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花音
三
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◇◇◇
緑が痛いほどに鮮やかな、初夏の光景だった。
加藤は花音と響子と共に、公園に来ていた。ベンチに並んで座り、コンビニで買ったおにぎりやサンドイッチ、お菓子を食べていた。花音は相変わらず水しか飲まず、加藤や響子が食べ物を勧めても、決してそれらを口にしようとはしなかった。ペットボトルの水を飲み干すと、花音は立ち上がって駆け出し、公園の遊具で遊び始めた。
「花音」
響子が呼ぶと、鉄棒に脚を引っ掛けて遊んでいた花音は、なぁに?と大きな声で返してきた。
「シャボン玉やるー?」
響子もまた、大きな声で言った。
「んー……やる!」
花音は、パッと弾けるような声で言って、ベンチから立ち上がりかけた響子を押し倒そうとするかのような勢いでしがみついた。響子は花音に、シャボン玉の容器と、筒を渡した。花音は早速容器の蓋を開けて、ジャブジャブと筒の先をつけると、プゥ、と思い切り頬を膨らませた。シャボン玉は上手く膨らまず、筒の先からポタポタと泡立った液体が滴った。花音はもう一度、身を反らしながら思い切り、プゥ!とやったがシャボン玉は膨らまなかった。花音は、あれれ?というように首を傾げた。そのあどけなさに、加藤は思わず笑いかかった。
「タンポポの綿毛を飛ばすみたいに、ふぅって、優しく吹くのよ」
響子が花音に優しく教えた。
花音はその後、もう一度失敗した後、ふうっとシャボン玉を吐き出した。シャボン玉は虹色にキラキラと輝きながら、空の向こうへ消えていった。
「わぁ……!」
花音は目を輝かせて、もう一度シャボン玉を吹いた。キラキラと輝くシャボン玉に、親の足元にしゃがみこんで遊んでいた花音より小さな子どもが、不思議そうに指差し、手を伸ばそうとした。
「花音、大きなシャボン玉作ってやろうか」
加藤が言うと、花音は名残惜しそうにしながら、加藤にシャボン玉の容器と筒を渡した。加藤は筒を液体に浸して、ふぅっ……と慎重にシャボン玉を膨らませた。大きなシャボン玉は、ノロノロと低い位置を飛んで、パチンと弾けた。もっと大きなシャボン玉を膨らませようとすると、シャボン玉は筒の先で、パチンと弾けてしまった。もう一度やろうとしても、同じだった。
「牛と張り合うカエルのお腹みたいね」
響子が笑って言った。加藤は一瞬その例えの意味が分からなかったが、すぐに気づいてニヤニヤとした。
「なぁに?それ?」
花音だけが、分からないようだった。
「カエルの子どもが大きな牛を見たって言ってね、お父さんカエルが、これくらい大きかったか?って言いながらお腹を膨らませるの。子どもは、違うよもっと大きかったよってお父さんカエルに言うの。お父さんは、これくらいか、これくらいかって言いながら、お腹を膨らませていく。やがて、お父さんカエルのお腹は、パチンと破れてしまいました、という話よ」
響子が説明すると、花音はハッという顔をして、恐る恐ると加藤の腹を見た。
「俺の腹は破れないぞ」
加藤は言った。
「鍛えているからな。これでも、腹筋割れてるんだぞ。パンチしてみろよ」
花音は、パーンチ、と言って加藤の腹を拳で叩いた。加藤は腹筋に力を込めて、花音のパンチを受け止めた。子どもとはいえ、結構容赦のない力だった。加藤さん、強い、と言って花音は目も口も丸くした。正義の味方だからな、と加藤は言った。
花音と同じくらいの男の子が駆け寄ってきて、通りすがりに加藤の脇腹を小突いて言った。不意打ちだったので、結構痛かった。男の子の母親らしき女性が、男の子に向かってコラッと叫びながら、加藤に謝った。花音は加藤の尻あたりを、拳でペチペチ叩いていた。
