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第一部『邂・逅』

前編

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 耕助は小学生には珍しく、ひとりで遊ぶのが好きだった。夏休みになっても僅か3日程で殆どの宿題を終わらせてしまい、ひとりで家から少し離れた森に出向き、宇宙人と戯れる事を日課にしていた。大きな樹木にしがみついて樹液を摂取するタコのような宇宙人ーー耕助は1号と呼んでいるそれを、ただひたすらつつく。そして飽きたら、その場で自然の陽光に包まれながら昼寝をする。そんな緩やかな日常を至上の幸福とするような、少し変わった小学生。それが耕助であった。
 その日は大雨であった。外に出る事ができなければ、耕助はひとり2階の勉強部屋に閉じ籠ってひたすら図鑑や国語辞典を読み漁る。耕助は同世代の子達が持っている様なゲームも、マンガも、トレーディングカードも持っていなかった。両親は別にそういう物に厳しい訳では無いが、耕助自身がそれらの娯楽を必要としなかったため、買ってもらう機会は無かった。家にテレビはあるが、昼はワイドショーか昔のドラマしかやっておらずつまらない。だからこういう大雨の日は勉強部屋に篭り、こうして図鑑で適当に暇を潰す。そして時折窓越しに雨の様子を眺め、凝り固まった脳をリセットしーーまた図鑑に目を移すのだった。

 「そう。部屋で図鑑ばっか読んでる」
 「へぇ、じゃあ将来は科学者か教授にでもなるのかなぁ」
 「どうだろ。ウチの子馬鹿だからねぇ」

 母と、誰か別の女の人の話す声が微かに聞こえた。母はいつも平日のこの時間はパートに出ていて居ない。しかし今日は珍しく休みーーそういえば昨日の夜こんな事を言っていたな、と耕助は思い出す。

 ーー明日から3日間、いとこの小雪こゆちゃんがお泊まりに来るからね。


~~~~~~


 耕助にはいとこが数人いるが、会った事のある人は耕助よりも遥かに年上で、みんな社会に出て働いている大人ばかりだった。しかしただ1人だけーー母方のいとこで自分と年の近い子がいるという事は話に聞いていた。というのも、そのいとこは東京に住んでいるため中々こちらの方に顔を出さず、最後に会ったのも耕助がまだ2歳の頃ーーとの事で、実質的には会った事がないと言っても過言ではなかった。

 「耕助、降りてきて挨拶しなさーい」
 1階から母の呼ぶ声がして、耕助は渋々図鑑を閉じる。耕助は法事などでも親戚と集まるのがあまり好きではなかった。というより、大人に囲まれてどうでも良い話を延々と聞かされるのがあまり好きではなかった。だからそういう時には大抵、途中で抜け出す許可をもらい、庭でひとり母の実家の犬と遊んでいた。
 部屋を出て階段を降りる。リビングからは、母と別の女の人の楽しそうな話し声が聞こえる。しかし、子どもらしき声はしない。

 「こんにちは」
 リビングのドアを開けて、挨拶する。
 そこには母と母に似た女の人、そしてもう1人ーー
 肩をすくめて居心地悪そうに座る、年の近い女の子がいた。

 「あら!耕ちゃんこんにちは!見ない内に男前になってぇ、あ、おばさんの事、覚えてる?覚えてないか、なんせ最後に会ったの、2歳の頃だもんねぇ」
 その女の人ーー母の妹で耕助の叔母さんーーが嬉しそうに目を細めながら、矢継ぎ早にマシンガントークを展開する。叔母さんはブラウンの長髪と革ジャンが似合う格好良い人で、涼しげな目元が母と少し似ていた。確か東京でテレビ番組のディレクターをやっているらしいが、そのイメージ通り、the業界人、といった雰囲気の人である。そしてその横にちょこんと座る女の子がつまり、耕助のいとこの小雪ちゃんという事になるが…この子もやはり叔母さんに似た綺麗な顔立ちをしている。しかしいかにも明朗快活な叔母さんとは違い小雪ちゃんは大人しそうで、背も小さく髪型もボブである事から、耕助は率直に座敷童のようだという感想を持った。

 「ほら小雪、挨拶できる?」
 叔母さんに急かされ、小雪ちゃんは俯きながら、ぼそぼそと耕助に挨拶をする。どうやらかなりの恥ずかしがり屋のようだった。

 「なかむら…こゆ…10さい、よねんせい…」
 「あはは、まぁちょっと緊張してるけど、普段はもっと元気だし、良かったら仲良くしたげて」
 叔母さんがそうフォローを入れるも、小雪ちゃんは未だに顔を俯かせながら、もじもじしている。相当な恥ずかしがり屋という印象と同時に、この子と今日から3日間一緒に過ごす事を思い出し、耕助は少なからず不安になった。

 「そうだ。耕助、せっかくだし小雪ちゃんと遊んできなよ」
 母の言葉に耕助は内心眉を顰める。別に小雪ちゃんと遊ぶのが嫌な訳では無い。しかし問題は、複数人で遊ぶ手段が無いという点だった。外が大雨の今、遊び場所は耕助の勉強部屋という事になるが…先述のように耕助の部屋にはゲームなどの娯楽がなく、複数人で遊ぶ用に整備されていないーーそのような環境で、果たして内気な小雪ちゃんを楽しませられるのか、という懸念が少なからず耕助にはあった。しかし断る訳にはいかない。断ったら母に怒られるしーー何より小雪ちゃんを傷付けてしまったら本末転倒だ。

 「行こ、小雪ちゃん」
 集団登校の時に遅れ気味の年少の子に接する感じで、耕助は優しく小雪ちゃんに手を差し出した。耕助は小六、小雪ちゃんは小四。あまり年は離れていないが、耕助の感性では2つ以上の年の差であれば、中学年も低学年もあまり変わらなかった。

 「うん」
 小雪ちゃんは小さく頷き、白く細い指で耕助の手を握った。


