題も無いように繕うには、全てがお粗末すぎた。 破れ傘を薄紙で、見栄え良くするような真似はしなくても良いという訳だ。
現状…… 何もかも、不足している。
庶務主計長、である同僚のシャルロットの苦労が思いやられる。 人員、金穀、薬品類、武器、装備、備品。 数え上げれば、それこそきりがない。 輜重幕僚として、部隊に必要な時、必要なだけの物資を送り込むのは彼女の「仕事」であり、「使命」でもある。 しかし、簡単に行くような話ではない。 疲労が重く圧し掛かり、胃がキリキリと痛む…… 問題を叫んでいる数々の資料が、彼女の体と心を痛めつける。
積み上がっている書類の量に、軽く眩暈を覚えた。
椅子に深く腰を掛け直す。 ギシリと椅子が嫌な音を立てて軋む。 執務机の端に置いてあった、もう冷めてしまった黒茶の入ったコップを持ち上げ、苦みが強くなってしまったそれに口を付ける。
” ……あのケーキ。 美味しかったなぁ ”
ふと、思い起こされる、数日前の情景。 薬師院外局近くの食堂で、薬師リーナに振舞われた、三刻のお茶。 かつて、後宮に居た、王宮調理室、製菓部筆頭製菓師。 現王妃殿下の怒りを買い、その場で解職された、不遇の製菓師。 あの者の手による極上の菓子は、ささくれ立っていた、彼女の心を優しく癒してくれた。
****************
噂話でしかないが、彼の製菓師がその職を解職された時の話を思い出していた。 うららかなある日の午後、柔らかな甘みの菓子をフローラル王妃殿下へ、三刻のお茶の時間に供した。 菓子の説明をする為に、控えていたという。
その日は、フローラル王妃殿下の虫の居所が悪かった。 本来ならば、ガングータス国王陛下とのご一緒に居られる筈であった。 他国よりの賓客を持て成す為に、国王陛下は「謁見の間」に向かわれていた。 小国とは言え、その国の国王、および、王妃が揃って伺候していたために、午後の茶会が中止になった。
訪問は、聖堂教会の肝煎で、急に決定した事であった。
本来の予定では無い時間に、急に押し込まれた、その謁見。 さらに、王妃の出席は必要ないと、そう国王陛下が仰れれた。 聴くに、その小国の国王はまだ年若く、そして、王妃は近隣諸国にも知れ渡るような、妖艶な女性だった。
小国の年若き国王をよく補佐し、外交に内政にとても有能な一面も持っていた。
宮廷に伺候する多くの貴族達がが、煩く囀る。 曰く―――
” ガングータス国王陛下が、彼の国の王妃殿下を間近で、王妃殿下に邪魔されず、” ご覧 ” に、なられたいのかもしれん ”
” いやいや、年若き彼の国の国王が、何かしらのモノを、献上しに来たとか ”
” 聖堂教会の アノ 神官長補佐の肝煎だ。 なにがあってもおかしくは無いぞ? ”
” フローラル王妃は、何故、出席せぬのだ? 陛下のご意志か?”
” 判り切った事。 彼の国の王妃と合わせたくないのだ。 能力の違いを見せつけられるからな! ”
” 優秀な御方なのだ。 若き国王の補佐役として、国政にも、施政にも積極的であられるのよ ”
” では…… 此度の急な謁見も? ”
” なんでも、関税率に関して問題があると、そう申されていたような…… ”
” なんだ、彼の国の王妃殿下の献上では無いのか…… つまらん。 みろ、あの妖艶な姿。 一夜だけでもと、思ってしまうのは…… 男の性か?」
” それよ…… 彼の国の若き国王が、常にご一緒におられる理由。 あの若き国王に、実地で研鑽を積ませるおつもりよ、あの方は! そして、若き彼の国の国王に対し圧力がかからぬように、自身に耳目を集められるのが、彼の国の王妃様。 なかなかに、狡猾な御方よの。 そう…… まるで、エリザベート前王妃殿下の様じゃな ”
” フローラル王妃殿下では、太刀打ちできぬな、それは。 エリザベート前王妃様と比べらるようなものだ。 前には出せぬ…… 王妃殿下の不用意な言葉は、王国の利に反するでな。 エリザベート前王妃がおられたらのう…… ”
後宮にまで、漂うそんな宮廷スズメ共の囀りが、嫌でも耳に入るフローラル王妃殿下。 イライラが募る。 たった一人で、後宮中庭のガーデンテーブルに付いていた彼女。 ガングータス国王陛下が、もしかしたら、来られるのではないかと思い、その席を用意していた。
いつしか、日も傾き始める頃。
イライラが最高潮に達した、フローラル王妃殿下は、菓子の説明にその場に留まっていた製菓師に、そのイライラをヒステリックにぶつけてしまった。
” こんなお菓子だから、ガングータス国王陛下が来られないのよ!! こんなモノ!! ”
ガーデンテーブルに乗っていた、その菓子を払いのける様に地面に叩き落とす。 完全な八つ当たりだった。
” 誰が好き好んで、こんな菓子を食べるって言うの! こんな菓子を!! ”
地面に落ちたその菓子を踏みつける。 侍従、侍女、給仕の者達が、顔色をなくす。 フローラル王妃殿下の言葉を聞いた筆頭製菓師は、彼女の言葉敢えて、” 問い ” として、認識した。
自ら丹精込めて作った菓子を、足蹴にされた筆頭製菓師は、胸の内で静かに怒っていた。 そして、敢えて、ある人物の名を出す。
