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Christmas Special  (クリスマス特別編)

The Stable at Bethlehem  (迷いのヨセフ)

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 The Stable at Bethlehem  (迷いのヨセフ)




「パパ!」



 娘の声がした。

 紅い短いコートをきて、俺のもとに走ってくる。

 彼女へのプレゼントを小脇に抱えてまま、俺は軽く手を上げた。




「良い子にしてたか?」

「うん、だって良い子にしてたら、パパに会えるもん」




 娘は、プレゼントの包みより、俺の大きな手を取り、ぶら下った。彼女の気持ちが、痛いほど良くわかる。俺に抱きつき、甘える娘を、嬉しく思った。俺も娘にだけは誠実になりたかったのかも知れない。

 妻とは別居中だった。俺の我侭だった。半年振りに合う妻。疲れてはいるが、俺と娘を嬉しそうに見ていた。彼女はこんな俺をずっと待て居る。遅い昼食をとろうと云う事になり、三人揃って近所のレストランに向かった。

 後ろで、大きな黒い車がタイヤを軋ませ、猛スピードで走り去って行くのが見えた。反射的に娘を車道の反対側に遠ざけた。




「あぶない車だな」

「そうね」




 半年振りに、妻と交わした言葉だった。




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 俺は、若い頃から、決して誉めらような生活は送って居なかった。大学のころは、容姿はまぁまぁで、以外に女性にモテた。とっかえ、ひっかえ、付き合う彼女は変った。親のコネで今の会社に入ってからも、そんなに変りはしなかった。

 つまりは、軽い男。

 自分でもいやになるくらいだった。

 そう、例の事が起こるまでは。

 新しい女ができた。大学を卒業したてのOLだった。俺もその時は独身だったし、何時もの通り遊び感覚で付き合った。

 しかし、彼女は違った。

 真剣な付き合いを求められた。途端に私の方の心が冷めた。

 冷めただけなら良いが、俺は、冷淡になった。別れを切り出す前に、彼女から告白された。

「妊娠したの。生みたい。貴方の子ども」

 私は冷め切った心の命ずるがまま、彼女に中絶を強要し、中絶費用を渡した。そして、もう会う事は無いと言い切り、別れた。そうだ、俺は酷い男だった。ちらほら聞こえる噂で、彼女は中絶したらしい。その時は、別にどうとも思わなかった。過去にも幾度か同じような事をして来たから。彼女が深く傷ついた事も知らなかった。




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 その彼女が、自殺未遂をしたと、聞いた。 俺はそこまで彼女を追い詰めて居たのかと、恐怖に震えた。 しかし、俺の言葉通り、彼女は2度と俺に会う事はなかった。

 妻と出会ったのは、そんな事があった直後だった。

 なんとなく好きになり、何時もと同じように、付き合う事になった。いい女だった。あるとき、俺は尋ねた。




「中絶するって、そんなに大変な事か?」

「えっ?」




 彼女は息を飲んだ。 目が怒っている。




「…………女はね、御腹の中にもう一つの宇宙をもって居るの。その中に新たな命が吹き込まれると、女は母親になるのよそりゃ妊娠中は苦しいわよ。辛いわよ。でもね、それがあるから、余計にいとおしくなるのよ。自分の手で、その暖かな気持ちを壊すって事は、もう一つの自分の宇宙を壊すって事と同じ。それを強要されたりしたら、普通の人なら、特に、分別のある人なら、耐えられないわ。」

「そうか…………」

「…………まさかそんな事あったの?」

「いいや、人から聞いた話しだ」

「そう、なら良いけど…………」




 胡散臭げに彼女は俺を見た。俺は、恐怖が気付かれない様に、平静を装った。

 その歳の春、俺はなんとなく結婚する事になった。それは、それで、嬉しかった。




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 結婚して一年目の冬に妻の妊娠がわかった。再び恐怖が俺を捕らえた。得体の知れない恐怖。その恐怖から逃げ出す為に、家に帰らなくなった。

 そして、女の居る場所へもいかなくなった。

 俺は、花の香りに引き寄せられる虫の様に、今までは近寄りも、しなかった場所に足を向けた。

 ゲイ、ホモの巣窟だった。

 不思議と安心感が広がり、そして、嵌った。

 俺はそこで、一人の男にであった。その男の素性は判らなかったが、社会的地位と自分の性癖を深く隠して居る事だけは理解できた。

 そして、俺達は付き合い始めた。

 ひそやかで、濃密な付き合いだった。それまでには感じた事の無い、充実感があった。自分の中にそんな性癖が、あった事には驚いたが、それを自然と受け入れられた。ただ一つ、俺に妻と子供がいる事は言わなかった。いいや、隠していた。



