転生したら推しに捨てられる婚約者でした、それでも推しの幸せを祈ります

みゅー

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カールside

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 カール・ディ・フォルトナム公爵令息は、馬車に揺られながら先日のことを思い出していた。幼馴染であり想い人である、リアン・ディ・パシュート公爵令嬢から相談があると呼び出された日のことを。

  リアンに呼び出されたあの日、パシュート家の広大な庭をしばらくお互い無言で歩いた。

 そうしてカールはリアンが話すのを待っていると、リアンは立ち止まり振りむいてこう言った。

「カール、私、王太子殿下との婚約が決まりそうですの」

 リアンは俯き、その大きな瞳から涙をこぼした。カールは慌ててリアンへ駆け寄る。

「リアン、それは決定してしまったことなのか?」

 リアンはゆるゆると首を振る。

「まだ決定してはおりません。でも、わたくしが婚約者で決まりだろうと、王太子殿下の側近が話していたのです」

 そう答えると、大きな瞳を潤ませてカールを見上げた。カールはその瞳に彼女も少なからず私を想っているに違いない、と確信した。

 心が通じ合っているというのに、私達はこのまま引き裂かれてしまうのか? と胸が引き裂かれる思いがした。そしてリアンを見つめた。

「きっと大丈夫。大丈夫だよ」

 そう言って、リアンの肩を抱いた。

 そうは言ったものの、カールもどうしたらよいのかわからなかった。王宮が決定を下せば、それに逆らうすべなどない。

 リアンは美しく豊かなブロンドの髪に、アイスブルーの大きく美しい瞳。あどけなさも残した容姿をしていて、どこか危うさを感じさせる美しさがあり、男性が見たら誰でも手を差し伸べたくなる女性だ。

 かくいうカールも、庇護欲をそそるこの幼馴染に対し『私が守ってやらねば』と思っていた。

 王太子殿下とて、こんな儚げな彼女を見たら放ってはおくまい。

 リアンは以前から王太子殿下の婚約者候補と言われており、リアンに手を出すことは王宮から目をつけられることに直結していた。カールは父親の立場も考え迂闊にリアンに手出しをすることはできなかった。

 こんなに後悔するならば、もっと早くに彼女にプロポーズをしてしまえばよかった。

 今更悔やまれたが、どうすることもできない。そんなことを考えていると馬車が目的地に着き現実に引き戻される。

 カールは今年十八になり、もうそろそろ結婚のことを考えねばならない年頃となっていた。が、未だに相手が決まっていないため、両親の厳命によりお茶会など出会いの場となる催しは全て参加を強制させられていた。