~~~~~~


 「おじゃまします」
 小雪ちゃんはそう礼儀正しく言いつつも、きょろきょろと辺りを見回しながら耕助の勉強部屋に入る。思えば、この部屋に家族以外を上げたのは久しぶりだった。最後に部屋に入ってきたのは、確か幼馴染で学級委員長の梨乃ちゃんーー耕助が風邪で休んだ時に、プリントと切ったりんごを持って来てくれて、それ以来だ。

 「わぁ、いっぱい図鑑」
 小雪ちゃんは本棚の図鑑に飛びつく。期待の篭った目でこちらを見る小雪ちゃんに、耕助が読んで良いよ、と言うと、小雪ちゃんは遠慮なくうつ伏せになってペラペラと自由に図鑑を読み始めた。先程までは恥ずかしそうにもじもじしていたのに、この部屋に来てからは急に元気になったような気がするーー耕助が疑問に思って尋ねてみると、小雪ちゃんはその理由を教えてくれた。

 「ボクね、知らない大人の人が苦手なの。知らない大人の人の前だと人見知りしちゃって、何も喋れなくなっちゃう」
 女の子なのに自分のことボクって呼ぶんだ、という点に少し違和感を抱きつつも、耕助はそこには特に触れなかった。そして知らない大人の人ーーそれは耕助の母の事であった。更によく話を聞いてみると、どうやら小雪ちゃんは典型的な大人嫌いで、今回来たのも、同じTV局に勤める両親が同じ番組で海外出張に行くタイミングで、いつもならば東京にいる父方の祖父母に預かってもらう所を、今回はその大人嫌いを少しでも変えるため…また夏休み中に田舎の空気に触れる経験をするためということでーー無理矢理ここに泊まらされる事になったらしい。