響子の足元に、フリスビーが転がってきた。大きめの犬が駆け寄ってきて、フリスビーを咥えた。響子は、キャッと驚いた声を上げた。響子は、犬や猫が苦手だったのだ。花音は犬に向かって、ウー、と唸る仕草をした。犬は賢そうに輝く目で花音を見返すと、プイとそっぽを向いてフリスビーを咥えたまま、飼い主の方へ尻尾を振りながら歩いていった。中学生か高校生くらいの飼い主の少年は、加藤らに向かって頭を下げた。犬は飼い主の足元にまとわりつきながら、褒めて欲しそうに飼い主を見上げた。頭の良い犬だと、加藤は感心した。
雨が降っていた。
その日、いつものように交番で仕事をしながら、加藤はどこか落ち着かなかった。その数日前から、花音が眠り続けて起きないのだと、響子から連絡があったからだった。体に触れてみても、熱はない。ただ、穏やかに眠っている。
医者に診せるべきだと響子が言うのを、加藤はどうにか止めていた。自分たちにとって、花音は確かに生きているが、周りにとっては違う。花音のことを知らない赤の他人ならともかく、医者にかかって、もし花音の体に常人とは違う、つまり、生き返ったことのない人間とは違うものが見つかったら、花音や響子がどんな目に遭わされるか分からなかった。花音はどこかの医療施設か何かで、バラバラにされるかもしれない。響子は、花音が最初に死んだとき以上の傷や悲しみを負うことになるかもしれない。そもそも、一度亡くなった花音には、保険証も、診察券もないのだ。
とにかく、今は眠っているだけなのだ、暫く様子を見よう、と加藤は響子を説得し、響子も、渋々ながら納得しようとしているようだった。花音は、少し昼寝をしているのと変わらない様子だった。看護も必要としていない様子だった。首筋に触れればしっとりと温かくて、そこで可愛く動く脈の存在を感じて、加藤は微笑んだ。響子はじっとしていられないらしく、弁当屋も休んで、花音の髪を櫛で梳かしたり、唇に水で濡らした布巾を当てたりした。
しかし、一向に花音が目覚める様子がないまま、五日が経っていた。花音は、還ろうとしているのかもしれない、と加藤は思い始めていた。よく分からないが、花音のような一度死んだ人間が、あるべき場所へ。元々、死んだはずの花音が生き返ってくるというのが、あり得ないことだったのだ。加藤は、ほんの少しの間、幸せな時間の中にいた。
しかし、響子は違う。響子が花音と共に過ごした時間の長さも密度も、加藤とは違う。諦めよう、夢だったんだ、で済むことでも、そんな陳腐な言葉で癒される傷や悲しみでもないだろう。しかし、だからといって、医者でも坊主でもない加藤には、どうしたらいいのか分からない。
花音が目覚めないと連絡を受けてから、加藤は、仕事以外は響子の住むアパートで過ごすようになっていた。響子の住む部屋は、大人二人と子ども一人が暮らすには多少狭いが、綺麗に片付けられていた。花音の仏壇は見当たらなかった。花音が生き返った日に、響子が片付けたのかもしれない。花音が図工の時間で作ったという、貝殻とビーズで飾りつけられた手作りの写真立てには、三人で撮った結婚写真が入れられていた。
図らずも、家族三人の暮らしだった。響子の住むアパートに帰ると、夕飯が用意されている。夜はベッドで眠る花音を間に挟んで、響子は花音の右隣、加藤は布団を敷いて花音の左隣で眠った。
花音は懇々とよく眠っていた。これが、生き返った花音があるべき場所へ還る前兆なのかと、加藤は思った。
花音の髪を梳かし、花音に水を飲ませようとする響子に、言うべき言葉を、加藤は探していた。しかし、響子の、透き通るように白い肌や、悲しげに潤んだ目を見ていると、何も言えなくなって、眠る花音の手を、そっと握るしかなかった。そうすると、花音がキュッキュッと二回、握り返してくるのではないかと思って。
その日も加藤は、響子の住むアパートに帰るつもりだった。外は土砂降りだった。昼間は晴れていたが、午後を過ぎた辺りから雲行きが怪しくなり、雨が降り始めたのである。様々な色の傘が、童話に出てくる奇妙なキノコのように、道を行き来をしていた。中には天気予報を見ていなかったのか、鞄を傘代わりにしながら急いで駆けていく学生の姿もあった。
奇妙だな、と思ったのは、その人物が長い銀髪だったことではない。背中に竹刀袋を背負っていたからでもない。そんな土砂降りの中を傘も差さずに、悠々と歩いていたからだった。当然、頭のてっぺんから爪先までかけてビシャビシャと雨に濡れて、水を多く含んだ服が体に張り付いている。着古したような半袖のシャツに、ズボンだった。
