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夢塚
二
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「『蘇り』という現象について、お前は知っているな?」
それは、問いかけの形でありながら断定的な口調だった。
白というよりは銀色の髪。長い前髪の隙間から覗く切れ長の鋭い目つき。若い顔立ちをしているのに、何十年もの年月を経てきたことに疲れたような、低い、しゃがれ声。
曽祖父から聞いた、男の姿そのままだった。
夢塚が一人暮らしをする、小さくて古いアパートに、その男はやってきた。
最初に玄関のチャイムが鳴ったとき、夢塚はまだ、布団の中にいた。次にチャイムが鳴ったときも、夢塚はまだ、布団の中にいた。三度チャイムが鳴ったとき、さすがにうるさいと思って、夢塚は頭から布団を被って耳を塞いだ。一人暮らしの夢塚の元を、連絡もなく訪れる者など、どうせ宗教勧誘くらいだ。無視を続けていれば、諦めて帰っていくだろうと思った。夢塚は睡眠不足が続いていて、不機嫌だった。
ガチャッと音がして扉が開いたときも、夢塚は布団の中にいた。それでも尚、図太く惰眠を貪ろうと思ったわけではない。そんな考えは、扉が開くで吹き飛んだ。肝が座っていたわけでもなかった。夢塚は道を横切る黒猫にも不吉を感じるほどの小心者を自覚していた。では何故、布団の中で同じ体勢を保って寝そべっていたのかというと、眠かったわけでも、図太かったわけでも、肝が座っていたわけでもなく、驚き過ぎてどんな反応をすればいいのか分からなかったのである。
「何だよ、開いてるじゃないか」
男はまるで、古くからの、それもそれほど親しくなく、惰性で長く付き合っているような知人に話しかけるように言って、狭い部屋に入ってきた。
夢塚は、自分が鍵を開けたまま眠ってしまっていたことに、男が玄関で靴を脱ぐ気配で気がついた。
「生きてるのかー?死んでるのかー?」
ゾッとするようなことを、軽々しく口にするような男だった。
男は部屋の中にズカズカと入ると、布団の中で目を見開いたまま硬直している夢塚の顔を見下ろした。
「よぉ」
義理で仕方なく挨拶するように、男は言った。
銀髪。長い前髪。切れ長の目。
曽祖父から聞いた、男の姿そのままだった。
「一応、生きてるみたいだから答えてもらうぜ」
恐らく、夢塚の引き攣ったような息遣いを聞きながら、銀髪の男は言った。
「『蘇り』という現象について、お前は知っているな?」
男はそう言って、意地悪そうにニヤリとした。
部屋の中央に置かれている、丸い小さなテーブルから小説の原稿を書くためのパソコンを退かし、お湯を沸かしてティーポットに注ぎ、知り合いの編集者から貰ったティーパックを浸して蓋をした。そうして、大体二分間蒸らして、二人分のカップに紅茶を注いだ。
「どうぞ」
夢塚が男の前に紅茶を差し出すと、男は膝の上に本を広げて、パラパラと流し読みしていたところだった。夢塚が本棚の代わりにしている段ボール箱から、勝手に取り出したものらしい。
男は、ヒグラシと名乗った。
「それ、僕の小説家としての処女作なんです」
ヒグラシが脇に置いた小説のタイトルを見ながら、夢塚は言った。
「なるほど。どうりで名前が同じだ」
「あんまり、売れなかったんですけれど」
ヒグラシは、カップを鼻まで近付けて、匂いを嗅いだ。桜の香りの紅茶だという。スンスン、と暫く紅茶の匂いを嗅ぐと、ヒグラシは舌先を出して、チロリと紅茶を舐めて、ちょっと顔を顰めた。
「妙な味だな」
「すみません、砂糖も牛乳もなくて……」
「じゃあ、いつも何食ってんだよ?」