 今日も、ディスケンス公爵家のお茶会の誘いを受け、参加しにやってきたところだった。

 だが、当然カールはそんな気分にはなれずにいた。馬車を降りるとディスケンス公爵夫人が出迎える。

「いらしてくださって、嬉しいですわ」

 そう言って微笑むと、カールに耳打ちする。

「ご令嬢たちは貴方を心待ちにしてましたのよ?」

 そして後方に視線を移した。カールがそちらを振り返ると、ひそひそと何事かを話しているご令嬢たちと目が合う。カールが微笑み返すと黄色い声が上がった。

 その時、ディスケンス公爵夫人はカールが手にバラの花束を持っていることに気づいた。

「あら、どなたかに差し上げますの?」

 カールは今日、リアンもこのお茶会に参加することを知っていたので、リアンの好きなバラをプレゼントしようと持参していたのだ。

 今更こんなことをしてもどうなるわけでもないし、こんなことをすれば社交界で噂になってしまうことも分かっていた。だが、何かせずにはいられなかった。

「はい、庭できれいなバラが咲きましたので、バラが好きな友人にプレゼントしようと思ってます」

 そう答える。流石に想い人にプレゼントするとは言えなかった。ディスケンス公爵夫人は意味ありげに微笑んで見せた。

「あらそうですの、素敵ですわね。でも、てっきり噂の一つもないフォルトナム公爵令息にもついにそういった女性がいるのかと思いましたわ」

「期待に応えられずすみません、運命の女性とまだ巡り会えていないのです」

 もちろん想っている人はいますよ。と、大っぴらに言えたならどんなに良かったか。カールはそう思いながら苦笑した。

 そこでディスケンス公爵夫人に声がかかった。

「あら、呼ばれているみたい。わたくし失礼いたしますわね」

 ディスケンス公爵夫人はそう言うと、その場を去っていった。

 一人になったカールは誰とも話す気にはなれず、なるべく目立たないように柱の陰に行き、リアンが来るのを待っていた。

 柱に寄りかかり庭を眺めていると、いつもの聞きなれたリアンの声が聞こえた。声のする方を見るとそこにリアンの姿を認め、声をかけようとしたが

「婚約者候補になるなんて、フォルトナム公爵令息はどうするのです?」

 と言う言葉を聞き、そのまま柱の陰にとどまった。

 どうやら、リアンと他のご令嬢たちが王太子殿下との婚約の話をしているようだった。自分の噂話をされていることに気まずさを覚えたが、何を話すのか気になりその場にとどまると怒りを覚えた。

 どうするも何も、王子の婚約者に選ばれてしまえば断れまい。私のことをどうこうすると言った話でもあるまいに。

 そう思いながら聞いていると、リアンが信じられないことを言った。

「やだ、フォルトナム公爵令息とはそもそも何でもありませんわ。向こうが勝手に言い寄ってきているだけですの。王太子殿下との婚約が決まれば、選ぶも選ばないもありませんわ」

 そう答えたのだ。あの可憐な、儚げなリアンが言ったセリフとは思えず、カールはしばらく動きを止めた。

 その時、急に入口付近が騒がしくなったので、そちらを見ると、どうやら王太子殿下が訪れたようだった。
 一斉に王太子殿下の婚約者候補たちが王太子殿下へ群がる。もちろんその中にリアンの姿もあった。

 王太子殿下はお茶会に婚約者候補が集まっていると聞いて、何かしら理由をつけて顔を出しに来たことは明らかだった。
 個々に対応するよりも、全員集まっているときに声をかけた方が不公平にならず、不満の声も出ないからだ。

 しばらく、王太子殿下とその婚約者候補たちを盗み見ていると、王太子殿下は一人一人に挨拶して回っていた。
 リアンにも挨拶をしていたが、リアンは頬を染め、うっとりと王太子殿下を見つめていた。どう考えても王太子殿下との婚約を嫌がっている顔ではない。

 先日私の胸の中で流した涙はなんだったのか。

 カールは化け物でも見たような気分になった。と同時に、急速にリアンに対する気持ちが冷めていくのを感じた。

 そこで肩をたたかれる。振り向くとそこに、親友のオニキス・フォン・スペンサー男爵令息が立っていた。オニキスとは、オニキスの母親が、カールの母親のレディズ・コンパニオンをしていたこともあり、そのつながりで昔からの親友だった。

「お前も駆り出されたのか、お疲れさん」

 オニキスは苦笑交じりに言った。カールはそれどころではなく、リアンに視線を戻す。オニキスはカールの視線の先を見る。

「なんだ、彼女が来てるから参加したのか?」

 カールはオニキスとは親友だったので、日頃からリアンに想いを寄せていることを話していた。

 その後もカールが黙ってリアンを見つめているのを見て、オニキスはカールを慰めるように耳元で言った。

「お前、彼女が王太子殿下と婚約するんじゃないかって心配してるのか? だったら一つお前が安心することを教えてやるよ、誰にも言うなよ? 王太子殿下はあと数年は婚約しないらしいぜ」

 カールはオニキスを振り返る。

「今なんて?」

 オニキスは満面の笑みで答える。

「あの王子、相当人間不信でさ、誰も信用してないからな。婚約者候補って言って公爵家の連中を縛るだけ縛っておいて、自分は国の一番利益になる国の王女と結婚するんだってお袋が言ってたぜ」

 カールは信じられない気持ちでオニキスに尋ねる。

「お前の母親はその情報をどこから?」

 オニキスは肩をすくめた。

「お袋はレディズ・コンパニオンだぜ? そらぁ、王室関係者のご婦人とかな、いろんなところから情報が入るわけよ。って、誰にも言うなよ? お前のことは信用してるから話したんだ。それに安心しただろ? 愛しのリアンが王太子殿下の婚約者にならなくて済むんだからな」

 カールは先日のリアンのことを思い出していた。リアンは、王太子殿下の婚約者に自分が決まりそうだと言っていた。

 どちらが本当の情報なのだろう?

