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花音

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◇◇◇

「加藤さん、響子さん。カノンはパパとママと、ユウイチくんとユウジくんに、もう一度会いたいのです」
 スッキリと憑き物が落ちたような、まさに、『蘇った』ような花音の顔だった。

 駅前で電車の乗り方が分からず、迷子になっていたところを、花音は傍にいた駅員に保護された。花音を迎えに行った響子は、花音がどうしてそんなところにいたのか、どこに行きたかったのかを問いただした。花音は悲しそうに俯いて、蚊の鳴くような声でごめんなさい、と言った。しかし、どうして駅にいたのかは、言わなかった。
 また、別の日。花音はバスに乗っていた。終点まで乗っても、バスを降りようとしない花音を不思議に思ったバスの運転手は、花音に声を掛けた。花音は戸惑いながら、あの、ここでおしまいなのでしょうか、と言った。そうだね、おしまいだね、と運転手は言った。カノンをパパとママと、ユウイチくんとユウジくんの元に連れて行ってくれないでしょうか?と花音は問うた。運転手は、迷子か、家出しようとして途中で怖くなったのだと判断して、花音の持っていた名札から響子に連絡した。
 花音は、加藤と響子のことを、パパ、ママとは呼ばない。ユウイチくんや、ユウジくんのことについても、分からなかった。響子によると、花音の以前の友だちや同級生に、そんな名前の人はいないらしかった。
 加藤は、不安だった。ザワザワザワザワ……と胸の内側が膨らんでいくような、嫌な不安だった。それと同時期に、夢を見るようになった。
 夢の中で、加藤は犬だった。悪夢ではなかった。加藤は愛されていて、満たされていた。飼い主が投げたフリスビーを、飛び跳ねるように上手にキャッチした。飼い主がそっぽを向いて何かしているときは、こっちを向いて欲しくて、脇の下からグリグリと頭を突っ込んだ。毎日、朝と夕方の決まった時間にドッグフードを食べて、散歩をするときは土や草、コンクリート、どこかの犬の尿の匂いをたくさん嗅いだ。落とした糞を飼い主は拾ってくれた。やがて加藤は歳を取り、飼い主の腕の中で、頭を撫でてもらいながら息を引き取った。
 幸福な夢だった。否、幸福な、どこかの犬の一生だった。最初は、無邪気な犬の一生を純粋に楽しんでいた。しかし、毎日のように見るので、どこか神経が病んでいるのかもしれないと、逆に不安になった。響子に話すと、実は私も、同じような夢を見るのだ、と言った。
「夫婦のような人と、子どもが二人いなかった?子どもはどっちも、男の子だと思うんだけど」
 響子は言った。
「ああ、見たよ。何かの暗示かな?ここ掘れワンワン、みたいな」
 冗談めかして加藤が言うと、響子は急に沈黙した。唇を噛み、何かのおまじないのように両手を擦っていた。
「……響子?」
「パパ、ママ」
 響子が、ポツンと加藤の耳の中に落っことすように言った。加藤は思わず、ギクリとした。
「ユウイチくん、ユウジくん……あの男の子二人が、そういう名前だったりしたら?」
「響子」
「花音が会いに行こうとして、電車に乗ろうとしたり、バスに乗ったり……」
「ユウイチもユウジも、ありふれた名前じゃないか」
 加藤は言った。響子は、何かに揺らいでいるような不思議な目つきと表情で、加藤を見た。加藤は、響子を安心させるように微笑んだ。
「花音は、花音じゃないか。生き返ったんだ。血が繋がっていなくても、俺にとっては娘だよ」