 この関係を失いたくは無かったら。



 そして、今年の梅雨時期。妻に知られてしまった。

 妻の憤り、哀しみが、妻を狂気に狩り立て、俺は危うく殺されそうになった。もし、娘が起きてこなかったら、俺はここにはいなかっただろう。

 俺は、家を出た。

 何の約束もせず、ただ、恐怖から逃れる為に。




*********************************




 クリスマスは男と会う約束になっていた。ホテルでの密会。密会と言えるのだろうか?

 会社に妻から電話があった。半年振りに聞く妻の声だった。



(あなた………… クリスマス………… どうするの?)




 冷たい声で妻が言う。




「…………用事がある」




 俺も同じような声でそう答えた。




(…………そう、 …………あの子、あなたの事、待っているわ…………)




 妻の声が震えた。 そうか、娘が俺を待っているのか。 妻は娘になんと言っているのだろう?




「うん、わかっている」

(…………何とかならない? せめて、あの子にだけでも…………)




 妻は、娘に心配を掛けさせてくなくて、本当の事を言ってはいない様だ。妻の優しさだろうか。子供の顔が頭を過った。そうだ、あの子には、罪は無い。せめて顔くらい見せて遣らねば。



「わかった。」



 そう言いながら、電話を切った。




^^^^^^



 前日、ホテルにチャックインする前に妻に電話をした。何とかするつもりだった。しかし、夕方までに、ここに戻らねば、ならない。だから、昼間に会う事にした。その夜、ホテルで俺達は愛し合った。深く、何の疑いもせず。娘の顔も忘れるくらい。

 そして、クリスマス。朝のぼんやりした時間を、テレビをつけて見る。男は俺の横で深い眠りに落ちていた。クリスマス一色だった。子供が、それも娘に似た女の子が、熊のぬいぐるみを抱いて、楽しそうに笑っていた。そうだ、行かなくては…………

 男に、家に帰えらなければならない事を告げた。妻子の事を黙ったまま。男は疑いもせず、了承した。

 俺はホテルを出るとその足で、デパートに向かい、あの、テレビの中と同じぬいぐるみを買い求めた。赤いクリスマスの包装紙に包んでもらい、それを手に、娘の元に向かった。

 そう、娘の元に。



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 娘は無邪気に笑いながら、レストランでの食事を楽しんだ。片時も俺の側を離れ様としない。幼稚園であった事などを、事細かく俺に話した。彼女が話さなければ、重い沈黙だけの食事になっていただろう。妻は娘と俺を見ながら、微笑んでいた。久しぶりに見る、妻の笑顔だった。

 最後のコーヒーとケーキを食べ終わる頃、娘は寂しそうに言った。




「御仕事大変だね」

「…………ごめんな」

「良い子にしてるから、また直ぐに帰ってきてね」

「…………わかってる」




 そうか、俺は仕事で家に帰れなくなっている事になっているのか。 …………何故だ? なぜ妻は離婚を申し入れない? 外聞を憚ってか? 自身のプライドか?

 それまで、どうでも良かった事が、頭の中にこびり付いて、離れなかった。

 店を出て、マンションの前まで送った。娘の手にはしっかりとプレゼントが抱えられ、俺に手を振っている。妻もじっと俺の後姿を見送っていた。視線がいたかった。



 俺は、ぼんやりと、男の待つ、ホテルへと向かった。その間、ずっと妻の事を考えていた。



 何故、彼女は俺を待っているのか?

 何故、彼女は事を公にして、離婚を有利にしないのか?

 何故、彼女は娘にウソまでついて、崩壊した家庭を守ろうとするのか?

 何故、何故、何故、なぜ......