その人物が交番の前をゆっくりと通り過ぎようとしたとき、加藤は思わず、あの、と声をかけていた。どこか、具合でも悪いのかと思った。しかしそれは、加藤が後々そのときの自分の行動を思い出して、言い訳する為の方便に過ぎなかった。それが、後に加藤の人生を大きく揺るがすことに繋がっていくことになるとは、そのときは当然気づいていなかった。
「あの、大丈夫ですか?」
その人物は、加藤を振り向いた。濡れた長い前髪の隙間から、中性的でどこか儚げな目鼻立ちが覗いている。髪が白髪に近い色をしているから、てっきり、もっと歳を取っているかと思っていたが、二十代より上には見えなかった。
「あの、よろしければタオルでもお貸ししましょうか?そんなに濡れていては……」
「どうでもいいだろ」
疲れたような、低い、しゃがれ声だった。しかし、土砂降りの中でも、何故かハッキリと響く声だった。
「どうせ、もう濡れてるし、こんなに降り続いていちゃあ、な」
濡れた銀髪の人物と、濡れていない加藤が向かい合った。加藤は、男の無礼な物言いに対して腹を立てることもなく、自分が濡れることなど、本当に心底どうでも良さそうな、その、銀髪の男の無造作な言い方に驚いていた。
銀髪の男は、加藤を見て、首を傾げた。そのときだけ、この無礼な男にも愛嬌があるように見えた。
「お前、最近近くで、誰か『蘇った』か?」
加藤は、何も答えなかった。
一瞬だけ時間が止まり、音も光も遠くなって、暗い世界に突き放されたようだった。
「もう少し行った先を曲がったところに、コンビニがあります」
加藤はどうにか、平静を装った。
「そこなら、傘も売っていると思いますよ。いくら濡れているからって、そのままじゃ具合が悪くなります」
「ありがとう」
銀髪の男は感謝を感じているどころか、どこか迷惑そうに言って、ブラブラと去っていった。加藤は、ザワザワとした不安を感じていた。銀髪の男が、加藤に教えられたコンビニに寄らないだろう、という不安ではなかった。もっとぼんやりとした輪郭で、加藤を飲み込もうとするような、大きな不安だった。
そのとき、加藤はその男の、ヒグラシという名前を知らなかった。
銀髪の男に出会ったことを、加藤は響子に話さなかった。ほんの少しでも、響子に不安を感じさせたくはなかった。
花音は結局一週間も眠り続けて、目が覚めたときには、以前の花音ではなくなっていた。スッキリと憑き物が落ちたような、まさに、『蘇った』ような顔で、花音はどこか喋り慣れていないようにぎこちない、けれど、丁寧な口調で言った。
「加藤さん、響子さん。カノンはパパとママと、ユウイチくんとユウジくんに、もう一度会いたいのです」
◇◇◇
マサキなんて、知らない。
少なくとも、ヒグラシが探しているようなマサキという人物は知らない。
どこの誰が、どんなにそのマサキという人物を大切に想っているか、会いたいと願っているか、なんて。
そんなの、……。
「関係ない」
加藤は吐き捨てた。
ヒグラシは、眉を顰めたようだ。
「そんな奴は、知らない。知っていても、あんたには教えない」
「そうか?」
ヒグラシは、皮肉っぽく言った。
「知っていても教えてくれないんじゃあ、仕方ないな。なら、マサキに関わりがありそうな人物について教えてもらおうか」
「何……何を、言って……」
ザワザワザワザワ……。
胸が、騒ついた。
「儚く遠く、近いところから」
「はぁ?」
ヒグラシがいきなり呟いた言葉に、加藤はポカンと口を開けた。会話の前後が分からなかった。
「何を、言って……」
「聞き覚えが、ある言葉だな?」
聞き覚えは、あった。もちろん。
「小説のタイトルだろう?確か、死んだ人間が生き返って、夜毎主人公の元を訪ねるという……」
「そうだ」
ヒグラシが、鋭く、刺すような目つきで加藤を見た。
「生き返った死者はコーヒーしか飲まない。鏡に映らない」
ここでヒグラシは、自分の言った言葉を頭の中で確かめるように、一瞬口を閉ざした。
「『蘇り』に似ている」