「……卵とか、モヤシとかですね」
「苦労人なんだな、お前」
大して同情している様子もなく、むしろ、呆れに近い口調でヒグラシは言った。夢塚はそれに謂れのない申し訳なさのようなものを感じて、気まずくなった。朝、ギリギリまで寝てしまったり、どうしても食欲がないときなどは生卵をそのまま啜って職場に行くときもあるのだが、さすがにそれは黙っていた。
夢塚は一応小説家として執筆活動を続けているが、それだけでは生活するには足りず、清掃員のアルバイトとしても働いている。
ヒグラシは、しげしげと夢塚のアパートの部屋を見渡した。特に興味深いものはないだろうと思う。薄汚れた畳。手垢のついた壁。シミのある天井。一週間前から敷きっ放しの乱れた布団。最後にその目が、ジャージ姿の夢塚を見た。夢塚は昨日、風呂に入っていなければ顔も洗っておらず、歯も磨いていなかった。夢塚は、ヒグラシに詫びるように俯いた。
「それで、あの、ヒグラシさん……」
夢塚は俯いたまま、ヒグラシの方を見ないようにしながらボソボソと言った。だから、ヒグラシさん、と彼の名前を呼んだとき、ヒグラシがギクッと身を強張らせたことにも気づかなかった。ヒグラシにとっては有り難いことだった。
「何ですか、その……僕が『蘇り』という現象について、知っている、というのは?」
「ひいじいさんの話を、小説にしたろ」
ヒグラシは落ち着いた声で言って、持ってきた古びたバッグの中から、夢塚にとっては馴染み深い装丁の本と、表紙のよれた一冊の冊子を取り出した。
ヒグラシは冊子を手に取って、あるページを指した。
懐かしい、と感じた。
「『蘇り』は、お前のひいじいさんが経験した現象だ。白蛇として『蘇った』女を、俺が斬った」
斬った、という言葉を、実にあっさりと、ヒグラシは口にした。
続いてヒグラシは、蝶が蛹から羽化する場面を表紙に描いた本をテーブルの中央に置き、パラパラと無造作にページをめくっていった。
「ひいじいさんの経験を元にして、お前はこの小説を書いた」
最後までページをめくり、パタン、と本を閉じる。
「違うか?」
違わない。
「違いません」
夢塚は口に出して答えた。
「でも、事実と思って書いたわけではありません。曽祖父は僕が物心つく頃にはかなりの高齢でしたし、その、単なるお伽話だろう、というくらいの印象でした」
また爺さんの色ボケが始まったと、親戚から揶揄されていたくらいである。昔の恋人が、白蛇になって、共に過ごした、などと。
「あの、あなたは本当に曽祖父と会っているんですか?」
「疑うか?」
「だって、その……」
年齢が合わない、と言いかけた。ヒグラシがどこで夢塚が「蘇り」を寄稿した昔の文集を手に入れたのかは分からないが、その内容を知っていたなら、「蘇り」に登場した銀髪の男になりすますのだって、簡単だろう。銀髪のカツラを被るか、髪を染めるかすれば良いのだ。
目的は……何だ?金か?あいにく夢塚の住むアパートを見れば、大した金を持っていないことくらい分かるはずだ。熱烈なファン?否、まだ単行本を三冊しか発表していない夢塚に、わざわざ小説の登場人物になりきってまで直接その家を訪ねてくるような熱狂的なファンがいるとは思えない。しかも「儚く遠く、近いところから」以外には、大した話題にもならず、書店の山に埋もれた。
高校時代に書いた、「蘇り」を元にした「儚く遠く、近いところから」は一番最近に本になって、多少話題にもなったが、その中に銀髪の男は登場していない。
夢塚の、何か弱みを握ろうとしている者に雇われているチンピラか何かか?それが一番、しっくりくるような気がするが、それにしても妙だった。夢塚のようなしがない小説家の弱みを握って、どんな利益を得ようというのか。溢れるような金もない。誰もが羨むような、地位も、名誉もない。