 そう思いリアンの言っていた内容を思い出す。リアンはその話は王太子殿下の側近が話したと言った。だが、そもそも公爵令嬢のリアンは王太子殿下の側近と接点などないはずだ。

 それにそもそも王太子殿下の側近ともあろう者が、令嬢にそんな情報を漏洩してしまうとは考えられなかった。

 恋は盲目とはよく言ったものだ。こんな簡単な嘘を見抜けなかったとは。リアンは婚約者に決まりそうなどと嘘を言って、私の気を引きつなぎ止めておこうとしたのだろう。

 考えてみるとリアンは匂わせるだけで、こちらが勝手に動くように仕向け、操作しているような言動が多かった。

 オニキスはカールの様子がいつもと違うことに気づいたのか声をかける。

「大丈夫か? 何かあったのか?」

 それでも押し黙るカールに、話を変えようとしたのか微笑むと言った。

「あー、そうそう、うちの妹のサファイアも来てるぜ。少し話してやってくれよ」

 そう言うと、向こうで他の令嬢と話をしているサファイアをこちらに呼んだ。カールはサファイアとも昔からの付き合いだった。

 サファイアはこちらに来ると軽く会釈した。カールは笑顔を向けた。

「こんにちは、久しぶりだね」

 サファイアも笑顔で答える。

「フォルトナム公爵令息、こんにちは。いらしていたのですね」

 そしてカールが手に持っているバラに視線を移すと、一瞬物憂げな表情をしたあと笑顔を見せた。

「お話の邪魔をしてはいけませんので、わたくしはこれで失礼いたします」

 そう言って去っていった。サファイアは小さいころはカールを兄のように慕っており、会うと瞳をキラキラさせながら駆け寄ってきては、よく自分に今日あったことなどを話してくれたり、相談事をしてきたりしたものだった。

 いつしかその眼差しに憧れ以上のものを感じていたが、だからといってサファイアが言い寄ってくるようなことはなく、どちらかと言うと一歩引いたような態度をとるようになった。

 おそらく、大人になるにつれて自身の置かれた立場を考え、こちらに立ち入らないようにしたのだろう。カールは去っていくサファイアの背中に向かって思わず呟く。

「大人になったな」

 それを聞いていたオニキスは大きく頷く。

「まあな。そういえばあいつ嫁ぎ先が決まりそうなんだ。相手は二十も上のおっさんだけど。金持ちだから、お袋みたいに働かなくとも食うには困らないだろうって親父が言ってたな」

 カールはギョッとしてオニキスを見る。オニキスも驚いた顔をした。

「なんだよ、お前うちの妹がお前に気があるからちょっとうざがってたろ? 良かったじゃないか。安心したろ? これでお前はリアンと婚約してみんなが幸せ」

 オニキスはなにか勘違いをしている。カールはサファイアを疎ましく思ったことなど一度だってなかった。
 ただ純粋な彼女にどう接したら良いかわからず戸惑ったことは何度かあった。オニキスはそれを見て、カールがサファイアを疎んじていると思ったのかも知れなかった。

 この時、カールはなぜか強い焦燥感を覚えた。

 向こうを見ると、王太子殿下に何とか取り入ろうとしているリアン、そして庭の片隅に目をやるとこちらをじっと見つめるサファイアの姿。

 そんなサファイアは、カールと目が合うと恥ずかしそうに俯きすぐに姿が見えない場所に移動してしまった。

 カールは思う。

 私は今まで何を見ていたのか。このままでは一番大事なものを失ってしまうのではないだろうか? そして、それに気づいた今、すぐにでも行動に移さなければならないのでは?

