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Christmas Special (クリスマス特別編)
The Stable at Bethlehem (迷いのヨセフ)
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The Stable at Bethlehem (迷いのヨセフ)
「パパ!」
娘の声がした。
紅い短いコートをきて、俺のもとに走ってくる。
彼女へのプレゼントを小脇に抱えてまま、俺は軽く手を上げた。
「良い子にしてたか?」
「うん、だって良い子にしてたら、パパに会えるもん」
娘は、プレゼントの包みより、俺の大きな手を取り、ぶら下った。彼女の気持ちが、痛いほど良くわかる。俺に抱きつき、甘える娘を、嬉しく思った。俺も娘にだけは誠実になりたかったのかも知れない。
妻とは別居中だった。俺の我侭だった。半年振りに合う妻。疲れてはいるが、俺と娘を嬉しそうに見ていた。彼女はこんな俺をずっと待て居る。遅い昼食をとろうと云う事になり、三人揃って近所のレストランに向かった。
後ろで、大きな黒い車がタイヤを軋ませ、猛スピードで走り去って行くのが見えた。反射的に娘を車道の反対側に遠ざけた。
「あぶない車だな」
「そうね」
半年振りに、妻と交わした言葉だった。
*********************************
俺は、若い頃から、決して誉めらような生活は送って居なかった。大学のころは、容姿はまぁまぁで、以外に女性にモテた。とっかえ、ひっかえ、付き合う彼女は変った。親のコネで今の会社に入ってからも、そんなに変りはしなかった。
つまりは、軽い男。
自分でもいやになるくらいだった。
そう、例の事が起こるまでは。
新しい女ができた。大学を卒業したてのOLだった。俺もその時は独身だったし、何時もの通り遊び感覚で付き合った。
しかし、彼女は違った。
真剣な付き合いを求められた。途端に私の方の心が冷めた。
冷めただけなら良いが、俺は、冷淡になった。別れを切り出す前に、彼女から告白された。
「妊娠したの。生みたい。貴方の子ども」
私は冷め切った心の命ずるがまま、彼女に中絶を強要し、中絶費用を渡した。そして、もう会う事は無いと言い切り、別れた。そうだ、俺は酷い男だった。ちらほら聞こえる噂で、彼女は中絶したらしい。その時は、別にどうとも思わなかった。過去にも幾度か同じような事をして来たから。彼女が深く傷ついた事も知らなかった。
*********************************
その彼女が、自殺未遂をしたと、聞いた。 俺はそこまで彼女を追い詰めて居たのかと、恐怖に震えた。 しかし、俺の言葉通り、彼女は2度と俺に会う事はなかった。
妻と出会ったのは、そんな事があった直後だった。
なんとなく好きになり、何時もと同じように、付き合う事になった。いい女だった。あるとき、俺は尋ねた。
「中絶するって、そんなに大変な事か?」
「えっ?」
彼女は息を飲んだ。 目が怒っている。
「…………女はね、御腹の中にもう一つの宇宙をもって居るの。その中に新たな命が吹き込まれると、女は母親になるのよそりゃ妊娠中は苦しいわよ。辛いわよ。でもね、それがあるから、余計にいとおしくなるのよ。自分の手で、その暖かな気持ちを壊すって事は、もう一つの自分の宇宙を壊すって事と同じ。それを強要されたりしたら、普通の人なら、特に、分別のある人なら、耐えられないわ。」
「そうか…………」
「…………まさかそんな事あったの?」
「いいや、人から聞いた話しだ」
「そう、なら良いけど…………」
胡散臭げに彼女は俺を見た。俺は、恐怖が気付かれない様に、平静を装った。
その歳の春、俺はなんとなく結婚する事になった。それは、それで、嬉しかった。
*********************************
結婚して一年目の冬に妻の妊娠がわかった。再び恐怖が俺を捕らえた。得体の知れない恐怖。その恐怖から逃げ出す為に、家に帰らなくなった。
そして、女の居る場所へもいかなくなった。
俺は、花の香りに引き寄せられる虫の様に、今までは近寄りも、しなかった場所に足を向けた。
ゲイ、ホモの巣窟だった。
不思議と安心感が広がり、そして、嵌った。
俺はそこで、一人の男にであった。その男の素性は判らなかったが、社会的地位と自分の性癖を深く隠して居る事だけは理解できた。
そして、俺達は付き合い始めた。
ひそやかで、濃密な付き合いだった。それまでには感じた事の無い、充実感があった。自分の中にそんな性癖が、あった事には驚いたが、それを自然と受け入れられた。ただ一つ、俺に妻と子供がいる事は言わなかった。いいや、隠していた。
この関係を失いたくは無かったら。
そして、今年の梅雨時期。妻に知られてしまった。
妻の憤り、哀しみが、妻を狂気に狩り立て、俺は危うく殺されそうになった。もし、娘が起きてこなかったら、俺はここにはいなかっただろう。
俺は、家を出た。
何の約束もせず、ただ、恐怖から逃れる為に。
*********************************
クリスマスは男と会う約束になっていた。ホテルでの密会。密会と言えるのだろうか?