加藤は、グッと目を閉じて、目蓋の裏でチカチカするものを感じながら、再び目を開けた。
「偶然だ」
「そうかな?」
「偶然に決まっている。生き返った死者に会うなんて、小説や映画ならよくある話だ」
「お前も、似たような経験をしたわけだしな」
加藤は、それについては答えなかった。
「生き返った死者が特定の飲み物しか飲まないのも、鏡に映らないのも、『蘇り』の特徴だ」
「だからと言って、あんたの言うマサキに関係あるかなんて、分からない」
早く、立ち去るべきだ。
こんな無礼で、相手への思いやりも配慮も感じさせない、こんな男の元など。
早く。
早く。
早く。
早く、忘れたいのだ。
「縁がないなら、マサキのことは諦めさせるつもりだった」
ヒグラシは言った。
「でも、どうやら縁はあったみたいだな……めんどくせぇけど」
相変わらず、相手が何を思っているのか、どんな痛みや傷を抱えているか、なんて、この男には関係ないようだった。
「『蘇り』なんてモノは、こちら側に長く留まればそれだけで厄介だ。災いが引き寄せられる。いてはならないモノだ」
「花音はモノじゃない」
「あのとき『蘇った』のは、あんたの娘であったと同時に、あんたの娘以外のモノだった」
早く、忘れたいのに。
未だに、痛くて苦しくて、叫びたくなるんだ。
一番辛かったのは、花音だったろうに。
あの子はただ、もう一度家族に会いたかっただけなのに。
頭の中がグラグラする。目を閉じる。目蓋の裏で様々な光が点滅する。祭りの喧騒。少女の悲痛な叫び。『蘇って』でも、叶えたかった願い。
「作家の名前は、筆名かもしれないが夢塚。主人公の息子の名前は」
「マサキ、じゃないのか」
加藤が言うと、ヒグラシは加藤の顔を見返してきた。
「夢塚は筆名じゃなく、本名だ。マサキというのは、そいつの息子の名前だよ」
ただし、実際に会ったことはない。
だから、知らない。
緑が痛いほどに鮮やかな、初夏の光景だった。
加藤は花音と響子と共に、公園に来ていた。ベンチに並んで座り、コンビニで買ったおにぎりやサンドイッチ、お菓子を食べていた。花音は相変わらず水しか飲まず、加藤や響子が食べ物を勧めても、決してそれらを口にしようとはしなかった。ペットボトルの水を飲み干すと、花音は立ち上がって駆け出し、公園の遊具で遊び始めた。
「花音」
響子が呼ぶと、鉄棒に脚を引っ掛けて遊んでいた花音は、なぁに?と大きな声で返してきた。
「シャボン玉やるー?」
響子もまた、大きな声で言った。
「んー……やる!」
花音は、パッと弾けるような声で言って、ベンチから立ち上がりかけた響子を押し倒そうとするかのような勢いでしがみついた。響子は花音に、シャボン玉の容器と、筒を渡した。花音は早速容器の蓋を開けて、ジャブジャブと筒の先をつけると、プゥ、と思い切り頬を膨らませた。シャボン玉は上手く膨らまず、筒の先からポタポタと泡立った液体が滴った。花音はもう一度、身を反らしながら思い切り、プゥ!とやったがシャボン玉は膨らまなかった。花音は、あれれ?というように首を傾げた。そのあどけなさに、加藤は思わず笑いかかった。
「タンポポの綿毛を飛ばすみたいに、ふぅって、優しく吹くのよ」
響子が花音に優しく教えた。
花音はその後、もう一度失敗した後、ふうっとシャボン玉を吐き出した。シャボン玉は虹色にキラキラと輝きながら、空の向こうへ消えていった。
「わぁ……!」
花音は目を輝かせて、もう一度シャボン玉を吹いた。キラキラと輝くシャボン玉に、親の足元にしゃがみこんで遊んでいた花音より小さな子どもが、不思議そうに指差し、手を伸ばそうとした。
「花音、大きなシャボン玉作ってやろうか」
加藤が言うと、花音は名残惜しそうにしながら、加藤にシャボン玉の容器と筒を渡した。加藤は筒を液体に浸して、ふぅっ……と慎重にシャボン玉を膨らませた。大きなシャボン玉は、ノロノロと低い位置を飛んで、パチンと弾けた。もっと大きなシャボン玉を膨らませようとすると、シャボン玉は筒の先で、パチンと弾けてしまった。もう一度やろうとしても、同じだった。
「牛と張り合うカエルのお腹みたいね」