” この菓子は、繊細で優しい味がします。 わたくしが、考案し、作り上げました。 ある方をイメージしたとも言えます。 その御方こそ、何が起ころうとも、心を乱されない、御方に御座いました ”
” 誰よ、そ、それは!! ”
” その御方は、『 エリザベート前王妃 』に御座います。 前王妃殿下に初めてこの菓子を、お出しいたしました折り、前王妃殿下は、殊の外 『お喜び』に、なられました。 わたくしに、『お褒め』 の、お言葉まで頂きました。 優しく包み込むような、そんな美味しい菓子であると。 そして、この菓子に、『エリザ=シフォン』と、名付けて下さいました。 ”
静かに怒る筆頭製菓師。 その名を云えば、フローラル王妃殿下がどのような反応を示すかも、予測の範囲だった。 酒精の強い酒でフランベする様に、フローラル王妃殿下の顔に怒気が浮かび上がり、そして、瞬刻の間も置かず、フローラル王妃殿下の口から ” 王妃命令 ” が、紡ぎ出される。
” んな! 筆頭製菓師。 貴方を解職します!! こんなモノを、わたくしと、国王陛下に出すなどもっての外! この慮外者め!! 即刻、消えなさい!! 衛兵! この者を摘まみ出せ!!! ”
************
王宮や、その周辺で一時、大変な噂になった、その出来事。 解雇された、筆頭製菓師の作り出す菓子は、先代国王陛下夫妻も愛してやまなかったというのに、そんな漢を ” 一言 ” で、解職したフローラル王妃殿下の無知蒙昧な行動は、多くの関係者を鼻白ませたという。
” あの食堂に再就職してたんだ…… 下町の食堂で燻っているとか…… もう、王都にはいないかも…… なんて噂されていたんだけれど。 ……薬師錬金術士リーナ様の凄い「錬金術」を見せつけられて…… とっても、混乱していた私には…… あの時の、あのケーキは…… とても、優しい味のした、あのケーキは…… 心を落ち着かせてくれて、薬師錬金術士リーナ様と本当に大事な、現状の危機の『お話』を、する機会を与えてくれた…… もう一度…… また皆で…… 食べたいものね ”
記憶の中に湧き出す、そのケーキの味。 解けていく警戒心。 第四師団の置かれた、危機的状況を薬師リーナ様にお話する機会を与えた呉れた、あのお茶の時間。
流石は、王宮調理室、製菓部筆頭製菓師の手によるものだと…… そう、感じた。
「でも…… 今まで、彼が薬師院外局の食堂に勤めているなんて噂…… 聴かなかったわ。 つまりは…… 製菓師としての腕は振るっていなかったって事よね…… それが…… あの子に対してだけは…… その価値があると、思ったのかしら。 王宮調理室の製菓師にそう思わせる、あの子…… 一体、何者なの?」
呟くようにそう、口にするイザベル。 薬師リーナの能力は、イザベル自身が間近で見た。 いや、見せ付けられた。 しかし、イザベルにとって、薬師リーナの為人は…… まだ、良く判っていない。 知りたいと、そう思った。
「たしか…… 南方辺境領の出身と云っていたわね。 なら、第三軍の者だったら…… 知ってるわよね。 丁度、三軍の司令部も王城外苑に詰めている筈…… 第三軍の輜重幕僚を捕まえて…… 聴いてみようかしら。 今後の事もあるしね」
冷たくなった黒茶を飲み干し、そう独り言を言う。 目の前にある、仕事の山を片付けた後。しなくては成らない事のリストの一番上に書き込んだ。
「とりあえずは、目の前の ” 仕事 ” を、片付けなくちゃね。 それから、それから!」
独り言は、静謐な司令部の執務室に消える。 また、カリカリとペンが紙を滑る音が、執務室を支配する。 膨大な纏め仕事。
輜重幕僚、イザベル=クレア=グラスコー 女子爵の戦場は、ここに在った。
************
後日、イザベルは、第三軍、輜重幕僚、及び、第三軍第一師団の面々から、トンデモナイ話を聞くとことになる。
彼女の中の、 薬師錬金術士リーナ の像が、ハッキリと、強く、深く、” 刻まれた ”。
” 『海道の賢女の唯一の弟子』、『辺境の聖女』、『愛と慈しみの薬師』 どれをとっても、この上の無い二つ名じゃ無いの…… 私達第四軍は、ファンダリア王国の『宝物』を借り受けたって事よね。 シャルロットにも、言っておかなくちゃ。 色々と、配慮しなきゃ…… 彼女が仕事しやすいように…… 彼女の『誓約』が護られるように。 私達が薬師錬金術士リーナ様を、護らなきゃ…… ”
決意を胸に、薬品備蓄倉庫に向かう。
今日は、南方辺境領 ダクレール男爵領から第一便の薬草が届く日。
薬師錬金術士リーナ様はすでに御着きになっている筈。
遅れないように行かなくては。 その想いが、彼女を背中を押す。
軍務についてから、初めて心が浮き立つような……
前へ突き進む、力が…… 湧いて来た。
第四軍、薬品備蓄庫に向かう、第四軍、第四師団の輜重幕僚である、イザベル=クレア=グラスコー女子爵の顔は、暗闇に一点の光芒を見つけ出したように、晴れやかに明るく輝いていた。
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