 「さっきまでは不安で泣きそうだったんだけど…コーちゃん優しそうだからよかった」
 コーちゃん。いきなりのあだ名呼びに耕助は少し閉口する。やはり都会の子の距離の詰め方は分からない、と思った。

 「ねぇねぇ、ゲームとかないの?」
 小雪ちゃんは辺りを見回しながら言う。やっぱそうなるよな、と申し訳なく思いつつ、耕助はゲームが無い事を小雪ちゃんに告げる。しかし小雪ちゃんは全く残念そうな顔をせず、次に予想外の提案をした。

 「そっか。じゃあお外いこ」
 お外。耕助も外で遊ぶのは大好きだが、あいにく外は大雨である。しかしその事を言うと、小雪ちゃんはこう続けた。

 「カッパ着ていこーよ。カッパ」
 小雪ちゃんはこの大雨でも、どうしても外に行きたいようであった。今まで耕助の中では、大雨の日は家の中にいるもの、というのが当たり前のようにインプットされていたため、カッパを着て遊ぶ、という発想にすら行き着いた事が無かったがーーしかし今小雪ちゃんからそういった異なる考えを聞くと、耕助も露骨に興味が湧いて来た。

 今までの常識からの逸脱ーー。
 その魅力的な響きに、耕助は少し身を震わせた。


~~~~~~~


 凄まじい勢いで雨がカッパを打ち付ける音が、耕助の鼓膜を心地良く刺激する。意外にも大雨の中の居心地は悪くない。こうやってぼーっと立っているだけで、まるで普段とは別の世界に来たかのような高揚感がふつふつと湧いて来て、耕助は無性に叫びたいような、そんな気持ちになる。

 「はんばーぐーーー!!」
 そんな耕助の気持ちに呼応するかのように、雨音を切り裂く叫び声が隣から聞こえた。見ると小雪ちゃんが大きな瞳を歪ませて楽しそうに笑いながら、こちらを見ていた。

 「えへへ、はんばーぐ師匠」
 あまりお笑い番組を見ない耕助はそれが何か分からなかったが、小雪ちゃんも自分と同じように、叫びたくなる程に昂っているのだという点だけは理解できた。そしてその勢いに乗っかるように耕助も叫んだ。

 「牛すじカレーーーっぷ!!」
 と叫んでいる途中で顔に水がかかり、耕助は思わず仰反る。見ると小雪ちゃんが手を水鉄砲のようにして、悪戯っぽく笑っていた。そしてその顔を見ると耕助も笑い、すぐさま同じようにして小雪ちゃんに反撃する。小雪ちゃんから「きゃっ」という声が漏れ、小雪ちゃんは無邪気にきゃはきゃはと笑い声を上げる。そして耕助も声を上げながら、お互いに水をかけ合うーー。先程初めてまともに話したばかりの2人。しかしその仲睦まじい姿は、側から見れば深い絆で結ばれた兄妹のようだった。


 「お、思ったより仲良くしてる。良かったぁ」
 その姿を見ながら叔母さんは安心したように言い、母と顔を見合わせ微笑んでいた。そしてその後、叔母さんは母に駅まで車で送られて東京へと帰って行った。その瞬間だけは小雪ちゃんは少し寂しそうな顔をしていたがーー耕助と水遊びを再開するとまた無邪気な笑顔に戻った。


~~~~~~~


 気がつくと、17時半の「夕焼け小焼け」が流れ始めていた。もうかれこれ3時間くらい豪雨の中で遊んで、今はもうすっかり雨は上がり、雲間から眩しい太陽が差し込んでいた。そしてその空を見上げながら、2人は庭で横並びになって、仰向けに寝転んでいた。

 「つかれたね…」
 「うん…」
 2人は疲労で頭が回らず脳死で会話をする。耕助自身、これほどヘトヘトになるまで誰かと遊んだのも久しぶりーーそれこそ、夏休みに入る前の体育の授業以来だった。心地よい疲労感に身を任せながら耕助は、たまには誰かと遊ぶのも悪くない、と思った。