 カールは手に持っていたバラをオニキスに押し付けた。

「お前にやる」

「はぁ? こんなのいらねーよ」

 不平を言っているオニキスを置いて、カールはディスケンス公爵夫人の元へ行き声をかける。

「ディスケンス公爵夫人、申し訳ないが急用を思いだしたのでこれで帰らせていただきます。本当に申し訳ありません」

 そう言うとディスケンス公爵夫人は一瞬残念そうな顔をしたが微笑むと言った。

「あら、しょうがないわね」

 カールは軽く頭を下げ立ち去ろうと一歩足を踏み出したが、立ち止まるとディスケンス公爵夫人を振り返る。

「先ほど、運命の女性と巡り会えていないと言いましたが、撤回します。私には運命の女性がいます」

 それを聞いて、ディスケンス公爵夫人はまっすぐにカールを見つめ返す。

「なら、頑張りなさい」

 カールは頷き、踵を返すと入口へ向かった。王太子殿下はもう去ったあとのようだったが、まだそこには王太子殿下の婚約者候補たちがいた。もちろんその中にリアンもいた。

 リアンはカールに気づくと駆け寄ってきた。

「カール! 貴方も来ていたのね。今日はてっきり来ないと思っていたから驚いたわ。だって、その、この前あんな話をしたばかりだもの。こういう場にはショックで来ないかと……」

 そう言うと、瞳を潤ませた。

 自分だってお茶会に参加しているではないか。

 そう思いながらカールは納得した。リアンは自分に想いを寄せているカールが、あんなことがあった後でお茶会に参加するとは思いもよらなかったのだろう。

 実際カールも親からの厳命でなければ、参加しなかったのは確かだ。だからこそ、リアンは油断したに違いなかった。

 普段カールに見せる態度と他の令嬢たちに見せる態度も全く違っていたし、あの王太子殿下に媚びる姿を見てしまっては、百年の恋も一瞬で冷めるというものだ。

 そう思い改めてリアンを見ると、媚びた上目遣いの彼女のどこが良かったのか全く分からないほどだった。これだけしたたかなら、誰かに守られなくともたくましく生きていけるだろう。

 それに比べてサファイアは……

 そう思い、カールはリアンに作り笑顔をして見せた。

「君が落ち込んでいるかもしれないと心配したが、思っていたより元気で安心した。私はこれで失礼するよ」

 そう言い捨て、挨拶もそこそこにディスケンス公爵邸を後にした。あの返事だと、リアンはカールが心配してお茶会に参加したと勘違いしたかもしれなかったが、もうそんなこともどうでもよかった。

 カールは馬車に乗り、屋敷へ戻るとすぐに両親のところへ向かった。

「私はサファイア嬢と結婚します。彼女は婚約が決まってしまいそうなのですぐにでも婚約を結びたい」

 開口一番にそう伝えた。サファイアは男爵令嬢だ。両親は反対するかもしれなかったが、それを押し切ってでもカールはサファイアと結婚するつもりだった。だが、父親は反対するどころか逆にこう言った。

「そうなればよいとずっと思っていた。あんなにお前を想っている娘はいない。お前もやっと人を見る目が養われたのだな。安心したよ」

 母親はもちろん親友の娘であるサファイアとの結婚に大賛成だった。それから慌ててスペンサー家に向かいすぐに婚約の契約を結んだ。

 サファイアもきっと喜んでくれるにちがいない。

 カールはそう思っていたが、予想に反してサファイアは婚約した後、より一層一歩引いたような、いつも悲しげで憂いた表情を見せることが多くなった。

 婚約した今、カールは今まで気持ちに答えられなかった分、サファイアを思う存分甘やかしたかった。だが、サファイアは媚びることもなく控えめで、我が儘を言うこともない。

 カールはどうしたらサファイアを喜ばせられるか考えた。とにかく毎日少しでも時間ができれば彼女のもとへ通った。誕生日にはプレゼントも花もカードも送った。もちろん彼女は心の底から喜んでいるのが分かった。だが、なぜかいつも

「大事な思い出にします」

 と、ひとしきり喜んだ後に辛そうな表情をした。

 ある日サファイアとお茶をしているとサファイアがカールのジャケットの袖口を見て言った。

「フォルトナム公爵令息、袖口のボタンが……」

 慌てて袖口を見ると、くるみボタンが一つとれてしまっていた。

「これは、恥ずかしいね。実はこのジャケットを気に入っていてね、何度も着ているから取れてしまったのだろう。ボタンを全て変えなくては」

 と、照れ笑いをした。サファイアはなぜか頬を染めるとカールに訊いた。

「あの、恥を承知で申し上げるのですが、ボタンを変えるのなら使ったあとのボタンをいただけないでしょうか?」

 なぜこんなものを? しかも使い古しを欲しいなどサファイアの家はそれだけ困窮しているのだろうか? ならば援助もやぶさかではない。もしくは純粋にこのボタンが欲しいなら、新しいものをサファイアのために注文してあげよう。