家族は……。
「お前の妻が、『蘇った』と言ったらどうする?」
家族も、いない。
「つ」
妻、が……。
「あ、失礼。元妻だったな」
不遜な態度で、ヒグラシは言った。
「名前は薫。旅館で、仲居をしていて、そこで火災に巻き込まれて亡くなった」
知っている。
夢塚と離婚した後、薫は二人の子どもと共に郷里に戻った。そこで、旅館の仲居として働き始めたと聞いていた。瓜実顔の美人の薫には、着物もよく似合うだろう、夢塚と違って何でもそつなくこなす薫だから、仲居としても上手く立ち回っていけるだろうと、安心していた。
しかし、何気なく見たテレビのニュースに、薫が働いていた旅館の火災事故が放送されているのを見た。客の煙草の不始末が原因だったらしいと知った。死亡者の中に、薫の名前があった。
薫の実家に、電話をかけようとした。確かめなければならないと思った。しかし、番号を途中まで押して、夢塚は携帯電話を閉じた。すぐさまトイレに駆け込もうとしたが間に合わず、込み上げてくるものを抑えようと口元を押さえ、ネバネバした唾液を吐いた。
何かの間違いだ、と思った。
偶々同じ旅館で働いていた、同姓同名の別人だ。そうに決まっている。そうでなければならない。薫は死んでいない。薫は死んでいない。薫は死んでいない。夢塚は必死で自分にそう言い聞かせ、汚れた手を洗った。
しかしその後、薫の母から連絡があった。
……薫は死にました。
……お葬式はもうこちらで済ませましたから、お気になさらず。
……こちらにはいらっしゃらないでくださいね。孫たちにも会わせませんから。分かっていると思いますけれど。
「妻……薫が……」
『蘇った』?
「何……何、言って、そんなのは」
耄碌した老人の語っていた、お伽話だ。
どんな理由があってヒグラシがそんなことを言うのかは分からないが、デタラメだ。
「生き返ったとも、生まれ変わったとも違うぜ。『蘇った』んだ」
「だから……『蘇った』とは、何ですか?」
「お前のひいじいさんが経験したことだろうが」
「そんな、いい加減なことを……」
ドク、ドク、と心臓が嫌な動悸を打って苦しい。掌に、ベッタリと嫌な汗が滲んで気持ち悪い。喉が、ヒリヒリと痛むほどに渇いている。紅茶を飲もうとして、震える指先が、カップに当たって、カツンと音を立てた。
やはり、しっかりと鍵を閉めていたかどうか、確認しておくべきだった。扉の鍵を開けたままにして寝ていたから、こんな男がやって来たのだ。
夢塚は額を拭い、何かものを投げつけたいのを堪えるように、ギュッと目を閉じた。
「証拠でもあるんですか?」
「証拠?」
ヒグラシは、フッと感情の見えない笑みを浮かべた。
「お前の求める証拠になるかは分からんが、俺は『蘇った』薫に会っている。今はある人間の母親として振る舞っている」
「そんなの、証拠になりません」
「だろうな。今から、とりあえずつらつら並べ立てていくから、薫について思い当たる節があったら言ってくれ」
ヒグラシは、九九を暗唱するように、淡々と語り始めた。
「薫は瓜実顔で、着物がよく似合う。髪は長くて纏めて上げている。料理が上手で家事の手際がいい」
夢塚は沈黙していた。
よく、思い当たる。
「そして生前、息子と娘が二人ずついた」
夢塚は、沈黙していた。
「柾と美澄。木へんに正しいで柾、美しく澄むで美澄だ」
忘れることなど、ない。薫と二人でつけた名前だ。毎年、薫と三人で写った写真が送られてきていた。
……こちらにはいらっしゃらないでくださいね。孫たちにも会わせませんから。分かっていると思いますけれど。
分かっている。