 「あ、みて」
 小雪ちゃんが何かに気付いて指を差す。見るとその方向には、綺麗な虹がかかっていた。

 「きれい」
 虹の方向を向いているため小雪ちゃんの表情は見えないが、声のトーンから、きっと自分と同じようにうっとりしているのだろう、という事は想像できた。自分と同じように…自分のその言い回しに少し引っかかりながら小雪ちゃんの方を見る。耕助の周りの子達はみんなゲームやYouTubeの話ばかりで自然や動物にはあまり興味が無いのに、逆に都会で育った小雪ちゃんは自然の景色に興味を持っているーー。この現象は『ないものねだり』という人間の本質をまだ理解できていない11歳の耕助にとっては、どこか整合性の無い事のように感じられた。

 「2人とも、お風呂沸いてるよー」
 お母さんの声で耕助は一度考えるのをやめて立ち上がる。そして玄関へ歩きだそうとするとーー後ろからカッパの裾をくいと引っ張られた。見ると小雪ちゃんが俯きながら、不安げに耕助のカッパの裾を小さな手でぎゅっと掴んでおり…その瞬間、ひとりっ子の耕助は生まれて初めて表面的な『兄』の気分を体験した事で、少し優越感に浸りながら…小雪ちゃんに「大丈夫」と優しく声をかけて、一緒に家の中に入っていった。

 その夜はハンバーグ牛すじカレーだった。


~~~~~~


 小雪ちゃんが家に来て2日目。その日は朝から快晴だったので、耕助はひとりでいつもの森へと向かった。小雪ちゃんは宿題の絵日記を描いている様子だったので、この機会に少しだけひとり遊びに興じようと目論んでの行動だったのだがーーしかし暫くすると森に小さな人影が現れた。

 「コーちゃん、コーちゃん」
 そう耕助の事を何度も呼びながらこちらに走ってくるのは、小雪ちゃんだった。どうやらひとりでここまで来たらしく、目には少し涙が滲んでいる。耕助がどうしたの、と聞くと、小雪ちゃんはぐずりながら耕助を問い詰めた。

 「なんで勝手に出かけるの。ボクも連れてってよぉ」
 小雪ちゃんによくよく話を聞いてみると、宿題が終わって気付いたら家には1人しかいなかったため、その後わざわざ耕助の母に電話して耕助の居場所を聞き出したらしいが…小雪ちゃんからするとその、知らない大人と2人で話をする時間が一番キツかったらしい。昨日は母のハンバーグ牛すじカレーを美味しそうに食べていたので忘れていたが…そういえば小雪ちゃんはかなりの大人嫌いだったと耕助は思い出した。そして同時に自分の配慮が少し足りていなかったと反省した。しかし耕助が頭を下げて謝ると、小雪ちゃんは呆気なく泣き止み、自由気ままに森を散策し始めーーその切り替えの速さに耕助は少し拍子抜けする。

 「あ、カブトムシ」
 小雪ちゃんが地面にしゃがんで指を差すのを見ると、それはカブトムシでなくアブラムシだった。普段から日常的に昆虫を見ている耕助からしたらどこをどう間違えたのか理解できなかったが、まぁ都会には昆虫なんていないか、と自分で勝手に納得した。そして優しく、これはアブラムシだと教えてあげた。

 「あ、タコ」
 小雪ちゃんが指を差している生物を見ると、それはタコでなく1号だった。普段から日常的に1号を見ている耕助からしたらどこをどう間違えたのか理解できなかったが、まぁ都会には宇宙人なんていないか、と自分で勝手に納得した。そして優しく、これは宇宙人の1号だと教えてあげた。
 しかし小雪ちゃんはまだ意味が分かっていないようで、しきりに1号を眺めながら首を傾げているが、それはもう放置する事にした。

 結局今回は11時くらいで森での遊びを切り上げ、家に戻った。いつもは12時過ぎまでやっているのだが、小雪ちゃんと一緒にいると自分の世界に入るのが難しく、いつもより楽しめなかったのだ。また小雪ちゃんは今日含めあと2日しかこっちにいないため、ずっと森で遊ぶのも気が引けた。
 小雪ちゃんをもっと色んな所に連れて行ってあげなきゃなーー。耕助は昼ご飯の昨日のカレーの残りを口いっぱいに頬張りながら、子供心にそう考えた。