 カールはそう思いながら答える。

「使用済みを? このボタンが気に入ったのなら、新しいものを君の邸宅まで届けさせよう」

 サファイアは首を振る。

「フォルトナム公爵令息が使用されてたものが欲しいのです!!」

 そう言うと、顔を赤くして俯く。

「は、はしたないことを言ってしまいました。忘れて下さい」

 なんと可愛らしいのだろうと、カールは今すぐにでも抱きしめ自分のものにしてしまいたい衝動をなんとか抑えた。そして、微笑む。

「いいよ、わかった。交換したら使用したものを君の邸宅へ届けさせるよ」

 サファイアも嬉しそうに微笑む。

「ありがとうございます、大切にします」

 カールはこんなものをおねだりするサファイアを心の底から愛おしく思いながら尋ねる。

「そんなものでいいの? 私は君が欲しいと言うなら夜空の月ですら手に入れる努力を惜しまないよ」

 本心だった。サファイアが望めばなんでもしてあげたいと思った。

「ありがとうございます。ボタンがいいのです。それを側に置き、いつもフォルトナム公爵令息を感じていたかったので」

 と、笑顔を返した。カールは心の中でそんなボタンではなく、四六時中ずっとそばにいればよい。いずれ結婚したらそばに置いて絶対に離さないと強く思った。

 カールは改めて、こんなにも一途に自分を想ってくれている相手に巡り会えたことに幸せを感じていた。そして、一生サファイアを守り、大切にしていこうと心に誓った。

 結婚まで離れて暮らすことすら苦痛に感じ、時間を作ってはサファイアに会いに行った。サファイアはいつ行っても嫌な顔一つせず、カールを迎えた。

 頻回にサファイアに会いに行っているうちに、カールはサファイアが近所を散歩する時間まで覚えていた。

 その日も散歩の時間に訪問すると、サファイアの着ているドレスにおねだりされたボタンがアレンジして使用されていることに気づいた。

 カールは舞い上がった。

 私の婚約者はなんて可愛らしいのだ。今すぐにでもこの胸に抱き、連れ去ってしまいたい。

 そんな衝動に襲われた。

 サファイアはカールがボタンを見ていることに気づくと、顔を真っ赤にして俯いた。

 カールはそんなサファイアと一緒にいて、彼女を奪ってしまいたい衝動と絶えず闘わなければならなかった。

 だが、そんな欲望をサファイアに見せて、サファイアを怯えさせるわけにはいくまいと平静を装うと言った。

「ボタン、気に入ってくれたみたいで嬉しいよ」

 カールは幸せをかみしめていた。リアンを想っていた時は、彼女に振り回されそれだけで必死だったが、今は幸福感の方がはるかに勝っていた。

 毎日が楽しくてしょうがなかった。周囲のものに冷やかされることも多かったがカールはそのたびにサファイアの素晴らしさを語り、黙らせた。

 オニキスに一度こう言われたことがあった。

「お前、あいつのどこが良かったんだよ。パシュート公爵令嬢の方がよっぽどいいけどな」

 カールはムッとして言い返す。

「お前こそ、サファイアの一番近くにいすぎてその目が慣れておかしくなっているのでは? あの美しくも純粋な緑の瞳は、いつも私を想って潤み、心の底から私を愛してくれていることを語っている。こんなに純粋で美しい恋があるか? そもそもそんなに純粋に人を愛せるのは彼女が類まれなるピュアな心を持っているからに他ならない。そしていつも他の者たちに心を砕き、慈愛の心を持っているサファイアは、自分のことより他人を優先し……」