夢塚は、夢を捨てきれなくて、それ以上に尊いものに気づくことが出来なかったのだから。
それは、問いかけの形でありながら断定的な口調だった。
白というよりは銀色の髪。長い前髪の隙間から覗く切れ長の鋭い目つき。若い顔立ちをしているのに、何十年もの年月を経てきたことに疲れたような、低い、しゃがれ声。
曽祖父から聞いた、男の姿そのままだった。
夢塚が一人暮らしをする、小さくて古いアパートに、その男はやってきた。
最初に玄関のチャイムが鳴ったとき、夢塚はまだ、布団の中にいた。次にチャイムが鳴ったときも、夢塚はまだ、布団の中にいた。三度チャイムが鳴ったとき、さすがにうるさいと思って、夢塚は頭から布団を被って耳を塞いだ。一人暮らしの夢塚の元を、連絡もなく訪れる者など、どうせ宗教勧誘くらいだ。無視を続けていれば、諦めて帰っていくだろうと思った。夢塚は睡眠不足が続いていて、不機嫌だった。
ガチャッと音がして扉が開いたときも、夢塚は布団の中にいた。それでも尚、図太く惰眠を貪ろうと思ったわけではない。そんな考えは、扉が開くで吹き飛んだ。肝が座っていたわけでもなかった。夢塚は道を横切る黒猫にも不吉を感じるほどの小心者を自覚していた。では何故、布団の中で同じ体勢を保って寝そべっていたのかというと、眠かったわけでも、図太かったわけでも、肝が座っていたわけでもなく、驚き過ぎてどんな反応をすればいいのか分からなかったのである。
「何だよ、開いてるじゃないか」
男はまるで、古くからの、それもそれほど親しくなく、惰性で長く付き合っているような知人に話しかけるように言って、狭い部屋に入ってきた。
夢塚は、自分が鍵を開けたまま眠ってしまっていたことに、男が玄関で靴を脱ぐ気配で気がついた。
「生きてるのかー?死んでるのかー?」
ゾッとするようなことを、軽々しく口にするような男だった。
男は部屋の中にズカズカと入ると、布団の中で目を見開いたまま硬直している夢塚の顔を見下ろした。
「よぉ」
義理で仕方なく挨拶するように、男は言った。
銀髪。長い前髪。切れ長の目。
曽祖父から聞いた、男の姿そのままだった。
「一応、生きてるみたいだから答えてもらうぜ」
恐らく、夢塚の引き攣ったような息遣いを聞きながら、銀髪の男は言った。
「『蘇り』という現象について、お前は知っているな?」
男はそう言って、意地悪そうにニヤリとした。
部屋の中央に置かれている、丸い小さなテーブルから小説の原稿を書くためのパソコンを退かし、お湯を沸かしてティーポットに注ぎ、知り合いの編集者から貰ったティーパックを浸して蓋をした。そうして、大体二分間蒸らして、二人分のカップに紅茶を注いだ。
「どうぞ」
夢塚が男の前に紅茶を差し出すと、男は膝の上に本を広げて、パラパラと流し読みしていたところだった。夢塚が本棚の代わりにしている段ボール箱から、勝手に取り出したものらしい。
男は、ヒグラシと名乗った。
「それ、僕の小説家としての処女作なんです」
ヒグラシが脇に置いた小説のタイトルを見ながら、夢塚は言った。
「なるほど。どうりで名前が同じだ」
「あんまり、売れなかったんですけれど」
ヒグラシは、カップを鼻まで近付けて、匂いを嗅いだ。桜の香りの紅茶だという。スンスン、と暫く紅茶の匂いを嗅ぐと、ヒグラシは舌先を出して、チロリと紅茶を舐めて、ちょっと顔を顰めた。
「妙な味だな」
「すみません、砂糖も牛乳もなくて……」
「じゃあ、いつも何食ってんだよ?」
「……卵とか、モヤシとかですね」
「苦労人なんだな、お前」