~~~~~~


 ぴんぽん、と呼び鈴が鳴って、梨乃はドアスコープを覗く。
 するとドアスコープいっぱいに映っていたのは、何者かの眼球であった。梨乃は驚きの余り悲鳴も出せぬまま、腰を抜かしてその場に倒れ込む。そして恐怖で心臓をばくばくと拍動させながら、その場で動けずにいるとーードアの向こうから、聞き馴染みのある腑抜けた声が聞こえた。

 「梨乃ちゃん、いますかー?」
 その声の主を確信した瞬間…梨乃は先程までの恐怖心が嘘のように失せ、すっと立ち上がりドアを開ける。最近めっきり遊びに来る事が無くなっていたので忘れていた。この幼馴染はドアスコープに眼球を近づけて梨乃を驚かせる事を趣味の一つとする悪童だったと。

 「こら、耕ちゃん…あれ…?」
 ドアの向こうにいたのは幼馴染の耕ちゃんーーでなく、年下の女の子が立っていた。それもお人形みたいなとても可愛らしい女の子ーーしかし梨乃自身はその女の子に見覚えは無かった。ここまで可愛い子であれば、同じ小学校にいたら少しでも印象に残っているだろうが、全くもって知らない女の子であった。その女の子がこんにちは、と挨拶をしてきたので、梨乃もとりあえずこんにちは、と返す。

 「梨乃ちゃん」
 突如梨乃の背後から声がしたので振り向くと、今度こそ悪童ーー耕助の姿があった。

 「久しぶり」
 「うん、レスリング以外で後ろとるのやめてね」
 梨乃は気づかぬ内に背後に回っていた耕助に対し、小学生とは思えぬ高度なツッコミをした。
 

~~~~~~


 吉崎梨乃。耕助と同じクラスの学級委員長であり、耕助の幼馴染である。耕助とは親同士が仲良しで、ちょっと前までは一緒に遊んだり、毎年家族ぐるみで旅行に行ったりしていた。しかし去年頃から旅行も自然消滅し、耕助もひとりで遊ぶ事が多くなったため、耕助とこうして学校以外で会うのは、2か月前くらいに耕助が風邪を引き、プリントを持っていった時以来だった。

 「うん、これからその秘湯に行こうと思って。美味。けど小雪ちゃん、水着無いみたいだから、美味、梨乃ちゃんのやつ貸してもらおう、馬、かと」
 「ごめん、用件言うかクッキーの感想言うかどっちかにして。あと最後しれっと馬って言ったよね。小説だから分かるからね」
 梨乃が一つずつ的確にツッコんでいる内にも、耕助と、耕助のいとこだという小雪ちゃんによって、梨乃の焼いたクッキーがみるみる無くなっていく。しかし2人の用事はクッキーを食べる事ではなく…どうやら2人は今から山奥の秘湯とやらに行くのだが、東京から泊まりに来ているという小雪ちゃんの水着が無いため、梨乃に水着を借りに来た、という用件らしかった。

 「まぁ水着を貸すのはいいけど…2人だけで行くの?」
 「いや、1号が送ってくれるらしい。ね、小雪ちゃん」
 「うん」
 また1号とかいう訳の分からない事を言い出し始めた。しかも隣に座る小雪ちゃんまで…どうやらもう既に、彼女は耕助に毒されてしまっているらしいーー。そう確信した梨乃は彼女への同情心から、思わず手を合わせてお経を唱え始めた。なむなむなむなむ…

 「何してんの、梨乃ちゃん…」
 「コーちゃん、この子おもしろい」
 ドン引き or 面白がる2人に気付き、梨乃は我に返って顔を赤くした。そしてその場から逃げるように、自分の部屋に水着を取りに行った。