 そこまで語ったところで、オニキスに止められる。

「わかった、もうわかったから。と言うか、お前がそんなに妹にぞっこんになるとはな」

「あの美しい魂に今まで気づかなかった私が馬鹿だったんだ。目が曇っていた。天使は身近にいたというのに」

 それを聞いて、オニキスは心底呆れたように言った。

「うん、わかった、ごちそうさま。俺はとにかく妹を幸せにしてくれればいいよ」

 カールは満面の笑みを返す。

「もちろん、サファイアをサイデューム王国一の幸せな花嫁にして見せる。彼女を構成するすべてを私は愛しているのだから」

「はいはい」

 オニキスはそう言って聞き流していたが、カールは本気だった。

 宣言通りカールはサファイアを甘やかそうとするが、ある日を境にだんだん元気がなくなっていくのに気が付いた。

 もしかして、サファイアに嫌われてしまったのかもしれない。そんなことを思いながらカールはどうすればよいのかわからず、悶々とした日々を過ごした。

 ある日王族主催の舞踏会があり、サファイアにも招待状が届いていたのでドレスを送ろうとしたが断られてしまった。

 カールは何かあるのではないかと警戒した。




 舞踏会当日、サファイアを迎えに行くとサファイアはなんと黒いドレスを着用していた。カールはサファイアからの何かしらのサインに違いないと思った。

 そう思いながらも、そのことに触れることもできずにとりあえず会場へとエスコートした。サファイアは会場に近づくにつれ顔色を悪くした。

 何かあるなら相談して欲しい。サファイアにとって私はそんなに頼りにならない人間なのだろうか? 

 そう悩みながらも、とにかく顔色の悪いサファイアをテラスへ連れ出し話をすることにした。

 テラスに出るとそこには先客がいた。

 誰だろう? 

 そう思っているとサファイアが立ち止まった。どうしたのかと思いサファイアの方を見ると、サファイアはその美しい瞳に涙をたたえていた。

 そして、ゆっくりと手を離すと言った。

「心よりお慕いしております。貴方との日々は一生の宝物にします。どうかお幸せに」

 カールは訳が分からず混乱し固まった。

 サファイアは後退りしカールから離れて行く。と、突然背後から腰のあたりに衝撃があった。腰のあたりにしがみつくそれを見るとリアンだった。

「カール、やっぱり来てくれたのね。私も貴方を愛してるわ」

 カールはそんなリアンを見て吐き気を催した。慌ててサファイアの方を見ると走り去って行く後ろ姿が見えた。

 カールは焦った。そして、今は一秒でも早くサファイアを追いかけないといけないのに、それを邪魔しているリアンに猛烈に腹が立った。

 カールは思い切りリアンを振り払う。

「気持ち悪い、二度と関わるな! 私が愛しているのはサファイアただ一人だ」

 そう言うと、大急ぎでサファイアの後を追った。

 エントランスを駆け抜け外に出るとスペンサー家の馬車が走り出したところだった。

 どんなにみっともなくてもなんでも、なりふりかまわずカールはその馬車のドアに縋り付き、窓をバンバンと叩いた。

 頼む、行かないでくれ。

 そう思っていると、馬車が止まりドアが開いたので慌てて乗り込んだ。見るとサファイアは泣いていた。サファイアを泣かせたのが自分だと思うと正直自分すら許せないと言う気持ちになった。

 サファイアは血相を変えて追いかけてきたカールを見て驚いた顔をした。

「フォルトナム公爵令息、なぜここに? パシュート公爵令嬢はどうしたのですか!?」

 カールは意味が分からず、なんで泣いているのか、自分を捨てるつもりなのか、とサファイアの肩をつかんで問い詰めてしまいたい気持ちを抑えると、乱れた呼吸をなんとか整えながら訊いた。

「逆に私が訊きたいよ、なぜ君は私とのことを思い出にしてしまうんだ」

 カールにはもうサファイアしかいない。これで今、サファイアから別れを切り出されたら、これからどうやって女性を信頼して生きていけばいいかわからないと思った。

 カールはサファイアの返事を待った。が、カールの予想に反してサファイアは困惑した表情になった。

「何をおっしゃってますの? フォルトナム公爵令息の昔からの想い人であるパシュート公爵令嬢が貴方を選んだのですよ? 断る理由などないではありませんか。わたくしは貴方の幸せを願ってあの場を離れたというのに」

 カールは内心叫ぶ。リアンが私を選んだ? まさか! リアンは愛されて自分が選ばれると当然思っているに違いない。テラスに現れたカールに、やっぱり私を愛してるのね云々と言っていた。王太子殿下に愛され、幼馴染にも愛され追われているという自分に酔っているだけに違いないのだ。