響子が笑って言った。加藤は一瞬その例えの意味が分からなかったが、すぐに気づいてニヤニヤとした。
「なぁに?それ?」
花音だけが、分からないようだった。
「カエルの子どもが大きな牛を見たって言ってね、お父さんカエルが、これくらい大きかったか?って言いながらお腹を膨らませるの。子どもは、違うよもっと大きかったよってお父さんカエルに言うの。お父さんは、これくらいか、これくらいかって言いながら、お腹を膨らませていく。やがて、お父さんカエルのお腹は、パチンと破れてしまいました、という話よ」
響子が説明すると、花音はハッという顔をして、恐る恐ると加藤の腹を見た。
「俺の腹は破れないぞ」
加藤は言った。
「鍛えているからな。これでも、腹筋割れてるんだぞ。パンチしてみろよ」
花音は、パーンチ、と言って加藤の腹を拳で叩いた。加藤は腹筋に力を込めて、花音のパンチを受け止めた。子どもとはいえ、結構容赦のない力だった。加藤さん、強い、と言って花音は目も口も丸くした。正義の味方だからな、と加藤は言った。
花音と同じくらいの男の子が駆け寄ってきて、通りすがりに加藤の脇腹を小突いて言った。不意打ちだったので、結構痛かった。男の子の母親らしき女性が、男の子に向かってコラッと叫びながら、加藤に謝った。花音は加藤の尻あたりを、拳でペチペチ叩いていた。
響子の足元に、フリスビーが転がってきた。大きめの犬が駆け寄ってきて、フリスビーを咥えた。響子は、キャッと驚いた声を上げた。響子は、犬や猫が苦手だったのだ。花音は犬に向かって、ウー、と唸る仕草をした。犬は賢そうに輝く目で花音を見返すと、プイとそっぽを向いてフリスビーを咥えたまま、飼い主の方へ尻尾を振りながら歩いていった。中学生か高校生くらいの飼い主の少年は、加藤らに向かって頭を下げた。犬は飼い主の足元にまとわりつきながら、褒めて欲しそうに飼い主を見上げた。頭の良い犬だと、加藤は感心した。
雨が降っていた。
その日、いつものように交番で仕事をしながら、加藤はどこか落ち着かなかった。その数日前から、花音が眠り続けて起きないのだと、響子から連絡があったからだった。体に触れてみても、熱はない。ただ、穏やかに眠っている。
医者に診せるべきだと響子が言うのを、加藤はどうにか止めていた。自分たちにとって、花音は確かに生きているが、周りにとっては違う。花音のことを知らない赤の他人ならともかく、医者にかかって、もし花音の体に常人とは違う、つまり、生き返ったことのない人間とは違うものが見つかったら、花音や響子がどんな目に遭わされるか分からなかった。花音はどこかの医療施設か何かで、バラバラにされるかもしれない。響子は、花音が最初に死んだとき以上の傷や悲しみを負うことになるかもしれない。そもそも、一度亡くなった花音には、保険証も、診察券もないのだ。
とにかく、今は眠っているだけなのだ、暫く様子を見よう、と加藤は響子を説得し、響子も、渋々ながら納得しようとしているようだった。花音は、少し昼寝をしているのと変わらない様子だった。看護も必要としていない様子だった。首筋に触れればしっとりと温かくて、そこで可愛く動く脈の存在を感じて、加藤は微笑んだ。響子はじっとしていられないらしく、弁当屋も休んで、花音の髪を櫛で梳かしたり、唇に水で濡らした布巾を当てたりした。
しかし、一向に花音が目覚める様子がないまま、五日が経っていた。花音は、還ろうとしているのかもしれない、と加藤は思い始めていた。よく分からないが、花音のような一度死んだ人間が、あるべき場所へ。元々、死んだはずの花音が生き返ってくるというのが、あり得ないことだったのだ。加藤は、ほんの少しの間、幸せな時間の中にいた。
しかし、響子は違う。響子が花音と共に過ごした時間の長さも密度も、加藤とは違う。諦めよう、夢だったんだ、で済むことでも、そんな陳腐な言葉で癒される傷や悲しみでもないだろう。しかし、だからといって、医者でも坊主でもない加藤には、どうしたらいいのか分からない。