「加藤さん、響子さん。カノンはパパとママと、ユウイチくんとユウジくんに、もう一度会いたいのです」
 花音はどこか喋り慣れていないようにぎこちない、けれど、丁寧な口調で言った。
 花音の誕生日だった。加藤は花音への誕生日プレゼントに、大きな犬のぬいぐるみを買ってきていた。響子からのプレゼントは、色つきのハート型のリップクリームだった。花音は水しか飲まないのであまり贅沢な食事は用意せず、けれど、ケーキだけは花音の好きなイチゴのケーキを買って、それに蝋燭を立てて、火をつけた。花音が蝋燭の火を消すと、加藤は小さなクラッカーを鳴らし、響子はおめでとうと言って、手を叩いた。
「加藤さん、響子さん。カノンはあなたたちの花音さんではないのです。カノンは、パパとママと、ユウイチくんとユウジくんの家族なのです」
 ……もう一度会いたいのです。
 そう言った後に、花音はその言葉を、静かに続けた。ケーキは響子と加藤の二人で食べて、残った分は冷蔵庫に仕舞った。加藤は、クラッカーから飛び出したテープや紙吹雪を片付けていた。
「花音」
 響子は呟いて椅子の上に倒れ込むように座り込んだ。それきり、言葉を続けられないらしく、笑いかけようとするような、泣き出そうとするような、曖昧な表情になる。
「ごめんなさい。カノンも、漸く思い出したばかりなのです。本当に、本当に申し訳ないと思っています」
 花音は、心の底から申し訳なさそうな、悲しそうな口調で言った。相変わらず、花音の背丈は伸びなくて、爪先が床に届いていなかったが、いつものようにそれをブラブラ揺らすこともない。
 加藤は、拾ったものをクシャクシャと丸めてポケットに突っ込むと、響子の隣に座って、じっと花音の顔を見た。
「どうして、そんなことを言うんだ?」
 出来るだけ、穏やかな口調で、加藤は言った。威圧しようと思ったつもりはなかったが、花音は怯えたように肩をすくませた。
 確かに、ケーキや誕生日プレゼントにはしゃいだ様子を見せないのも、床に届かない爪先をブラブラ揺らさないのも、怯えたように肩をすくませるのも、花音らしくないと言えば、そのような気がした。いつもの花音だったら、ケーキや誕生日プレゼントにはしゃぐだろう。床に届かない爪先をブラブラ揺らすだろう。ちょっとくらい怒られたからと言って、平気な顔をしているだろう。
 しかし、ほんの少し前……眠り続けるようになるまで、花音は花音だったではないか。
 加藤は、一度深呼吸をした。
「花音じゃないとするなら、君は誰なんだ?」
「カノンは、カノンです」
 花音でないと名乗る花音は、そう言った。
「名前は同じなのです。それが縁となったのでしょうか。カノンにも不思議なのですが、カノンは花音さんの体をお借りして、今まで花音さんとして過ごしていたようです」
 加藤は、両手の指を組んで揉むような仕草をした。
「カノンという、音楽の技法があるようです。カノンも、ママから聴かされたことがあります。それは美しい旋律でした」
「君の言う、ママというのは?」
「ママもパパも、カノンのママとパパです。小さい頃から一緒に暮らしていました。それから、ユウイチくんが生まれ、ユウジくんが生まれました。ユウイチくんとユウジくんは、カノンの大切な弟たちなのです」
「あなたが、花音でないなら」
 響子が、震える声で言った。
「花音は、今、どこにいるの?」
「花音さんは、あなたたちに大変愛されていました」
 花音は、ぎこちなさそうに唇を震わせた。それが、微笑もうとしている表情だと、加藤は遅れて気がついた。
「花音さんは、あなたたちにまた会えて、とても幸せでした。だからカノンも、もう一度会いたいのです。パパとママと、ユウイチくんとユウジくんに」
 それは、悲しく胸の芯を震わせるような、切実な訴えに聞こえた。

◇◇◇

 夢塚は、加藤の高校時代の同級生だった。加藤の周りにはいない苗字だったから、覚えている。覚えているが、それだけだった。特に親しかったわけでもない。
 夢塚は、文芸部で、眼鏡をかけていて猫背気味で自信がなさそうで、一部のクラスメイトからいじめを受けていたようだった。通りすがりに突き飛ばされたり、机に落書きをされたりしていた。友だちらしい友だちもいないようだった。どうやら家庭に何かしらのトラブルがあって、それがいじめに繋がっていたらしいが、詳しいことはよく分からない。夢塚はいつも一人で、苦痛にじっと耐えるように授業を受けて、絞った布巾で汚された机を拭いていた。本を読んでいるときだけは、楽しそうにしているな、と思った記憶がある。
 加藤は、夢塚の友だちでも、味方でもなかった。けれど、夢塚の猫背や分厚い眼鏡を、密かに、けれど、夢塚の耳に確実に届くようにクスクス笑うのは、卑怯だと思った。正義感とも違う、ただ、腹が立った。
 いじめの主犯格はある女子生徒だった。そこそこ見た目に恵まれていて、家が裕福で、学業の成績が良くて、教師に優等生と思わせるのが上手な生徒だった。世の中は、どんな人間になるか、よりも、相手にどんな人間だと思わせるか、という生き方が上手な人間の方が、上手く立ち回れるのだと知った。
 加藤は女子生徒を呼び出し、夢塚へのいじめをやめろ、と言った。女子生徒は、ボディガード役に男子生徒を二、三人連れてきていた。どの生徒も頭が悪そうで、欠伸を噛み殺したり、ニヤニヤ笑ったりしていた。そのうちの一人が、下品な野次を吐き捨てて、何が可笑しかったのか仲間たちだけでドッと笑った。リーダー格の女子生徒は教師に対するハキハキと爽やかな口調とは対照的なねっとりとした口調で、あなたたち、お付き合いでもなさっているの?と言った。
 うるせぇドブス、性格ブスが顔に出てるぞすごいブス、と加藤は言った。
 それから、加藤と夢塚が、いわゆる「お付き合い」をしているという噂が、瞬く間に学校中に広がった。密やかな、けれど確実に聞こえるようなクスクス笑いをされ、机に下品な落書きがされた。何とも暇な奴らだな、と加藤は呆れた。あの女子生徒も大変だ。表ではお上品で優秀なお嬢様を装って、裏では女王様面でせっせと子分たちに指示を出しているのだから。
 何をしても加藤が無頓着で無関心な態度を通していたからかは分からないが、加藤への嫌がらせは徐々に止んだ。同時に、夢塚への嫌がらせも収まってきたようだった。理由はやはり、分からない。噂では、リーダー格だった女子生徒の父親が経営している会社が倒産しかけて、女子生徒が以前のように威張れなくなったからだ、という話だったが、それも噂の範疇に過ぎなかった。
 加藤は最初から、夢塚の友だちだったわけでも、味方だったわけでもない。高校を卒業するまで、碌に口も利かなかった。大学も別々だった。ただ、高校の時、文化祭で文芸部の文集を買って、その中に載せられていた、夢塚の短編が、妙に印象に残っていた。曽祖父の経験した話であるが……と前置きされていた。
 そのタイトルは、「蘇り」だった。
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