~~~~~~


 「ありがとう、梨乃ちゃん。また明日返しに来るね」
 「ありがと、リノちゃん」
 「うん、全然良いんだけど…イチゴウさんっていう名前の人だったんだね…」
 梨乃が納得半分、疑わしさ半分といった様子で呟く。マンションの外では耕助と小雪ちゃんを見知らぬ女性が迎えに来ており、歳の頃は20代後半くらいの、ゆったりとしたロングスカートとレッドの長髪が似合う長身の綺麗な女性だったが…少し気になるのが、何故か口をひょっとこのように尖らせている所と、歩く時にズルズルと変な音がする所だった。

 「まぁそういう感じ。じゃ、またねー」
 「ばいばーい」
 2人は梨乃に別れを告げ、その女性の軽自動車の後ろに乗り込んで去っていった。そして梨乃は何か釈然としない心持ちのまま、マンションの部屋に戻った。

 車の中、耕助が運転手の女性に話しかける。

 「1号、そんな変身出来たんだね」
 するとその女性の姿がみるみる内に歪んでいく。
 そしてものの2、3秒で…女性はタコのような異形の生物ーー1号に変貌してしまった。しかもそのような異形の姿となってもなお、触手を操って普通に車を運転しているというこの情景はーーTwitterに上げたら3.8万RTされるくらいにはシュールであった。

 「やっぱタコじゃん」
 実際小雪ちゃんは、その姿が完全にツボに入った様子である。
 そう、タコだけn
 (イ〇テQ編集特有のブツ切りカット)


~~~~~


 硫黄の独特な香りが2人の鼻先を優しく撫でる。誰も知らない様な山奥の、誰も知らない様な所にある千合温泉。子ども2人であれば少し余裕を持って入れるくらいのその小さな秘湯に、耕助は海パン姿、小雪ちゃんは梨乃から借りたスクール水着姿で浸かっていた。2人は何も喋らず、ただひたすら温泉に身を任せ、至福のひと時を味わう。

 「あ…」
 ふと耕助の目の前に、辺り一面の美しいお花畑が出現した。そこではヨーロッパ系の赤ちゃんに白い羽と輪っかのついた典型的な造形の天使が、楽しそうにラッパを吹きながらお花畑の周りをふわふわと飛び回っている。そして徐々に耕助の視界に映るそのお花畑と天使達の情景がぐにゃぐにゃと歪んでいき…それに比例して微睡のような絶妙に心地よい感覚が、耕助を襲う。まるで脳内麻薬。夢見心地とはこういう事なのだと耕助は虚ろな意識の中で思う。身体中を包み込む至福に全てを任せ、没入していく感覚。この感覚を一度味わってしまえば、もはや元には戻れないーー

 「コーちゃん、コーちゃん」
 突如としてお花畑が消え、目の前に綺麗な顔。耕助が我に帰ると、小雪ちゃんが心配そうにこちらの顔を覗き込んでいた。まだいつもよりはいなかったのだが…初めてこの姿を見る小雪ちゃんからすると、十分に心配な領域だったのだろう。

 「大丈夫…?白目剥きそうになってたけど…」
 「うん、だいじょーぶ。いつもあんな感じ」
 小雪ちゃんに余計な心配をかけさせる訳にはいかないなーー耕助はそう思い、今回は普通に温泉に浸かる事にした。


~~~~~~


 この辺にはたまに、腕に変な紋章のついた猿が出るので、1号が温泉に入りつつ辺りを見張っている。そして猿が来たら、そのタコ足のような触手を伸ばして掴み、遠くへ放り出してくれるーーという仕組みになっていた。だからたまにウキャ、という猿の呻き声が聞こえるが、2人はあまり気にせず、もうかれこれ30分くらい、ゆったりとお喋りや暴露話などをしていた。