花音が目覚めないと連絡を受けてから、加藤は、仕事以外は響子の住むアパートで過ごすようになっていた。響子の住む部屋は、大人二人と子ども一人が暮らすには多少狭いが、綺麗に片付けられていた。花音の仏壇は見当たらなかった。花音が生き返った日に、響子が片付けたのかもしれない。花音が図工の時間で作ったという、貝殻とビーズで飾りつけられた手作りの写真立てには、三人で撮った結婚写真が入れられていた。
図らずも、家族三人の暮らしだった。響子の住むアパートに帰ると、夕飯が用意されている。夜はベッドで眠る花音を間に挟んで、響子は花音の右隣、加藤は布団を敷いて花音の左隣で眠った。
花音は懇々とよく眠っていた。これが、生き返った花音があるべき場所へ還る前兆なのかと、加藤は思った。
花音の髪を梳かし、花音に水を飲ませようとする響子に、言うべき言葉を、加藤は探していた。しかし、響子の、透き通るように白い肌や、悲しげに潤んだ目を見ていると、何も言えなくなって、眠る花音の手を、そっと握るしかなかった。そうすると、花音がキュッキュッと二回、握り返してくるのではないかと思って。
その日も加藤は、響子の住むアパートに帰るつもりだった。外は土砂降りだった。昼間は晴れていたが、午後を過ぎた辺りから雲行きが怪しくなり、雨が降り始めたのである。様々な色の傘が、童話に出てくる奇妙なキノコのように、道を行き来をしていた。中には天気予報を見ていなかったのか、鞄を傘代わりにしながら急いで駆けていく学生の姿もあった。
奇妙だな、と思ったのは、その人物が長い銀髪だったことではない。背中に竹刀袋を背負っていたからでもない。そんな土砂降りの中を傘も差さずに、悠々と歩いていたからだった。当然、頭のてっぺんから爪先までかけてビシャビシャと雨に濡れて、水を多く含んだ服が体に張り付いている。着古したような半袖のシャツに、ズボンだった。
その人物が交番の前をゆっくりと通り過ぎようとしたとき、加藤は思わず、あの、と声をかけていた。どこか、具合でも悪いのかと思った。しかしそれは、加藤が後々そのときの自分の行動を思い出して、言い訳する為の方便に過ぎなかった。それが、後に加藤の人生を大きく揺るがすことに繋がっていくことになるとは、そのときは当然気づいていなかった。
「あの、大丈夫ですか?」
その人物は、加藤を振り向いた。濡れた長い前髪の隙間から、中性的でどこか儚げな目鼻立ちが覗いている。髪が白髪に近い色をしているから、てっきり、もっと歳を取っているかと思っていたが、二十代より上には見えなかった。
「あの、よろしければタオルでもお貸ししましょうか?そんなに濡れていては……」
「どうでもいいだろ」
疲れたような、低い、しゃがれ声だった。しかし、土砂降りの中でも、何故かハッキリと響く声だった。
「どうせ、もう濡れてるし、こんなに降り続いていちゃあ、な」
濡れた銀髪の人物と、濡れていない加藤が向かい合った。加藤は、男の無礼な物言いに対して腹を立てることもなく、自分が濡れることなど、本当に心底どうでも良さそうな、その、銀髪の男の無造作な言い方に驚いていた。
銀髪の男は、加藤を見て、首を傾げた。そのときだけ、この無礼な男にも愛嬌があるように見えた。
「お前、最近近くで、誰か『蘇った』か?」
加藤は、何も答えなかった。
一瞬だけ時間が止まり、音も光も遠くなって、暗い世界に突き放されたようだった。
「もう少し行った先を曲がったところに、コンビニがあります」
加藤はどうにか、平静を装った。
「そこなら、傘も売っていると思いますよ。いくら濡れているからって、そのままじゃ具合が悪くなります」
「ありがとう」
銀髪の男は感謝を感じているどころか、どこか迷惑そうに言って、ブラブラと去っていった。加藤は、ザワザワとした不安を感じていた。銀髪の男が、加藤に教えられたコンビニに寄らないだろう、という不安ではなかった。もっとぼんやりとした輪郭で、加藤を飲み込もうとするような、大きな不安だった。
そのとき、加藤はその男の、ヒグラシという名前を知らなかった。
銀髪の男に出会ったことを、加藤は響子に話さなかった。ほんの少しでも、響子に不安を感じさせたくはなかった。