 カールは依然として乱れる呼吸を抑えつつ叫んだ。

「なんだって!? 冗談じゃない、私の婚約者は君だ。公爵令嬢に乗り換える訳がないだろう」

 カールがそう言った瞬間サファイアはまたも暗い顔になった。

「フォルトナム公爵令息、義務でわたくしと夫婦になっていただいてもきっと後悔することになりますよ? まだ間に合います。馬車を会場に戻しますから、今からでも公爵令嬢のもとにお戻りになられて下さい」

 そう言うと、御者に戻るように合図をした。カールもなぜサファイアがそんなことを言うのかわからないまま、リアンのところに戻されてはたまらないと慌ててサファイアの行動を制した。

「だからなぜそうなる!」

 そして、少し考える。サファイアはカールを何とかリアンのもとに戻らせようとしている。そして、サファイアと結婚するのを義務と言った。カールはある考えが浮かび尋ねる。

「もしかして君は、私がパシュート公爵令嬢を、今でも愛してると思っているのか?」

 それを聞いたサファイアは大きく頷く。

「お二人はあんなにも相思相愛でしたのに、ちょっとしたすれ違いでこうなってしまいました。もうお互いに我慢する必要もありません。わたくしは婚約解消しても大丈夫です。フォルトナム公爵令息には想い出をたくさんいただきましたから」

 そう言って微笑んだ。

 なんということだろう。婚約してからこちらカールはサファイア以外誰にも目をくれたこともなくサファイアだけを見ていたというのに、当の本人にそれが全く伝わっていなかったのだ。
 大失態である。カールはそんな自分の不甲斐なさに大きくため息をつく。

「道理で、君が私を愛してくれているのに、いつも憂い表情を浮かべていた訳だ。そんな勘違いをしていたとは」

 カールはサファイアにありったけの気持ちを伝えなければ、とサファイアの手を取りその美しい瞳を見つめた。

「いいかい? 私はパシュート公爵令嬢を今は愛していない。昔はそんな時期もあったが彼女の打算的な考え方に気がついてしまったからだ。彼女は王太子殿下と私を天秤にかけようとしていた。私は、女性はもう信じられないと思った。だがそんな時に一人だけ打算もなく、私の側でいつも純真な瞳で見つめてくれる存在を思い出した」

 そして、涙の跡が残るサファイアの頬を撫でると続ける。

「君だよ。信じられるのは君しかいないと思った。君が何処かの誰かに嫁いでしまう前にと、私はすぐに両親に伝え、君と婚約することにした」

 そう言うと微笑み、サファイアの縁談が決まってしまうかもとオニキスから聞いた時のあの耐え難い焦燥感を思い出し、その後に強引に自分とサファイアとの縁談を決めてしまったことを思い出していた。そして、今更ながら謝った。

「強引に婚約の話を進めてしまい、申し訳なかった」

 カールはサファイアをじっと見つめた。

「婚約してからは、私が送った宝石よりも私の使ったボタンをおねだりし、愛用する君にますます夢中になった。今日の黒いドレスを見たときは、君からの何かしらのメッセージだろうと警戒した。それが公爵令嬢のことだったとはね。何度でも言おう、私には君しかいないよ、お願いだ、私を諦めないで」

 そしてサファイアを引き寄せ肩を抱いた。これは懇願でもあった。サファイアは顔を上げると不安そうに言った。

わたくしでよろしいのですか? このまま貴方を愛し続けてもよろしいのですか?」

 もちろんだ、と思いながらカールは、胸の中にすっぽり収まっている、愛おしいその存在をそのまま更に力強く抱き締める。

「もちろん、私は君に永遠の愛を誓うよ」

 そしてサファイアに顔を近づけると、サファイアはそっと目を閉じた。カールは優しく口づけた。

 カールはこれでサファイアは自分のものだ、もう絶対に逃がさない。そう思った。そしてサファイアに言った。

「二度と私のもとから離れないこと。いいね?」

 するとサファイアは頬を染め、可愛らしく微笑んでわずかに頷く。

「はい。カール様、愛しています。もう二度と離れません」

 と言って微笑んだ。

 その後、フォルトナム公爵家とスペンサー男爵家の婚礼が盛大に執り行われ、二人は格差を超えた真の愛で結ばれた二人、と後々まで語られる、仲睦まじい夫婦として知れ渡ることとなった。

 こうしてカールの物語は幕を閉じた。
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