会社に妻から電話があった。半年振りに聞く妻の声だった。
(あなた………… クリスマス………… どうするの?)
冷たい声で妻が言う。
「…………用事がある」
俺も同じような声でそう答えた。
(…………そう、 …………あの子、あなたの事、待っているわ…………)
妻の声が震えた。 そうか、娘が俺を待っているのか。 妻は娘になんと言っているのだろう?
「うん、わかっている」
(…………何とかならない? せめて、あの子にだけでも…………)
妻は、娘に心配を掛けさせてくなくて、本当の事を言ってはいない様だ。妻の優しさだろうか。子供の顔が頭を過った。そうだ、あの子には、罪は無い。せめて顔くらい見せて遣らねば。
「わかった。」
そう言いながら、電話を切った。
^^^^^^
前日、ホテルにチャックインする前に妻に電話をした。何とかするつもりだった。しかし、夕方までに、ここに戻らねば、ならない。だから、昼間に会う事にした。その夜、ホテルで俺達は愛し合った。深く、何の疑いもせず。娘の顔も忘れるくらい。
そして、クリスマス。朝のぼんやりした時間を、テレビをつけて見る。男は俺の横で深い眠りに落ちていた。クリスマス一色だった。子供が、それも娘に似た女の子が、熊のぬいぐるみを抱いて、楽しそうに笑っていた。そうだ、行かなくては…………
男に、家に帰えらなければならない事を告げた。妻子の事を黙ったまま。男は疑いもせず、了承した。
俺はホテルを出るとその足で、デパートに向かい、あの、テレビの中と同じぬいぐるみを買い求めた。赤いクリスマスの包装紙に包んでもらい、それを手に、娘の元に向かった。
そう、娘の元に。
*********************************
娘は無邪気に笑いながら、レストランでの食事を楽しんだ。片時も俺の側を離れ様としない。幼稚園であった事などを、事細かく俺に話した。彼女が話さなければ、重い沈黙だけの食事になっていただろう。妻は娘と俺を見ながら、微笑んでいた。久しぶりに見る、妻の笑顔だった。
最後のコーヒーとケーキを食べ終わる頃、娘は寂しそうに言った。
「御仕事大変だね」
「…………ごめんな」
「良い子にしてるから、また直ぐに帰ってきてね」
「…………わかってる」
そうか、俺は仕事で家に帰れなくなっている事になっているのか。 …………何故だ? なぜ妻は離婚を申し入れない? 外聞を憚ってか? 自身のプライドか?
それまで、どうでも良かった事が、頭の中にこびり付いて、離れなかった。
店を出て、マンションの前まで送った。娘の手にはしっかりとプレゼントが抱えられ、俺に手を振っている。妻もじっと俺の後姿を見送っていた。視線がいたかった。
俺は、ぼんやりと、男の待つ、ホテルへと向かった。その間、ずっと妻の事を考えていた。
何故、彼女は俺を待っているのか?
何故、彼女は事を公にして、離婚を有利にしないのか?
何故、彼女は娘にウソまでついて、崩壊した家庭を守ろうとするのか?
何故、何故、何故、なぜ......