大して同情している様子もなく、むしろ、呆れに近い口調でヒグラシは言った。夢塚はそれに謂れのない申し訳なさのようなものを感じて、気まずくなった。朝、ギリギリまで寝てしまったり、どうしても食欲がないときなどは生卵をそのまま啜って職場に行くときもあるのだが、さすがにそれは黙っていた。
夢塚は一応小説家として執筆活動を続けているが、それだけでは生活するには足りず、清掃員のアルバイトとしても働いている。
ヒグラシは、しげしげと夢塚のアパートの部屋を見渡した。特に興味深いものはないだろうと思う。薄汚れた畳。手垢のついた壁。シミのある天井。一週間前から敷きっ放しの乱れた布団。最後にその目が、ジャージ姿の夢塚を見た。夢塚は昨日、風呂に入っていなければ顔も洗っておらず、歯も磨いていなかった。夢塚は、ヒグラシに詫びるように俯いた。
「それで、あの、ヒグラシさん……」
夢塚は俯いたまま、ヒグラシの方を見ないようにしながらボソボソと言った。だから、ヒグラシさん、と彼の名前を呼んだとき、ヒグラシがギクッと身を強張らせたことにも気づかなかった。ヒグラシにとっては有り難いことだった。
「何ですか、その……僕が『蘇り』という現象について、知っている、というのは?」
「ひいじいさんの話を、小説にしたろ」
ヒグラシは落ち着いた声で言って、持ってきた古びたバッグの中から、夢塚にとっては馴染み深い装丁の本と、表紙のよれた一冊の冊子を取り出した。
ヒグラシは冊子を手に取って、あるページを指した。
懐かしい、と感じた。
「『蘇り』は、お前のひいじいさんが経験した現象だ。白蛇として『蘇った』女を、俺が斬った」
斬った、という言葉を、実にあっさりと、ヒグラシは口にした。
続いてヒグラシは、蝶が蛹から羽化する場面を表紙に描いた本をテーブルの中央に置き、パラパラと無造作にページをめくっていった。
「ひいじいさんの経験を元にして、お前はこの小説を書いた」
最後までページをめくり、パタン、と本を閉じる。
「違うか?」
違わない。
「違いません」
夢塚は口に出して答えた。
「でも、事実と思って書いたわけではありません。曽祖父は僕が物心つく頃にはかなりの高齢でしたし、その、単なるお伽話だろう、というくらいの印象でした」
また爺さんの色ボケが始まったと、親戚から揶揄されていたくらいである。昔の恋人が、白蛇になって、共に過ごした、などと。
「あの、あなたは本当に曽祖父と会っているんですか?」
「疑うか?」
「だって、その……」
年齢が合わない、と言いかけた。ヒグラシがどこで夢塚が「蘇り」を寄稿した昔の文集を手に入れたのかは分からないが、その内容を知っていたなら、「蘇り」に登場した銀髪の男になりすますのだって、簡単だろう。銀髪のカツラを被るか、髪を染めるかすれば良いのだ。
目的は……何だ?金か?あいにく夢塚の住むアパートを見れば、大した金を持っていないことくらい分かるはずだ。熱烈なファン?否、まだ単行本を三冊しか発表していない夢塚に、わざわざ小説の登場人物になりきってまで直接その家を訪ねてくるような熱狂的なファンがいるとは思えない。しかも「儚く遠く、近いところから」以外には、大した話題にもならず、書店の山に埋もれた。
高校時代に書いた、「蘇り」を元にした「儚く遠く、近いところから」は一番最近に本になって、多少話題にもなったが、その中に銀髪の男は登場していない。
夢塚の、何か弱みを握ろうとしている者に雇われているチンピラか何かか?それが一番、しっくりくるような気がするが、それにしても妙だった。夢塚のようなしがない小説家の弱みを握って、どんな利益を得ようというのか。溢れるような金もない。誰もが羨むような、地位も、名誉もない。
家族は……。
「お前の妻が、『蘇った』と言ったらどうする?」
家族も、いない。
「つ」
妻、が……。