 ふと、目を上げると、雑貨店のショウウインドウが目に入った。そこに陳列されている陶器の人形達。クリスマスシーズンの為か、ディスプレーは生誕神話をかたどったものが多かった。馬小屋の中に小さな赤ん坊、側にいるマリア、置き間違えたのか、遠くに、ポツンと立つヨセフ。馬小屋の外には七人の老賢人達の像が佇んでいた。

 迷いの表情が出ている、ヨセフ。処女受胎した、マリアの産んだ子供が、神によって、神の子と啓示を受けても尚、疑いを捨て切れずにいた、迷いのヨセフ。イエスが自分の子供でないなら、自らの存在が、何であるか、自分が何者なのか、苦悩の表情に見えた。

 幸せを一身にかみしめ、ただ、ただ、幼子イエスを見るマリア。 その目の表情が、妻に似ていた。 慈しみ、守る、母の目だった。 昔、自殺未遂にまで追いこんだ女性の目だった…………

 俺は、自分が酷い男である事を理解した。

 それでも尚、俺はホテルに向かった。 甘美な時間の誘惑に勝てなかった。

 夕方遅くに俺はホテルの部屋に帰ってきた。




「ただいま」

「……………………」




 男の目が冷たく俺を見ていた。




「どうした?」

「いや…………昼間、お前の家に行った」




 恐怖が背筋を走った。俺の顔色が変った事に、男は気が付いた様だ。




「独身と言っていたな」

「…………それは…………」




 それ以上の事を言おうとする前に、男の言葉によって遮られた。




「良い訳はいい。お前が私にウソをついた事実に変りはない」

「…………うぐっ」




 言葉になら無い声が、俺の喉を締め上げた。




「私達の関係は、合意の上の物だ。法的拘束力も、何の保障もない。御互いの心だけが、関係を続ける基本だった。」

「………………だった?」




 どうするつもりだ?




「ウソはそれを覆すんだ。 信じられない者とは、一緒にいられない。 それだけだ」

「わ、別れると、言うのか?」

「わかっているじゃ無いか。 ここの払いは終わっている。 後は、あの女性でも呼ぶがいい。 さようなら」




 俺は手を伸ばし、男に触れようとした、しかし、男はするりと俺の手を抜けると、そのまま扉に向かって歩いていった。




「お、おい…………」




 男は、あとも見ずに部屋を出た。




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 ベットに腰を下し、両手で頭をかきむしりながら、俺は猛烈な後悔に心を焼いていた。全ては、俺の身から出た|錆(さび)。 愛した者が、次々と、この手の指からこぼれ落ちていく。 自業自得。 悪いのは何時も俺自身…………



 全て、俺が原因。



 目をつむると、雑貨屋で見た、マリア像が浮き上がる。 その顔が、次々と変る。 男、自殺未遂の女性、そして、妻。 全て、同じ目だった。




 男は去り、

 女性は永遠に私の前から消え、

 妻の所から、俺は逃げ出していた。

 猛烈に寂しかった。一人きりで、やり切れなかった。誰もが愛を語り、赦しを得るこんな日に、俺は赦される事の無い罪を自覚し、愛する者を失った。

 嗚咽が口から漏れた。

 耳の奥に、幼い娘の声が聞こえた。




「良い子にしてるから、また直ぐに帰ってきてね」




 愛の全てを失ってしまった俺に、その言葉が、染み渡った。一筋の救いの光りを見た気がした。

 俺は、電話を手に取り、家へダイアルし始めていた。

 無意識に、流れる涙を拭こうともせずに。




「………………お前か」

(何?)

「…………話したい事がある…………」

(…………ええ、決心したの?)




 震える声で、妻は答えた。 彼女も俺が出す結論を待っていたのだ。 俺は言った。 心の中の罪悪感がそれを邪魔していた。 何をいまさら言うつもりだ、そういう、うちなる声も聞こえる。 もし、その声に負けてしまえば、俺は、もう人では無くなってしまうだろう。

 無理に、無理を重ね、心の中に巣くう悪魔を追い払い、懺悔した。




「……ああ、 …………もし、 ………………もしも、お前が、許してくれるなら …………俺. …………帰っても良いか?」




 電話口の向こうで、しゃくりあげている、妻の泣き声が聞こえる。 遅かったのか? 俺はもう赦されもしないのか………………。




「ダメか?」




 おそるおそる尋ねた。どうにもなら無いならば、仕方ない。




(ううん、ダメじゃない。見せたいものがあるの………… 早く帰ってきて…………)




 妻が涙声で、そう言った。妻の声に、俺は大声で答えた。




「…………あぁ」




 電話を切ると、後も見ずに、家への道を、駆け出した。

 途中で、あの雑貨店のショウウインドウが目に入った。 マリアと、幼子イエスの直ぐ隣りにヨセフが置きなおされていた。 生誕の情景が完成されていた。




 ヨセフの、迷いの表情が無くなっていた。











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