ふと、目を上げると、雑貨店のショウウインドウが目に入った。そこに陳列されている陶器の人形達。クリスマスシーズンの為か、ディスプレーは生誕神話をかたどったものが多かった。馬小屋の中に小さな赤ん坊、側にいるマリア、置き間違えたのか、遠くに、ポツンと立つヨセフ。馬小屋の外には七人の老賢人達の像が佇んでいた。
迷いの表情が出ている、ヨセフ。処女受胎した、マリアの産んだ子供が、神によって、神の子と啓示を受けても尚、疑いを捨て切れずにいた、迷いのヨセフ。イエスが自分の子供でないなら、自らの存在が、何であるか、自分が何者なのか、苦悩の表情に見えた。
幸せを一身にかみしめ、ただ、ただ、幼子イエスを見るマリア。 その目の表情が、妻に似ていた。 慈しみ、守る、母の目だった。 昔、自殺未遂にまで追いこんだ女性の目だった…………
俺は、自分が酷い男である事を理解した。
それでも尚、俺はホテルに向かった。 甘美な時間の誘惑に勝てなかった。
夕方遅くに俺はホテルの部屋に帰ってきた。
「ただいま」
「……………………」
男の目が冷たく俺を見ていた。
「どうした?」
「いや…………昼間、お前の家に行った」
恐怖が背筋を走った。俺の顔色が変った事に、男は気が付いた様だ。
「独身と言っていたな」
「…………それは…………」
それ以上の事を言おうとする前に、男の言葉によって遮られた。
「良い訳はいい。お前が私にウソをついた事実に変りはない」
「…………うぐっ」
言葉になら無い声が、俺の喉を締め上げた。
「私達の関係は、合意の上の物だ。法的拘束力も、何の保障もない。御互いの心だけが、関係を続ける基本だった。」
「………………だった?」
どうするつもりだ?
「ウソはそれを覆すんだ。 信じられない者とは、一緒にいられない。 それだけだ」
「わ、別れると、言うのか?」
「わかっているじゃ無いか。 ここの払いは終わっている。 後は、あの女性でも呼ぶがいい。 さようなら」
俺は手を伸ばし、男に触れようとした、しかし、男はするりと俺の手を抜けると、そのまま扉に向かって歩いていった。
「お、おい…………」
男は、あとも見ずに部屋を出た。
*********************************
ベットに腰を下し、両手で頭をかきむしりながら、俺は猛烈な後悔に心を焼いていた。全ては、俺の身から出た|錆(さび)。 愛した者が、次々と、この手の指からこぼれ落ちていく。 自業自得。 悪いのは何時も俺自身…………
全て、俺が原因。
目をつむると、雑貨屋で見た、マリア像が浮き上がる。 その顔が、次々と変る。 男、自殺未遂の女性、そして、妻。 全て、同じ目だった。
男は去り、
女性は永遠に私の前から消え、
妻の所から、俺は逃げ出していた。
猛烈に寂しかった。一人きりで、やり切れなかった。誰もが愛を語り、赦しを得るこんな日に、俺は赦される事の無い罪を自覚し、愛する者を失った。
嗚咽が口から漏れた。
耳の奥に、幼い娘の声が聞こえた。
「良い子にしてるから、また直ぐに帰ってきてね」
愛の全てを失ってしまった俺に、その言葉が、染み渡った。一筋の救いの光りを見た気がした。
俺は、電話を手に取り、家へダイアルし始めていた。
無意識に、流れる涙を拭こうともせずに。
「………………お前か」
(何?)
「…………話したい事がある…………」
(…………ええ、決心したの?)