花音は結局一週間も眠り続けて、目が覚めたときには、以前の花音ではなくなっていた。スッキリと憑き物が落ちたような、まさに、『蘇った』ような顔で、花音はどこか喋り慣れていないようにぎこちない、けれど、丁寧な口調で言った。
「加藤さん、響子さん。カノンはパパとママと、ユウイチくんとユウジくんに、もう一度会いたいのです」
◇◇◇
マサキなんて、知らない。
少なくとも、ヒグラシが探しているようなマサキという人物は知らない。
どこの誰が、どんなにそのマサキという人物を大切に想っているか、会いたいと願っているか、なんて。
そんなの、……。
「関係ない」
加藤は吐き捨てた。
ヒグラシは、眉を顰めたようだ。
「そんな奴は、知らない。知っていても、あんたには教えない」
「そうか?」
ヒグラシは、皮肉っぽく言った。
「知っていても教えてくれないんじゃあ、仕方ないな。なら、マサキに関わりがありそうな人物について教えてもらおうか」
「何……何を、言って……」
ザワザワザワザワ……。
胸が、騒ついた。
「儚く遠く、近いところから」
「はぁ?」
ヒグラシがいきなり呟いた言葉に、加藤はポカンと口を開けた。会話の前後が分からなかった。
「何を、言って……」
「聞き覚えが、ある言葉だな?」
聞き覚えは、あった。もちろん。
「小説のタイトルだろう?確か、死んだ人間が生き返って、夜毎主人公の元を訪ねるという……」
「そうだ」
ヒグラシが、鋭く、刺すような目つきで加藤を見た。
「生き返った死者はコーヒーしか飲まない。鏡に映らない」
ここでヒグラシは、自分の言った言葉を頭の中で確かめるように、一瞬口を閉ざした。
「『蘇り』に似ている」
加藤は、グッと目を閉じて、目蓋の裏でチカチカするものを感じながら、再び目を開けた。
「偶然だ」
「そうかな?」
「偶然に決まっている。生き返った死者に会うなんて、小説や映画ならよくある話だ」
「お前も、似たような経験をしたわけだしな」
加藤は、それについては答えなかった。
「生き返った死者が特定の飲み物しか飲まないのも、鏡に映らないのも、『蘇り』の特徴だ」
「だからと言って、あんたの言うマサキに関係あるかなんて、分からない」
早く、立ち去るべきだ。
こんな無礼で、相手への思いやりも配慮も感じさせない、こんな男の元など。
早く。
早く。
早く。
早く、忘れたいのだ。
「縁がないなら、マサキのことは諦めさせるつもりだった」
ヒグラシは言った。
「でも、どうやら縁はあったみたいだな……めんどくせぇけど」
相変わらず、相手が何を思っているのか、どんな痛みや傷を抱えているか、なんて、この男には関係ないようだった。
「『蘇り』なんてモノは、こちら側に長く留まればそれだけで厄介だ。災いが引き寄せられる。いてはならないモノだ」
「花音はモノじゃない」
「あのとき『蘇った』のは、あんたの娘であったと同時に、あんたの娘以外のモノだった」
早く、忘れたいのに。
未だに、痛くて苦しくて、叫びたくなるんだ。
一番辛かったのは、花音だったろうに。
あの子はただ、もう一度家族に会いたかっただけなのに。
頭の中がグラグラする。目を閉じる。目蓋の裏で様々な光が点滅する。祭りの喧騒。少女の悲痛な叫び。『蘇って』でも、叶えたかった願い。
「作家の名前は、筆名かもしれないが夢塚。主人公の息子の名前は」
「マサキ、じゃないのか」
加藤が言うと、ヒグラシは加藤の顔を見返してきた。
「夢塚は筆名じゃなく、本名だ。マサキというのは、そいつの息子の名前だよ」
ただし、実際に会ったことはない。
だから、知らない。
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西田〇〇=安田顕さん
管理官=緋田康人さん(半沢直樹で机バンバン叩く人)
名前の後ろに来るアルファベットの意味は以下の通りです。
M=モノローグ (心の声など)
N=ナレーション
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
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