 「コーちゃんはさ、将来やりたいこととかあるの?」
 耕助はまだしっかり湯に浸かっているが、小雪ちゃんは流石にのぼせたのか、既に身体は湯から出て足だけを湯に浸けている状態である。そして各自の学校の話などもひとしきりして、話題は将来の話に差し掛かっていた。

 「うーん、SAS◯KE制覇かなぁ」
 「さ◯け?」
 耕助は先日TVでやっていたSAS◯KEに感化されて、何となくそんな事を口走ってみる。

 「ふーん。さ◯けかぁ。ちょっとボクはあんまし分かんないけど…」
 「そっか。小雪ちゃんは将来何したいの?」
 逆に耕助がそう質問を返すと、小雪ちゃんはなぜか俯いて黙り込んでしまった。心なしかほんのり顔が紅潮している気がする。

 「あ…いどる」
 「え?なんて?」
 小雪ちゃんがボソボソと言うので、耕助は野々村議員のように耳に手を当て聞き返す。すると小雪ちゃんは遂に決心したようだった。

 「…アイドルになりたいの」
 そう言ってふいと目を逸らす小雪ちゃん。どうやら相当恥ずかしがっているようだがーー耕助はその事には気付かず、至って平然とした様子で言う。

 「なれるよ」
 耕助が何気なく放ったその言葉に、小雪ちゃんは心底驚いたように大きな目を丸くする。

 「え…だってボク…」
 「なれるよ。小雪ちゃん可愛いし」
 12歳という多感な歳でこういう素直な事を言えるのが、耕助が同世代の男子より逸脱した点の一つだった。しかしそれ以外の点が逸脱し過ぎて、いつも女子人気には結び付かないのだが。

 「可愛い…?」
 「うん」
 その耕助の言葉を脳が認識した瞬間、今度は熟れた林檎のようにはっきりと分かるくらい小雪ちゃんの顔が紅潮した。小雪ちゃんはそれを咄嗟に、耳にかかる髪をかき分けるような仕草で誤魔化しながらーー耕助にぎりぎり聞こえないくらいの音量で一言呟いた。

 「…うれしい」
 しかしその姿を、完全に捉えていた者が一名。

 「1号、そろそろ帰ろっか」
 耕助が言う方を見るとーー1号がニヤニヤといやらしく、ドラ◯もんの「温かい目」のような表情でこちらを見ていた。どうやら見かけに寄らず、大分俗っぽい感性を持っているようだーー小雪ちゃんは1号に対しそのような感想を持った。

 千合温泉を出ると、2人は再び1号の車に乗り込んで帰路に着いた。往路と同じように耕助と小雪ちゃんは後部座席に座っているが、耕助の方は気持ち良さそうにいびきをかいて眠っている。そのいびきの音をBGMにしながら、小雪ちゃんは先程の耕助の「可愛い」という言葉を思い出し反芻する。一人っ子の小雪ちゃんはこの2日間を通して、耕助を兄のように慕い始めていた。急に泊まりに来たほぼ初対面の自分を手厚く面倒見てくれて、色々な場所にも連れて行ってくれる、優しいお兄ちゃんーー耕助に対する小雪ちゃんの感情はそんな『家族』としての尊敬の念が大半を占めていた。

 しかし先程の「可愛い」という言葉で、耕助を『男の子』として意識した瞬間ーー小雪ちゃんの耕助に対する尊敬の念が、全て別の感情に変換された。
 それは小雪ちゃんにとって、初めての感情だった。 


 小雪ちゃんは眠る耕助の肩に、衝動的にもたれかかる。
 ドキドキと鳴り響く心臓の鼓動と耕助のいびきの二重奏に聴き入りながら、小雪ちゃんは幸せそうに目を閉じた。



 《第一部 後編へ続く》
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