震える声で、妻は答えた。 彼女も俺が出す結論を待っていたのだ。 俺は言った。 心の中の罪悪感がそれを邪魔していた。 何をいまさら言うつもりだ、そういう、うちなる声も聞こえる。 もし、その声に負けてしまえば、俺は、もう人では無くなってしまうだろう。
無理に、無理を重ね、心の中に巣くう悪魔を追い払い、懺悔した。
「……ああ、 …………もし、 ………………もしも、お前が、許してくれるなら …………俺. …………帰っても良いか?」
電話口の向こうで、しゃくりあげている、妻の泣き声が聞こえる。 遅かったのか? 俺はもう赦されもしないのか………………。
「ダメか?」
おそるおそる尋ねた。どうにもなら無いならば、仕方ない。
(ううん、ダメじゃない。見せたいものがあるの………… 早く帰ってきて…………)
妻が涙声で、そう言った。妻の声に、俺は大声で答えた。
「…………あぁ」
電話を切ると、後も見ずに、家への道を、駆け出した。
途中で、あの雑貨店のショウウインドウが目に入った。 マリアと、幼子イエスの直ぐ隣りにヨセフが置きなおされていた。 生誕の情景が完成されていた。
ヨセフの、迷いの表情が無くなっていた。
「パパ!」
娘の声がした。
紅い短いコートをきて、俺のもとに走ってくる。
彼女へのプレゼントを小脇に抱えてまま、俺は軽く手を上げた。
「良い子にしてたか?」
「うん、だって良い子にしてたら、パパに会えるもん」
娘は、プレゼントの包みより、俺の大きな手を取り、ぶら下った。彼女の気持ちが、痛いほど良くわかる。俺に抱きつき、甘える娘を、嬉しく思った。俺も娘にだけは誠実になりたかったのかも知れない。
妻とは別居中だった。俺の我侭だった。半年振りに合う妻。疲れてはいるが、俺と娘を嬉しそうに見ていた。彼女はこんな俺をずっと待て居る。遅い昼食をとろうと云う事になり、三人揃って近所のレストランに向かった。
後ろで、大きな黒い車がタイヤを軋ませ、猛スピードで走り去って行くのが見えた。反射的に娘を車道の反対側に遠ざけた。
「あぶない車だな」
「そうね」
半年振りに、妻と交わした言葉だった。
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俺は、若い頃から、決して誉めらような生活は送って居なかった。大学のころは、容姿はまぁまぁで、以外に女性にモテた。とっかえ、ひっかえ、付き合う彼女は変った。親のコネで今の会社に入ってからも、そんなに変りはしなかった。
つまりは、軽い男。
自分でもいやになるくらいだった。
そう、例の事が起こるまでは。
新しい女ができた。大学を卒業したてのOLだった。俺もその時は独身だったし、何時もの通り遊び感覚で付き合った。
しかし、彼女は違った。
真剣な付き合いを求められた。途端に私の方の心が冷めた。
冷めただけなら良いが、俺は、冷淡になった。別れを切り出す前に、彼女から告白された。
「妊娠したの。生みたい。貴方の子ども」
私は冷め切った心の命ずるがまま、彼女に中絶を強要し、中絶費用を渡した。そして、もう会う事は無いと言い切り、別れた。そうだ、俺は酷い男だった。ちらほら聞こえる噂で、彼女は中絶したらしい。その時は、別にどうとも思わなかった。過去にも幾度か同じような事をして来たから。彼女が深く傷ついた事も知らなかった。
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その彼女が、自殺未遂をしたと、聞いた。 俺はそこまで彼女を追い詰めて居たのかと、恐怖に震えた。 しかし、俺の言葉通り、彼女は2度と俺に会う事はなかった。
妻と出会ったのは、そんな事があった直後だった。
なんとなく好きになり、何時もと同じように、付き合う事になった。いい女だった。あるとき、俺は尋ねた。
「中絶するって、そんなに大変な事か?」
「えっ?」
彼女は息を飲んだ。 目が怒っている。
「…………女はね、御腹の中にもう一つの宇宙をもって居るの。その中に新たな命が吹き込まれると、女は母親になるのよそりゃ妊娠中は苦しいわよ。辛いわよ。でもね、それがあるから、余計にいとおしくなるのよ。自分の手で、その暖かな気持ちを壊すって事は、もう一つの自分の宇宙を壊すって事と同じ。それを強要されたりしたら、普通の人なら、特に、分別のある人なら、耐えられないわ。」
「そうか…………」
「…………まさかそんな事あったの?」
「いいや、人から聞いた話しだ」
「そう、なら良いけど…………」
胡散臭げに彼女は俺を見た。俺は、恐怖が気付かれない様に、平静を装った。
その歳の春、俺はなんとなく結婚する事になった。それは、それで、嬉しかった。
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結婚して一年目の冬に妻の妊娠がわかった。再び恐怖が俺を捕らえた。得体の知れない恐怖。その恐怖から逃げ出す為に、家に帰らなくなった。
そして、女の居る場所へもいかなくなった。
俺は、花の香りに引き寄せられる虫の様に、今までは近寄りも、しなかった場所に足を向けた。
ゲイ、ホモの巣窟だった。
不思議と安心感が広がり、そして、嵌った。
俺はそこで、一人の男にであった。その男の素性は判らなかったが、社会的地位と自分の性癖を深く隠して居る事だけは理解できた。
そして、俺達は付き合い始めた。
ひそやかで、濃密な付き合いだった。それまでには感じた事の無い、充実感があった。自分の中にそんな性癖が、あった事には驚いたが、それを自然と受け入れられた。ただ一つ、俺に妻と子供がいる事は言わなかった。いいや、隠していた。
この関係を失いたくは無かったら。
そして、今年の梅雨時期。妻に知られてしまった。
妻の憤り、哀しみが、妻を狂気に狩り立て、俺は危うく殺されそうになった。もし、娘が起きてこなかったら、俺はここにはいなかっただろう。
俺は、家を出た。
何の約束もせず、ただ、恐怖から逃れる為に。
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(あなた………… クリスマス………… どうするの?)