「あ、失礼。元妻だったな」
不遜な態度で、ヒグラシは言った。
「名前は薫。旅館で、仲居をしていて、そこで火災に巻き込まれて亡くなった」
知っている。
夢塚と離婚した後、薫は二人の子どもと共に郷里に戻った。そこで、旅館の仲居として働き始めたと聞いていた。瓜実顔の美人の薫には、着物もよく似合うだろう、夢塚と違って何でもそつなくこなす薫だから、仲居としても上手く立ち回っていけるだろうと、安心していた。
しかし、何気なく見たテレビのニュースに、薫が働いていた旅館の火災事故が放送されているのを見た。客の煙草の不始末が原因だったらしいと知った。死亡者の中に、薫の名前があった。
薫の実家に、電話をかけようとした。確かめなければならないと思った。しかし、番号を途中まで押して、夢塚は携帯電話を閉じた。すぐさまトイレに駆け込もうとしたが間に合わず、込み上げてくるものを抑えようと口元を押さえ、ネバネバした唾液を吐いた。
何かの間違いだ、と思った。
偶々同じ旅館で働いていた、同姓同名の別人だ。そうに決まっている。そうでなければならない。薫は死んでいない。薫は死んでいない。薫は死んでいない。夢塚は必死で自分にそう言い聞かせ、汚れた手を洗った。
しかしその後、薫の母から連絡があった。
……薫は死にました。
……お葬式はもうこちらで済ませましたから、お気になさらず。
……こちらにはいらっしゃらないでくださいね。孫たちにも会わせませんから。分かっていると思いますけれど。
「妻……薫が……」
『蘇った』?
「何……何、言って、そんなのは」
耄碌した老人の語っていた、お伽話だ。
どんな理由があってヒグラシがそんなことを言うのかは分からないが、デタラメだ。
「生き返ったとも、生まれ変わったとも違うぜ。『蘇った』んだ」
「だから……『蘇った』とは、何ですか?」
「お前のひいじいさんが経験したことだろうが」
「そんな、いい加減なことを……」
ドク、ドク、と心臓が嫌な動悸を打って苦しい。掌に、ベッタリと嫌な汗が滲んで気持ち悪い。喉が、ヒリヒリと痛むほどに渇いている。紅茶を飲もうとして、震える指先が、カップに当たって、カツンと音を立てた。
やはり、しっかりと鍵を閉めていたかどうか、確認しておくべきだった。扉の鍵を開けたままにして寝ていたから、こんな男がやって来たのだ。
夢塚は額を拭い、何かものを投げつけたいのを堪えるように、ギュッと目を閉じた。
「証拠でもあるんですか?」
「証拠?」
ヒグラシは、フッと感情の見えない笑みを浮かべた。
「お前の求める証拠になるかは分からんが、俺は『蘇った』薫に会っている。今はある人間の母親として振る舞っている」
「そんなの、証拠になりません」
「だろうな。今から、とりあえずつらつら並べ立てていくから、薫について思い当たる節があったら言ってくれ」
ヒグラシは、九九を暗唱するように、淡々と語り始めた。
「薫は瓜実顔で、着物がよく似合う。髪は長くて纏めて上げている。料理が上手で家事の手際がいい」
夢塚は沈黙していた。
よく、思い当たる。
「そして生前、息子と娘が二人ずついた」
夢塚は、沈黙していた。
「柾と美澄。木へんに正しいで柾、美しく澄むで美澄だ」
忘れることなど、ない。薫と二人でつけた名前だ。毎年、薫と三人で写った写真が送られてきていた。
……こちらにはいらっしゃらないでくださいね。孫たちにも会わせませんから。分かっていると思いますけれど。
分かっている。
夢塚は、夢を捨てきれなくて、それ以上に尊いものに気づくことが出来なかったのだから。
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