冷たい声で妻が言う。
「…………用事がある」
俺も同じような声でそう答えた。
(…………そう、 …………あの子、あなたの事、待っているわ…………)
妻の声が震えた。 そうか、娘が俺を待っているのか。 妻は娘になんと言っているのだろう?
「うん、わかっている」
(…………何とかならない? せめて、あの子にだけでも…………)
妻は、娘に心配を掛けさせてくなくて、本当の事を言ってはいない様だ。妻の優しさだろうか。子供の顔が頭を過った。そうだ、あの子には、罪は無い。せめて顔くらい見せて遣らねば。
「わかった。」
そう言いながら、電話を切った。
^^^^^^
前日、ホテルにチャックインする前に妻に電話をした。何とかするつもりだった。しかし、夕方までに、ここに戻らねば、ならない。だから、昼間に会う事にした。その夜、ホテルで俺達は愛し合った。深く、何の疑いもせず。娘の顔も忘れるくらい。
そして、クリスマス。朝のぼんやりした時間を、テレビをつけて見る。男は俺の横で深い眠りに落ちていた。クリスマス一色だった。子供が、それも娘に似た女の子が、熊のぬいぐるみを抱いて、楽しそうに笑っていた。そうだ、行かなくては…………
男に、家に帰えらなければならない事を告げた。妻子の事を黙ったまま。男は疑いもせず、了承した。
俺はホテルを出るとその足で、デパートに向かい、あの、テレビの中と同じぬいぐるみを買い求めた。赤いクリスマスの包装紙に包んでもらい、それを手に、娘の元に向かった。
そう、娘の元に。
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娘は無邪気に笑いながら、レストランでの食事を楽しんだ。片時も俺の側を離れ様としない。幼稚園であった事などを、事細かく俺に話した。彼女が話さなければ、重い沈黙だけの食事になっていただろう。妻は娘と俺を見ながら、微笑んでいた。久しぶりに見る、妻の笑顔だった。
最後のコーヒーとケーキを食べ終わる頃、娘は寂しそうに言った。
「御仕事大変だね」
「…………ごめんな」
「良い子にしてるから、また直ぐに帰ってきてね」
「…………わかってる」
そうか、俺は仕事で家に帰れなくなっている事になっているのか。 …………何故だ? なぜ妻は離婚を申し入れない? 外聞を憚ってか? 自身のプライドか?
それまで、どうでも良かった事が、頭の中にこびり付いて、離れなかった。
店を出て、マンションの前まで送った。娘の手にはしっかりとプレゼントが抱えられ、俺に手を振っている。妻もじっと俺の後姿を見送っていた。視線がいたかった。
俺は、ぼんやりと、男の待つ、ホテルへと向かった。その間、ずっと妻の事を考えていた。
何故、彼女は俺を待っているのか?
何故、彼女は事を公にして、離婚を有利にしないのか?
何故、彼女は娘にウソまでついて、崩壊した家庭を守ろうとするのか?
何故、何故、何故、なぜ......
ふと、目を上げると、雑貨店のショウウインドウが目に入った。そこに陳列されている陶器の人形達。クリスマスシーズンの為か、ディスプレーは生誕神話をかたどったものが多かった。馬小屋の中に小さな赤ん坊、側にいるマリア、置き間違えたのか、遠くに、ポツンと立つヨセフ。馬小屋の外には七人の老賢人達の像が佇んでいた。
迷いの表情が出ている、ヨセフ。処女受胎した、マリアの産んだ子供が、神によって、神の子と啓示を受けても尚、疑いを捨て切れずにいた、迷いのヨセフ。イエスが自分の子供でないなら、自らの存在が、何であるか、自分が何者なのか、苦悩の表情に見えた。
幸せを一身にかみしめ、ただ、ただ、幼子イエスを見るマリア。 その目の表情が、妻に似ていた。 慈しみ、守る、母の目だった。 昔、自殺未遂にまで追いこんだ女性の目だった…………
俺は、自分が酷い男である事を理解した。
それでも尚、俺はホテルに向かった。 甘美な時間の誘惑に勝てなかった。
夕方遅くに俺はホテルの部屋に帰ってきた。
「ただいま」
「……………………」
男の目が冷たく俺を見ていた。
「どうした?」
「いや…………昼間、お前の家に行った」
恐怖が背筋を走った。俺の顔色が変った事に、男は気が付いた様だ。
「独身と言っていたな」
「…………それは…………」
それ以上の事を言おうとする前に、男の言葉によって遮られた。
「良い訳はいい。お前が私にウソをついた事実に変りはない」
「…………うぐっ」
言葉になら無い声が、俺の喉を締め上げた。
「私達の関係は、合意の上の物だ。法的拘束力も、何の保障もない。御互いの心だけが、関係を続ける基本だった。」
「………………だった?」
どうするつもりだ?
「ウソはそれを覆すんだ。 信じられない者とは、一緒にいられない。 それだけだ」
「わ、別れると、言うのか?」
「わかっているじゃ無いか。 ここの払いは終わっている。 後は、あの女性でも呼ぶがいい。 さようなら」
俺は手を伸ばし、男に触れようとした、しかし、男はするりと俺の手を抜けると、そのまま扉に向かって歩いていった。
「お、おい…………」
男は、あとも見ずに部屋を出た。
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ベットに腰を下し、両手で頭をかきむしりながら、俺は猛烈な後悔に心を焼いていた。全ては、俺の身から出た|錆(さび)。 愛した者が、次々と、この手の指からこぼれ落ちていく。 自業自得。 悪いのは何時も俺自身…………
全て、俺が原因。
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男は去り、
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妻の所から、俺は逃げ出していた。
猛烈に寂しかった。一人きりで、やり切れなかった。誰もが愛を語り、赦しを得るこんな日に、俺は赦される事の無い罪を自覚し、愛する者を失った。
嗚咽が口から漏れた。
耳の奥に、幼い娘の声が聞こえた。
「良い子にしてるから、また直ぐに帰ってきてね」
愛の全てを失ってしまった俺に、その言葉が、染み渡った。一筋の救いの光りを見た気がした。
俺は、電話を手に取り、家へダイアルし始めていた。
無意識に、流れる涙を拭こうともせずに。
「………………お前か」
(何?)
「…………話したい事がある…………」
(…………ええ、決心したの?)
震える声で、妻は答えた。 彼女も俺が出す結論を待っていたのだ。 俺は言った。 心の中の罪悪感がそれを邪魔していた。 何をいまさら言うつもりだ、そういう、うちなる声も聞こえる。 もし、その声に負けてしまえば、俺は、もう人では無くなってしまうだろう。
無理に、無理を重ね、心の中に巣くう悪魔を追い払い、懺悔した。
「……ああ、 …………もし、 ………………もしも、お前が、許してくれるなら …………俺. …………帰っても良いか?」
電話口の向こうで、しゃくりあげている、妻の泣き声が聞こえる。 遅かったのか? 俺はもう赦されもしないのか………………。
「ダメか?」
おそるおそる尋ねた。どうにもなら無いならば、仕方ない。
(ううん、ダメじゃない。見せたいものがあるの………… 早く帰ってきて…………)
妻が涙声で、そう言った。妻の声に、俺は大声で答えた。
「…………あぁ」
電話を切ると、後も見ずに、家への道を、駆け出した。
途中で、あの雑貨店のショウウインドウが目に入った。 マリアと、幼子イエスの直ぐ隣りにヨセフが置きなおされていた。 生誕の情景が完成されていた。
ヨセフの、迷いの表情が無くなっていた。
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